第14話 クノッソス 其の三

 俺は疲れきって宮殿に戻った。腹ぺこだった。朝メシの後、何も食べてない。台所に回って下働きを叩き起こし、何でもいいから腹に入れるものをくれ、と頼んで、干からびたパンとチーズを一切れもらった。水樽から冷たい水をぐうっと飲んで、俺はミノス王に報告に行った。

 ミノス王はまだ、玉座の間にいて、書類を見ていた。こんな遅い時間まで働いてるのは、王と奴隷だけだ、と思うと笑えてきた。

 ミノス王は顔を上げて俺を見ると、書類を置いて手招きした。俺は王の前に膝をついてかしこまった。

「アリアドネはどうしている?」

「町の鍛冶屋でお見かけしました」

 ダイダロスのことは言えない。

「蹄鉄を打ってもらってたのか?」

「いえ…。剣をご所望のようでした」

 王はため息をついた。

「服をあつらえろと言ったんだがな。その他には?」

 俺は町で小耳に挟んだ噂話をいくつか話してやった。王は興味なさそうに聞いていたが、俺が話し終わると、今度のトーナメントだが、と言い出した。

「テセウスが出場することになった。そのつもりで、やつの周辺に気をつけていろ。それと、将軍の動向は必ず報告しろ」

 俺は頭を下げて御前を退出すると、ようやく、女房と子供の待っている、俺の小さな部屋に向かった。

 今からもう十年ほども前、俺が王の耳になりたての頃だった。宮殿の中の噂話を集めようと、俺は近くの小川に行った。

 小川には、岸辺からせり出すように、板張りの洗濯場を作ってある。女たちはそこに山のように亜麻布を積み上げて、川から桶で水を汲みあげては、布を木べらで叩いたり、打ち伸ばたりして汚れを落としていた。働きながら、女たちは小鳥のようにひっきりなしにさえずっている。宮殿にやってくる御用商人が珍しい青い色の陶器の皿を持ち込んできたこと、厩舎で働く新米の奴隷が馬に嫌われて噛みつかれたこと、庭師の女房が子供を生んだことなどを川の水音に負けない大声で喋り散らす。俺は近くの葦の中に身を潜めて、じっと彼らの話に耳を傾けていた。

 突然、一人の女が洗濯物を持って川に入り込んでいくのが見えた。桶で水を汲むのが面倒になったらしい。着物の裾を腰までたくし上げ、身を屈めてざぶざぶと洗っている。そのむっちりした太ももの白さといったら! 俺はその女から目が離せなくなった。息を呑んで見つめていると、女がくるっと振り返って、葦の中にいる俺と目が合った。俺は狼狽したよ。白状すると、顔が赤くなるのがわかった。女の方はきょとんとした顔をしていたが、ふいに白い歯を見せてにっと笑った。

 色こそ白いが目も鼻も小さくておちょぼ口だ。お世辞にも美人とは言えないけど、笑った顔に愛嬌がある。それが俺の女房になった女だ。俺より五歳ぐらい年上で、フリギアと呼ばれてる。奴隷の名前は大概、その出身地だから、多分、女房はフリギアの出身なんだろう。だろう、というのは、本人もよく知らないからだ。物心ついた時には、母親と一緒にクノッソスで洗濯をしていた。その後、母親の方はよそへ売られて、女房は一人ぼっちになった。俺も売られてきて一人だった。そんなこんなで、なんとなくくっ付いているうちに、女房の腹が目立って大きくなってきた、というのが実情だ。

 女房ったって、どっちも奴隷だからね。結婚式をあげるわけじゃない。ただ、子供が生まれると小部屋が与えられて親子で暮らせる。煮炊きの設備はないから、食事は他の奴隷たちと一緒に大部屋でするけど、メシの後で、女房と息子と三人で寄り固まって、今日一日の出来事を話したり、息子の拾ってきたドングリを割って食べたりしてると、少しは人間らしい気もした。

 宮殿はもう、しんと寝静まってた。壁の向こう側でねずみが騒ぐカサカサという音、廊下の所々に掲げられた松明の火の爆ぜる音が、よけいに静かさを深めるようだ。俺は足音を忍ばせて、曲がりくねった宮殿の廊下をたどっていった。

 女房はまだ起きていた。寝床の上にぺたんとすわって、部屋に入ってきた俺を見上げる。

「遅かったね」

「仕事だ」

「腹が減ってるんだろ」

 女房は野生のベリーをいく粒か出してくれた。川の傍の藪で見つけたという。ありがたく食いながら、女房の顔を改めて見た。一緒になった頃は、もっとふっくらした頬をしていたんだが、いつの間にか痩せて、細い目の光ばかりが強くなった。亜麻布を洗い続けた手は筋張って脂を失い、そのがさがさした指先で撫でられると、固い殻を被った蟹とか海老に触られたような連想が湧いて、夜の営みの最中でもふいに熱が冷めてしまう。もっとも睦みあうことなど、もう、久しくご無沙汰してる。夜は、眠りのためだけの時間になりつつあった。

「イカロスの具合がよくないんだよ」

 女房がポツンと言った。

 俺はまたか、と思った。息子のイカロスは、ひよわだった。十歳になるが、同年の少年たちに比べて体は小さく、すぐに風邪を引き、熱を出した。頑丈だけがとりえの俺と女房の間に、どうしてこんな子が生まれたのだろう、と時々思う。ただ、幸いなことに、親に似ず頭の出来の方は良かった。奴隷頭がイカロスに文字と数字を教えると、砂が水を吸い込むようにぐんぐんと吸収した。この分なら売られることはないだろう。外働きでは役に立たなくても、宮廷の奥向きで書記か、うまくいけば秘書ぐらいになれるかもしれない、と俺は期待していた。

 俺はイカロスの寝ている隅にいざって行って、覗き込んだ。

 息子は眠っていた。浅い、苦しそうな呼吸が母親譲りの小さな鼻腔から洩れている。額にはうっすらと汗をかいていた。

「他の子供たちと野イチゴを取りに行った帰りに、宮殿まで競走をしたんだと。帰ってくるなり、真っ青になって胸が苦しいって倒れたんだ。奴隷頭がここへ運んできてくれた。医者様から薬湯をもらって、やっと落ち着いたんだ」

 女房の声はこの部屋を包む闇のように暗かった。

「医者様は、この子は心臓に悪いところがあるって言うんだ。生まれつきだから、なおらないだろうって」

 奴隷でも医者にはかかれる。同情ではない。奴隷は財産だからだ。だが、もし、直る見込みがなかったら、それは厄介者に過ぎない。病気になった家畜と同じ、即刻、売り飛ばされるか、殺されるだろう。

「奴隷頭はそれを聞いてたのか?」

 女房は無表情にうなずいた。

 その時、イカロスが身動きして目を開けた。無言のまま、まじまじと俺の顔を見ていたが、急に思い出したように、にっと笑った。

「お帰り、父さん」

「お前は病気だ。寝てろ」

 そう言って俺は顔をそむけた。この子の運命はもう決まった。奴隷頭が聞いた以上、家うちの差配をする家令が聞く。近いうちに奴隷商人が呼ばれるだろう。王女様、あなたは俺の女房、子供を質に取ったが、それもあまり長くは持ちませんよ、と俺は腹の中で笑った。イカロスがいなくなれば、俺と女房が一緒にいる意味はなくなる。女房は女奴隷の小屋へ戻っていくだろう。

 テセウスの膝に縋り付いていた女の姿が脳裏に浮かんだ。俺と女房の間にも、あんな時期があった。遠い昔のことだ。はるか昔の……。

「俺はもう寝る」

 俺は寝床になっている藁の上に横になると、ボロ布を引っかぶった。

「お前も寝ろよ。明日、辛いぞ」

 女房は無言だった。真っ黒な石に化したように、寝床の上にすわったまま、動かなかった。

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