第8話 クノッソス 其の二

 玉座の間に、ミノス王はひとりではなかった。テーブルがしつらえられ、葡萄酒の杯を前にして、ポントウス将軍がミノス王に対峙してすわっていた。俺の姿を見ると、陽気に笑っていた将軍の顔がしかめ面に変わった。

 誤解のないように言っておくと、俺は将軍に悪意は持っていない。ポントウス将軍は裏表のない、まっすぐな男だ。少年の頃から兵隊ごっこが大好きで、成人すると望みどおり軍に入った。あっという間に将軍の地位まで登りつめた。家柄の良さもあったが、彼の実力でもあった。トラキア、マケドニアへの遠征が成功したのは将軍の指揮によるものだし、十八年前のアテネとの戦でアテネがあの約定を呑まざるを得ないところまで追い詰められたのも、将軍とその率いる軍の圧倒的な力のせいだ。アテネ人は鬼将軍、と呼んだ。将軍の兵たちは、オヤジと呼ぶ。糞真面目で規律にうるさく、頑固一徹だが、公平で正直で清廉な人柄だ。兵はポントウスを尊敬し、愛していた。そして将軍は、何よりもクレタ島を愛していた。

 ポントウス将軍は俺を見て渋い顔をした。将軍は俺のように、こそこそと人の話を盗み聞きしてまわる者は好きではない。

「わしは席をはずしましょうか」

 ポントウスは葡萄酒の杯を置いて王に尋ねた。

「いや、一緒に聞いてもらって構わんよ。我々はもう、十重二十重に縁の深い間柄だ」

 ミノス王はにこやかに言ってのけた。縁の深い間柄? もちろん、ポントウスは王の叔父なのだから、当然だが……。

「耳には、谷へ行ってもらった。昨夜、谷から逃亡しようとした貢物について、少々気になることがあったのでな」

 王は将軍に説明した。将軍はまじめな顔でうなずいた。

「それで? 何がわかった?」

 王に促されて俺は、頭目がアテネの王子、テセウスであったこと、彼がミノタウロスを殺害するつもりでいることを話した。王女のことは伏せておいた。

 王も将軍も、口を挟まなかった。じっと耳を傾けているだけだが、王の方が緊張に青白くなっていくのに、将軍の頬は段々紅潮してきた。俺が話し終わると、なんということだ!と吠えた。

「陛下、ラビリンスの警備兵を二倍に増やして頂きたい。谷の番兵屯所もです。わしがすぐに手配します」

 ミノス王はちょっと考えて、それがよいでしょう、と答えた。

「用心に越したことはありませんからな」

「もちろんです! ミノタウロスに何かあったら……。いや、そんな不吉なことは考えたくもない。テセウスの方はどうされる?」

「どうとは?」

「谷から出して、厳重な牢に閉じ込めた方がよくはないですかな?」

「そういうわけにはいかないでしょう。その日が来るまでは客の待遇をする。約定ではそうなっている。客を牢に入れるわけにはいきますまい」

「しかし!」

「番兵を倍にすれば十分でしょう。将軍じきじきに指揮されれば、彼らはテセウスを谷から一歩も出さないでしょう」

 将軍はきっと敬礼すると、足音を立てて広間を出ていった。

 王はため息をついた。あの男と一緒にいると疲れる、とぼやいた。

「それで? 残りの話を聞こうか。なぜ、テセウスを連れてこなかった?」

「やつは今、ベッドから起き上がれる状態ではありません」

 俺は王に谷で起きたことをすべて話した。

 王はにやりと笑った。

「叔父貴がここにいなくて幸いだった。いたら、若い娘の教育についてわしはまた説教されておったろうよ。耳、よくやった。式部官を呼んでくれ。トーナメントの前の式典について変更がある。それと、アリアドネを探してここに連れてこい」

 俺は頭を下げて王の前を下がった。


 王女を探すのは大変だった。

 クレタ貴族の姫君たちは普通、それぞれの屋敷で本を読んだり、刺繍をしたり、飽きると庭園を散歩したり、要するに花嫁修業をして日々を過ごしている。ところが、将軍の言う、若い娘の模範たるべき王家の姫君だけは宮殿でじっとしていない。海辺て貝殻を拾っていたり、山で野葡萄を食べていたり、商人宿に入り込んでカルタゴやリビアの商人としゃべっていたり、市場で軽業師の芸に手を叩いて喝采していたり、とにかく育ちの良い娘のやるべきでないことばかりしている。一度など、波止場人足や無頼者の集まる賭場で、サイコロ博打に興じていたことさえある。普段でそれだから、さっきのテセウスとの一幕の後じゃ、興奮してどこへすっ飛んでいったものやら。月までふっとんで行ったと言われても俺は驚かない。

 それでも、見つけ出せなくては王の耳たる資格がない。

 こういう場合に備えて、俺は普段からあちこちに俺自身の目と耳を置いてある。連中は、宮殿の掃除婦だったり、波止場の荷担ぎだったり、山野を絶えず移動する羊飼や樵だったりするが、みんな、俺と同じ奴隷身分だ。人の数に入れてもらえない彼らは、だからこそ、人目につかずに色々な情報をつかんでいる。ほんのちょっとの好意と贈り物で、彼らは俺が探しているものを見つけてくれる。今回、王女を見つける手がかりを与えてくれたのは、市場で荷車の後押しをしている女奴隷だった。

「王女様だったら、鍛冶屋で見かけたよ」

「鍛冶屋? 乗馬用の蹄鉄でも打ってもらってたのか?」

 うんにゃ、と女奴隷は言った。

「あそこは刀鍛冶だ。王女様はいい剣が欲しいって相談してたんだよ」

 俺は走った。

 王女はいた。金気と熱気の充満する鍛冶師の工房で、幅広の両刃の剣を振り回しているところだった。王女が細い腕で剣を振り回すたびに、びゅん、びゅん、と弓づるが鳴る様な音がした。

「悪くない。でも、少し重いな。もう少し軽いのはないのか」

 王女は剣を刀鍛冶の親方に返して言った。

「これより軽くなりますと、王女様のお望み通りとはいきませんな。一撃で骨を叩き折るには、やはりある程度の重さが要りますでな」

 炉の火を長年見続けたせいで、片目が白く濁った親方は物騒な話をしながら、両刃の剣を受け取った。

「王女様がお使いになるのなら、むしろ、こちらの方をお勧めいたします」

 親方は、片刃の細い、だが恐ろしく鋭そうな剣を王女に渡した。

「この剣は切るのではございません。突くのです」

 王女は軽く振ってみてから、剣の先端にそっと指を触れた。

「なるほど」

「どんな頑丈な鎧といえども、必ず隙がございます。そこを狙って突けば、チーズに針を刺すよりも簡単にすうっと通りますよ」

 あまり妙な智恵をつけないでほしい。俺は進み出て膝を着くと、王女様、と呼びかけた。

「なんだ」

 王女は細い、青白い刃をうっとりと眺めている。鏡のように磨き上げられた金属に、王女の瞳が映って主を見返している。

「王陛下がお呼びです。宮殿までお供いたします」

「わかった」

 王女は剣を親方に返した。

「これにしよう。鞘をつけて今日中に宮殿まで届けてくれ」


 玉座の間に戻ると、宮廷の儀式を司る式部官がちょうど、退席するところだった。式部官は、腕いっぱいに絵図やら書類を抱えて、王女に会釈すると部屋を出ていった。

 ミノス王は満面の笑顔でひとり娘を迎えた。

「おお、アリアドネ。遅かったの。朝から遠乗りにでも行っておったか?」

 王女が今朝、どこで何をしていたか十分に知り尽くしていながらの、この言葉だ。俺は時折、ポントウス将軍の真っ正直な顔が懐かしくなる。たとえ、俺自身は将軍に嫌われていても。

 王は王女にすわるように言うと、俺には、ご苦労だった、と言った。俺は低頭して玉座の間を出た。


 実は、玉座の後ろの壁には隠し扉がある。万が一、賊が玉座の間に侵入した時に、王を逃がすための扉で、玉座の間のすぐ隣の狭い隠し部屋に出る。この部屋には窓も戸口もない。床の上げ蓋を上げると階段から地下道に降りられる。地下道はまっすぐに宮殿の外の、今は使っていない薪小屋に通じている。俺は走って薪小屋に向かい、誰も見ていないのを確かめた上で中に入り込んだ。地下道を逆にたどって玉座の間のとなりの隠し部屋に入り込む。

 王は俺がこの通路を知っているのを知らない。これを教えてくれたのは俺の前任者だ。前の耳役も奴隷だった。本来は子飼いの奴隷が勤める役なんだ。俺みたいに買われた奴隷が勤めるのは珍しいのさ。

 やつは、クノッソスで奥女中をしていた奴隷女の息子だった。父親はわからない。多分、ミノス王じゃないかと思う。容貌にどことなく似たとこがあった。だが、王の種だったとしても奴隷の生んだ子は奴隷だ。やつは十六歳から二十年、王の耳役を勤めた。役を退いたのは、ある貴族の屋敷の屋根に登って聞き耳を立てていた時に発見されて、逃げようとして屋根から落ち、脚を折っちまったからだ。走り、潜り、登れなくなったら耳役は勤まらない。ちょうど、子飼いの奴隷の中に適当なのがいなかったんだろう。ミノス王は奴隷商人から俺を買い取って、耳にしたんだ。

 耳役は、耳、としか呼ばれない。今は俺が耳だ。皆は、耳でなくなったやつをなんと呼ぶか困ったんだろう。奴隷の名前なんか、誰も覚えてない。やつ自身だって覚えてたかどうか。背が高いから、やつはノッポって呼ばれるようになった。

 俺はノッポから色んなことを教わった。耳役は文字通り、王の耳だ。王が知っていることは全て耳役も知っている。これは凄く危険なことなんだぞ、とノッポは言った。王が知っていることを耳役から聞き出そうとするやからは必ず出てくる。だから警戒を怠るな。体術の訓練は絶対だ。だが一番危険なのは、お前の主人だ。王が、耳役の知らないところで、何かをたくらむかもしれない。その何かは、おまえ自身の口をふさぐことかもしれない。王には油断するなよ、と言ってノッポは地下道を教えてくれた。

 ノッポは耳役を退いた後、王の書記役についたが、ある朝、市場近くの川にその死体が浮かんだ。酒の匂いがしていたので、酔っ払ったあげく足を滑らして川に落ちたものとされた。ノッポは下戸だったが、そんなこと誰も気にしなかった。たかが、奴隷が一人死んだだけじゃないか。

 俺は、ノッポの死をテセウスに話してみたい気がする。ノッポは町のまん中で死んだのだが、荒野で死んだも同然じゃないかって。多分、俺自身が時折、後悔に責められるからだろう。耳役の俺がもう少し気をつけていれば、王の手が伸びる前に、ノッポをこの島から逃がしてやれたかもしれない、と。

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