第7話 神託

 俺はぞっとした。ミノタウロスはクレタ島の守り神だ。迷宮の奥深く隠された神。この神ある限り、クレタ島の繁栄は続く。

 これは神託なんだ。

 十八年前、ミノタウロスが生まれた時、宮殿の奴隷女の一人が突如、神がかった。平凡な台所働きだったその女は突然、狂気に取り付かれ、げらげら笑いながら宮殿の中を走り回ったあげく、崖の上から海に身を投じた。女は二度と浮かび上がってこなかったが、後日、その崖の上で女の姿を見た者が頻々と現われるようになった。宮殿に魚を納めにきた漁師、野菜を運んできた農夫、水を汲みに出た女奴隷……いずれも学はないが、正直な働き者だ。彼らの証言はみな同じだった。宵闇の薄暗がりの中にぼうっと白く女の姿が浮かぶ。仰天して見守るうちに、女は厳かな口調で、角ある赤子はこの島の守り、赤子がこの世にある限り、この島の繁栄は約束しよう、だが、ひとたび失われたら、神の恩寵は永遠に失われようと言ったというのだ。

「あれは海の神様の御神託だ、まちがいねえよ」

白い女の幻を見た漁師は言った。海神が、神託を告げるために、狂気の女奴隷の魂を海から送ってよこしたのだ、と言った。

「大きな声じゃ言えないけど、今度生まれたパシファエ様のお子の頭には、角が生えているって話だ。奥仕えの女奴隷がそう言っていたのを、あたしゃ、確かに聞いたんだよ」

と、水汲みの女奴隷はひそひそと話した。

 噂は段々大きくなり、ついにミノス王の耳にも届いた。ミノス王は初めのうち、頭から馬鹿にして相手にしなかった。島の繁栄が神託で決まるなら苦労はない。なんのために自分が日夜、作物の出来不出来に頭を悩ませ、狡猾なカルタゴ商人と海綿の値段交渉で渡り合っていると思っている、と機嫌が悪かった。だが、亡くなった王妃の名前が噂で言及されるようになると、顔色を変えた。神の使いだろうがなんだろうが、クレタ王家の体面に泥を塗るような不埒なやからを生かしておくわけにはいかない、と、護衛の兵を連れて一夕、崖の上で幻を待ち受けた。

 日が西に傾くにつれて、夕闇が濃くなる。夜の冷たさがひたひたと大気を満たし、崖下の岩に打ち寄せる波の音がやけに腹に響くように思える頃、ついに、ぼうっと白い女の姿が現われた。ミノス王と護衛兵は、おおっと声を上げて立ち上がった。長い髪を振り乱した女は、崖っぷちでゆらゆらと揺れながら、細い手をあげて、ミノス王を差し招いた。

 十八年前、ミノス王は壮年の意気盛んな王だった。口々に止める護衛の兵を振り切って、剣を抜くと白い女に近づいた。

「お前は何者だ。何のために我が民を迷わす」

王は長剣を女に突きつけて詰問した。

「王よ、やっとお会いできました」

「何?」

「ミノタウロスを頼みます」

「なんだと……」

「ミノタウロスはわたくしの子、まさか、殺めようなどとお考えではありますまいな」

王の顔から血の気が引いた。

「パシファエ……」

「ミノタウロスを大事にしてやって下さいませ。さすれば、もう、お恨みはいたしません。ミノタウロスが生きてある限り、クレタ島と王陛下の繁栄をお約束いたしましょう」

白い女は消えた。腰を抜かしていた護衛兵がようよう勇気を奮い起こして、主人のもとに駆けつけると、ミノス王は崖の突端で呆然とすわりこんでいた。

 翌日、名工ダイダロスがクノッソス宮殿に呼ばれた。ミノス王とダイダロスは終日、二人きりで王の居間にこもって何やら相談していた。

 王は神託を受けた、と布告を出した。クレタ島に新たな神が生まれた。ミノタウロス、牛頭人身の神である。この神ある限り、クレタ島の繁栄は約束される。クレタ王家の紋章は、それまでのイルカから、牡牛の頭に変えられた。そして、ダイダロスは、島の中央にある谷間の洞窟の中に、この神を祭るための神殿を造ることになった。それが、ラビリンスだ。

 ミノタウロスはクレタ島の守り神。

 クレタの住民なら誰もが知っている。ミノタウロスが生まれてからの十八年間、島は旱魃とも洪水とも無縁だった。海は穏やかで、漁師は毎日、無事に家族の待つ家に戻ってくることができた。羊は丸々と太り、大麦は実りの重さに地に着くほど低く頭を下げた。何もかも、ミノタウロスのおかげだ。

 そのミノタウロスをテセウスは殺すと言う。頭の中が真っ白になったが、すぐに気を取り直した。大至急、王に知らせなければならない。俺はそっと窓から身体を引き上げて、屋根から下りようとした。

 その時、笑い声が聞こえた。誰かが笑っている。おかしくてたまらないというように、腹を抱えて傍若無人に笑っている。

「何がおかしい!」

怒りに満ちた声が聞こえた。

 俺はまた、屋根から逆さまに身を乗り出して、窓から聞こえる声に耳を澄ませた。

ひいひいひい、と苦しげな息。

「何がおかしいと聞いている!」

テセウスの怒りの声は、すぐに苦痛のうめき声に代わった。腹を立ててベッドから身を起こしたものの、肩の痛みに耐えられなかったらしい。

「お前は馬鹿だ」

辛うじて笑いを押さえ込んだ王女の声が聞こえた。

「それで昨夜、谷を抜け出そうとしたのか」

「そうだ。人身御供にされるまで待ってはいられない。他の者たちを危険な目にあわせたくはない」

「もっとはっきり言ったらどうだ。さっき、お前の代わりに鞭を受けた女。あの女のためじゃないのか?」

「彼女もアテネ人だ。わたしが守るべき一人だ」

「ご立派なことだ。さっきも言ったな。建前は聞き飽きた。もっと正直になったらどうだ」

「正直になってお前のような野蛮人になるのか? ごめんこうむる」

 シュッと鞭が宙を切り、ぴしり、と肉を打つ音が続いた。うめき声が聞こえた。今度は脅しではなかったらしい。

「一つ忠告してやる。ミノタウロスを殺すなどと馬鹿なことは二度と考えるな。お前には絶対にミノタウロスは殺せない。おとなしくここで余生を楽しめ。あんまり長くはない、貴重な余生だぞ」

「なぜだ。なぜ、平気でそんなことが言える? クレタ人は人の心を持っていないのか?」

「えらそうなことを言うなよ、野蛮人」

「なに?」

「お前がさっきから殺す、殺すと宣言してるのは、わたしのかわいい弟だ」

 テセウスは黙った。

「ふん。人の心をもたないのはどっちだか。あばよ、野蛮人」

 椅子を引く音がした。王女が立ち上がったのだろう。

「なるほど。わたしは思い違いをしていた」

 テセウスの声が聞こえた。嘲笑うような声だった。

「お前に少しでも人の心があると思ったのがまちがいだった。お前はミノタウロスと同じだ。人殺しをなんとも思わない化け物」

 シュッと鞭が宙を切る音。が、それに続いて聞こえたのは、「放せ!」という王女の叫び声だった。俺はあわてて、屋根から身を乗り出した。もう少しで屋根から落ちそうになるところまで身体をずり下げて窓から中を覗きこんだ。

 テセウスが立ち上がって、王女の両の手首を掴んで押さえ込んでいた。王女は山猫のように暴れている。相手の股間を狙って膝蹴りをかまそうとし、はずされるとテセウスの傷ついた肩めがけて頭突きを食らわせた。テセウスが悲鳴をあげた。だが、王女の自由を奪っている両手の力は緩めない。王女を押し倒すなり両腕を力任せに後ろにねじ上げた。今度、悲鳴をあげたのは王女の方だった。

「わたしも一つ、忠告してやる」

息を切らしながらテセウスは言った。

「お前は人間を知らなさ過ぎる。人間は不当な扱いに長く耐えられるようにはできていない。いずれ、抵抗を始める。自分が受けた不当な扱いをそっくりそのまま相手にやり返す。そしてそれは当然のことなんだ。わたしは今、お前の腕をねじ切ってやろうと思えば、簡単にできる。こんな細い手首、枯れ枝を折るより簡単だ」

 テセウスが手に力を込めた。王女は悲鳴をあげて、鞭を落とした。

「ただ、わたしはそうはしない」

 テセウスは急に力を緩めて、王女から離れた。王女は身を起こすと、赤くなった手首を撫でながら、恐怖の目でテセウスを見つめている。

「なぜ、そうしないと思う? わたしはけものじゃない。人間だからだ。弱いものを力づくで痛めつけるのは、理性ある人間のすることじゃないからだ」

 王女は何も言わずに蔵から飛び出していった。テセウスは、疲れきったようにベッドに横になると目を閉じた。俺は急いで屋根から下りると、クノッソス宮殿に戻った。

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