第13話 王とテセウス

 俺は再び蝙蝠のように逆さまに身を乗り出して、窓から中を覗き込んだ。王は、にこやかにオノリウスと挨拶を交わしていた。

「いかがですかな、オノリウス殿。約定通り、アテネの客人たちは快適な暮らしを楽しんでおられると思うが」

「そのようです」

 オノリウスは強張った顔で答えている。ミノス王が迷い谷の貢物を訪れるのは初めてのはずだ。九年前は、最後の夜、ラビリンスの前で出迎えるまで、王は一切、貢物のアテネ人とはかかわりを持とうとしなかった。

「もし、何か不足のものがあれば、遠慮なく申し出られよ。さて、日も沈んだことだし、外はかなり暗くなってきた。そろそろ夕食の支度ができておる頃だ。こちらの乙女は女蔵の方に戻っていただいた方がよかろう。番兵」

 ミノス王についてきた兵士のうちの二人が、両側から女の腕を取った。女は一瞬だけ、テセウスを強く抱きしめると、素直に立ち上がって部屋から出て行った。

「オノリウス殿もお帰りだ。町まで送ってさしあげろ」

 と、王は残りの番兵に言った。

「足元に気をつけられよ。松明を持っていかれた方がよろしかろう。これ、ちゃんと足元を照らしてさしあげるんだぞ」

 オノリウスは自分で連れてきたロードス人と、王が連れてきた番兵に囲まれて、部屋から送り出されていった。

 王は残った番兵に、蔵の外に出ているように言った。番兵はテセウスを見て、承服しかねるような顔をしたが、王はさっきまでの猫なで声が嘘のような冷たい声で命令を繰り返した。

「松明を持っていけ。それから、誰もこの部屋に近づけるな」

 兵は即座に命令に従った。

 真っ暗な部屋の中には、テセウスと王だけが残った。

「お前がテセウスか。アテネ一の勇者にしては、優しげな顔だ」

 ミノス王の言葉に、テセウスは黙ったまま目を光らせた。

「ミノタウロスを殺すために来たのだろう? 勇ましいことだ」

 王の言葉には揶揄の響きがあった。

「籤引きだのなんだのは嘘だ。お前は自分で望んで来たのだろう。わからないのは、なぜアイゲウス王が認めたか、ということだ。お前は父王と仲が悪いのか?」

「お前はしゃべりすぎるな、ミノス」

 真っ暗で表情は見えないが、テセウスの声には押さえた怒りがこもっていた。

「おや、ようやく口をきく気になってくれたか」

 ミノス王は余裕たっぷりに言った。

「父王は反対した。だが最後には、こうすることが正しいとわかってくれた。ミノタウロスは人間の敵だ。滅ぼさなければならない」

「仮にそうだとしても、お前がやることはなかろう。誰か他の者にまかせればよい」

「いや、これはわたしの仕事だ」

「なるほど、そういうわけか」

 暗闇のなかでミノス王がにやりと笑うのが目に見えるようだった。

「お前はアテネの生まれではなかったな。アイゲウス王がビチュニアの神殿に神託を受けに行った帰りにトロイゼンの豪族の屋敷で一夜、歓待を受けた。その豪族の娘がお前の母だったな」

 テセウスの答えはなかった。

「アテネは洗練された文化と芸術の都、全ギリシアの華だ。一方のトロイゼンは……。素朴でいい所だ。緑の草地に点々と羊が群れなして草を食む。心和むわい。だが、トロイゼンの人間が駒鳥なら、アテネの人間はカナリヤだ。わしは、お前にとって辛かったろうと言っておるのよ、テセウス。野の駒鳥が、きらびやかな宮廷の鳥かごに入れられて、いきなり美しい声で歌えと言われたって……」

「黙れ!」

 テセウスの激高した声が聞こえた。

「しかもお前は王の跡継ぎだ。アテネに行って以来、底意地の悪いアテネ人に一挙一動を見張られ、何かと批判されたはずだ。表向きには黙っていても、裏でこそこそ囁き、嘲笑う。わしも宮廷で生まれ育った人間だ。お前がどんな思いをしてきたか、想像はつく。だからお前はここに来たのよ。アイゲウス王は認めざるを得なかった。お前は、アテネをミノタウロスから救うことで、自分がアテネ王の跡継ぎとしてふさわしいことを証明するつもりだ」

「それの何が悪い」

 テセウスの声は落ち着きを取り戻していた。

「悪いとは言っていない。見上げた根性だと感心している」

「感心などしてくれなくていい。わたしは必ずミノタウロスを倒す」

「無理だ」

「倒す!」

「テセウス。もし、わしが、貢物の約定を破棄すると言ったらどうする?」

「なんだと……」

「ある条件が満たされれば、わしは約定を破棄する用意がある。永久にだ」

 老獪なミノス王は、闇の中でテセウスの呼吸を測っている。思いがけない申し出に驚き、好奇心を募らせている若い相手の心をあやまたず秤にかけている。

 テセウスは負けた。

「その条件を言ってみろ」

「この島では毎年、夏至に武道トーナメントを行う。島中の腕自慢の若者が、剣を取って打ち合うのよ。荒っぽいトーナメントでな、毎回、何人かが怪我をする。運の悪い者は命を落とす。だが、優勝者に与えられる栄誉は一生のものだ。今年のトーナメントに、ポントウス将軍が出場すると宣言した」

「クレタ軍の総司令官だろう?」

「その通り。これで今年の優勝者は決まった。ポントウス将軍だ」

「しかし、ポントウスはもう、五十を過ぎているはずじゃないか」

「きっかり五十歳だ。しかし、ポントウスに勝てる者はおらん」

「そんなに強いのか?」

 テセウスの声は純粋に感心していた。ミノス王が苦笑する。

「強いことは強い。しかし、クレタの若者が、五十歳の爺さんに遅れをとるほど軟弱だと思ってもらっては困る。単に、将軍は勝つ、というだけよ」

「八百長か」

「そうだ。ポントウスは夢にも知るまいがな」

「よくわからない」

「つまり、若者たちは彼らの愛するオヤジに勝ちたくないのよ。彼ら同士は真剣に試合うだろうが、オヤジには花を持たせる。今年の真の優勝者はだから、第二位になった者、ということになるだろう」

 テセウスの笑い声が聞こえた。

「微笑ましい話じゃないか。この殺伐とした島にそんな人情話があるとはね」

「心温まる話よ。わしにとっては困った話だがな」

「何が困る」

「ポントウスの人気が上がる」

 ミノス王の声は低く、陰惨といっていいほど暗かった。

「将軍はわしの叔父だ。軍を握って今でもわしよりもはるかに人気がある。国王より愛される将軍というのが、どれほど危険で、どれほど癇に障る存在か、お前も国王になったらわかるだろう」

「すると、条件というのは?」

「トーナメントに出場して、ポントウスを打ち負かせ。そうすれば、トーナメントの優勝者に敬意を表するという口実で、約定は破棄してやる。お前たちは全員、翌日の船でアテネに送り返してやる」

 暗闇の中で、テセウスは考えこんでいるようだった。

「どうだ、やってみないか。ミノタウロスを倒してラビリンスを脱出するなど不可能だぞ。それよりは、正々堂々とトーナメントで戦って、約定の破棄を勝ち取ったらどうだ」

 ミノス王の声には隠しようのない熱意と、ひそかな懇願があった。テセウスは、じらすようにゆっくりと言い出した。

「やってみてもいいが……」

「が、何だ」

「お前が約束を守るという保証がほしい」

「わしの言葉だ」

「馬鹿いえ」

「誓文でもほしいのか」

「トーナメントの始まる前に、わたしが優勝したら、貢物の約定は破棄すると観客の前ではっきりと宣言しろ。それができないならこの話はなしだ」

 ミノス王は一瞬ためらったが、よかろう、と言った。

「トーナメントは一週間後だ。それまで、せいぜい訓練しておけ。将軍と当たるのは必ず決勝戦になる。それまでにお前が負ければ、全ては水の泡だ。肩は大丈夫か」

「心配しなくてもいい」

 テセウスはこともなげに言った。

「それより、一つ、質問がある」

「何だ」

「約定を破棄した後、ミノタウロスはどうなる?」

「それこそ、アテネ人の心配することではあるまい」

「だが、生贄は必要なのだろう?」

「もちろんだ」

「奴隷か?」

 ミノス王は答えなかった。もちろん、そうするつもりなのだ。奴隷は人ではないから。俺は怒りに震えながら思った。

「明日、練習用の長剣がいくつか届くように手配しておく。腕を磨いておけよ」

 ミノス王が立ち上がる気配がした。扉に向かって歩く。

「ミノス」

 立ち止った。

「何だ」

「トーナメントは真剣勝負だと言ったな。もし、わたしとの試合でポントウスが重傷を負ったらどうする?」

 ミノス王はさらりと答えた。

「将軍に運がなかったと誰もがあきらめるだろう」

「なるほど」

 俺にはミノス王の狙いがわかった。正にそれこそが王の目的なのだろう。テセウスの手で邪魔な将軍を除いてしまいたいのだ。重傷どころか、できれば死んでほしいというのが本音なのだろう。

 ミノス王は再び歩き始めた。

「ミノス」

「まだ何かあるのか」

「お前が兵士に松明を持って行かせたわけがわかった。わたしは、この闇がありがたい。お前の顔を見ないで済む。卑怯な人殺しの顔を」

 しゅう、とミノス王が激しく息を吐き出す音が聞こえた。おそらく、怒りで青ざめていることだろう。だが、自制心の方が強かった。間もなく、松明の明かりと番兵に守られて、ミノス王は、松林の中に消えていった。

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