第15話 将軍

 トーナメントにテセウスが出場する、という布告は、ちょっとしたセンセーションを巻き起こした。布告は朝一番で町の市場に張り出され、商売や買い物に出てきた人々はそれを囲んで、興奮して声高に批評したり、お互いに議論しあったりしていた。

 人々は彼が貢物の一人だとは知らない。貢納のための大使としてアテネから派遣された彼が、気まぐれを起こしてトーナメント参加を申し出たと思っている。人々の大方は、この突然の飛び入りを歓迎しているようだった。アテネの勇者、テセウスの評判はクレタにも届いていた。これでトーナメントは一段と面白くなる。人々は、優勝候補と言われているクレタの若者とテセウスの実力をあれこれと比較しては、誰に賭けるべきかと悩んでいた。

 ただ、鉤鼻に顎鬚をはやした恰幅のいい男だけは、この布告に心底驚き、混乱しているようだった。その男―オノリウスは、布告を二度、読み返すとすぐに馬に乗り、谷の方に向かって駆け去っていった。

 俺はミノス王に命じられた使命を果たすために、練兵場に向かった。

 いつもなら練兵場の外まで聞こえてくる号令の声が、今日は聞こえなかった。それでいて、人のいる気配はする。俺は樫の並木の間に身を隠しながら、近づいた。

 クレタ人の若者が、十五、六人、丸くなってぼそぼそと低い声で話しあっていた。いずれも体格がよく、鍛えぬいたしなやかな筋肉の持ち主だ。日焼けした若い顔には、空の青、大地の褐色をそのまま移したような澄んだ瞳が開いている。彼らは全員、胸当てを着け、腰に長剣を帯びていた。トーナメントに出場する選手たちだろう。おそらく、訓練のために誘い合わせてここに来たのだろうが、今はそれどころではないらしい。困惑した顔で寄り集まって話し合っている。俺はもう少し近づいて聞き耳を立てた。

「あの布告は本物なのか?」

と一人が言っている。

「俺は見ていた。クノッソスの式部官が自ら指揮して、立てていったんだ。本物だ」

と、もう一人が答える。

「変なことになったな。どうする?」

「どうもしない。一人増えたというだけだ」

「いいや、そうでもないぞ」

 リーダー格らしい一人が、難しい顔で言った。

「テセウスに優勝などされては、クレタ人の名折れだ。第一、あの男は我々とは違う。もし、あの男が決勝戦にまで進めば、オヤジと当たることになる」

「それは困る。オヤジが傷つく」

 他の若者たちが一斉に沈痛な表情になった。

「どうだろう……オヤジを説得して、出場を辞退してもらうんだ」

 一人がためらいがちに言った。

「奥方様から言っていただければ、オヤジもうんというかもしれん」

「逆だ。ますます、決心を固くされるだろう。まあ、あなた、年寄りの冷や水はおやめあそばせ」

 リーダーの言葉は、将軍の奥方の口調にそっくりだった。深刻な話をしているにもかかわらず、若者たちの間から笑いが洩れた。

「やれることは一つしかない。テセウスを決勝戦に出さない、ということだ」

 リーダーの若者は言って、ぐるりと仲間を見回した。

「俺たちの間で潰してしまう」

「だが……強いんだろう?」

 一人が不安そうに言った。

「やりようはある。テセウスだとて、不死身じゃない。もう少し、近くへ寄れ」

 リーダーの言葉に、若者たちの輪が縮まった。俺は耳を澄ませたが、言葉の断片しか聞き取れない。俺は歯噛みした。もう少し近くに藪か溝でもあれば。だが、練兵場は楕円形のすり鉢状の底にある、盗み聞きにはすこぶる便利の悪いところなのだ。すり鉢の縁にあたる土手の部分にぐるりと樫の木が植わっていて、俺はそこに隠れてやきもきしながら若者たちの輪を見守った。リーダーが熱心に何かを話し、若者たちの顔が少しずつ明るくなる。一体、何を話しているのか。

 若者たちの様子にすっかり気を取られていたせいで、俺は練兵場に入ってくる一団の人影を見落とした。

「ほう、みんな、真面目に出てきおったな、感心、感心」

 俺から二十歩も離れていない所から大声が響いた。ポントウス将軍はブロンズの胸当てに白い顎鬚をなびかせ、腰に長剣を帯びた姿で威風堂々と、練兵場に入ってきた。後ろに将軍の奥方と、その侍女たちが続いている。

 輪になっていた若者たちは一斉に膝をついて、うやうやしく頭を垂れた。この場にミノス王がいたら、さぞかし渋い顔をしただろう。若者たちの将軍への拝礼は、王にするより畏れと敬意のこもったものであった。

「みなも聞いておるだろう。アテネのテセウスがトーナメントに参加することになった。勇者として名の聞こえたテセウスだ。クレタ島の名誉にかけて、負けられんぞ」

 将軍は上機嫌だった。甥がめぐらした姦計など、夢にも思い浮かばないのだろう。そもそも、王が自分を恐れていると気づいてもいないし、人に言われても信じまい。この人はそういう人だ。勇敢で義務に忠実で戦では優れた指揮官だが、普段の生活ではどこか抜けている。正義漢で、お人好しで、涙もろくて、人懐こい。

 閣下、とリーダー格の若者が言った。

「我々もみな、驚いているのです。テセウスがクレタに来ているとは知りませんでした」

 うむ、と将軍は顔をしかめた。

「わしも昨日まで知らなかった。ミノス王が谷で見つけたのだ」

「谷で!」

 すると、と若者たちは口々に言った。テセウスは、貢物の一人として来たのですか?

「その通り」

 将軍は若者たちに、ミノス王がテセウスに与えた約束を話した。

「そういうわけだ。わしとしては、全面的に賛成とはゆかんが、約束は約束よ。今度のトーナメントは単に栄誉を競うというだけではない。我らが迷宮の神への供物がかかっておる。テセウスはおのれの国民の命を賭けて向かってくる。つまり、これは戦と同じことよ。心してかかれ」

 将軍は若者たちを二手に分けて、戦闘訓練を始めた。

 奥方はその間に、侍女たちを指揮して樫の木の下に敷物を敷き、飲み物や軽い食べ物を並べている。若者たちの休憩のために用意したものだろう。奥方はクレタ貴族の娘で、将軍とは幼馴染だった。おしどり夫婦と言われている。

 俺はしばらく長剣を振るう将軍を見てから、樫の木陰からそっと抜け出して、練兵場をあとにした。

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