第6話 テセウス

 

 最初に聞こえたのは「痛むか?」という王女の声だった。同情の言葉じゃない。むしろ、興味深々といった響きがあった。

「痛まないと思うか?」

 うなるような声でテセウスが答える。

「さあな。お前はアテネ人だ。わたし達とは違う。子供の頃、わたしはアテネ人は背中にたてがみが生えているのだと思っていた。だが、お前にたてがみはないな」

「がっかりさせて悪かったな」

「別にがっかりはしないさ。現実とおとぎ話は違う」

 王女は楽しそうだった。

「結構だ。クレタ人がそれほど無知じゃないと知って安心したよ」

「お前たちアテネ人は、クレタ人はみんな野蛮人だと思ってるんだろう?」

「同じ人間だと思ってるよ」

「偽善者め。建前は聞き飽きた。そろそろ本音を言え」

「何を言えばいいんだ」

「何のためにここに来た」

「約定に従って」

「お前はアテネ王の跡取りだろう。何もお前が来ることはあるまい。アテネには他にいくらでも若い男がいる。なぜお前が来た」

「約定では、貢物の選択はアテネ側に任されている。数がそろっていれば、クレタ側は文句をつけられない」

「不満は言ってない。ただ、不審だと言っている」

「不満がないなら、それでよかろう」

「お前は強情だな」

「生まれつきだ。ついでに言えば、貢物の性格に、クレタ側がとやかく言う権利はない」

「口の減らないやつだ。また、鞭で打たれたいか?」

「遠慮する」

「ならば言え。なぜお前はここに来た?」

「くじで当たった」

「くじ? アイゲウス王は、貢物をくじで選んでいるのか?」

「それが一番公平だろう? アテネの全住民の中から、十七歳以上二十歳以下の男女がくじをひいて、当たった者が貢物になる」

「納得できない。たとえお前がくじを引き当てたとしても、王権をもってすれば、アイゲウス王はお前をはずすことができるはずだ」

「考え方の違いだな」

「お前はそれでいいのか?王子たる身が人身御供の貢物に……」

「いいはずがない」

 突然、テセウスの声が変わった。今までどこか余裕を持って、王女をいなし、揶揄しているようでさえあった声に、急に真剣な響きが混じった。

「わたしだけじゃない。わたしと一緒に来たアテネ人の誰にとっても、こんなことはいいはずがない」

「ならば、なぜ来た?」

「アテネのために」

「貢物になって死ねというような国に忠誠を捧げるのか? 望んでアテネに生まれたわけでもあるまいに」

「わたしは、アテネで生まれたわけじゃない」

「へえ、それは知らなかった」

「わたしはトロイゼンの祖父の家で生まれて育った。父に呼ばれてアテネに行ったのは、もっと後だ」

「外国生まれか」

「アテネ人だ」

 テセウスの声にかたくななものが感じられた。王女も気がついたのだろう。ちょっと黙った。

「それで、アテネに行ったのはいつだ?」

「十四歳の時、父王に呼ばれた。嬉しかった。地図と十日分の食料を持ち、足ごしらえをして出発した」

「供は?」

「旅は一人旅に限る」

「待てよ、船じゃないのか?」

「陸路だ」

「なぜ? 船の方が楽だし、第一安全だろう?」

 王女は純粋に興味を引かれたようだった。

「祖父もそう言った。だがわたしは陸路をとることにした。その方がもっと……面白いと思った」

 うん、という王女の賛同の声が聞こえた。

「その旅の話をしろ」

「なぜだ?」

「聞きたい」

 テセウスは考えをまとめるように、ちょっとの間沈黙した。

「荒れ果てた荒野をたった一人で、わたしは歩いていった。何日も人間の姿を見ない時もあった。日が昇り、沈んだ。そこには何もなかった。ただ、大地と空とわたしだけが存在していた。……素晴らしかった」

「淋しくはなかったか?」

「淋しいのは初めのうちだけだ。すぐに慣れる。慣れれば、孤独はよい道連れになる。今まで気付かなかったものに目を向け、耳を傾け、心を開くことを教えてくれる。野に咲く花の形、朝露の匂い、野を渡る風のささやき」

「わかるような気がする」

 王女の声には、今まで聞いたこともない、夢見るような響きがあった。

「わたしはクレタ島から出たことがない。でも、冬の夜、ちりちりと肌を刺す冷気に逆らって澄んだ夜空を見上げると、そこにそれがある。なんと呼べばいいのかわからないが、それが確かにある。悲しいほど美しくて、素晴らしい何か。それが、お前の言う、孤独、なのかもしれない」

 しばらく二人の声は途絶えた。双方がそれぞれの思いに浸っているように。

「わたしもいつか、荒野を歩いてみたい」

「荒野は厳しいぞ」

「わたしには耐えられないとでも……」

「そんなことは言っていない。ただ、わたしは荒野よりもアテネを選ぶ」

「アテネには何がある?」

「人々」

 なんだ、というような王女の笑い声が聞こえた。

「当たり前じゃないか。アテネは町だ。町には人が住んでいる。このクレタにも人はいるぞ。いすぎて困るくらいだ」

「そういう意味じゃない。君にはわかっていない」

「なんだと!」

 ガタリ、と椅子の動く音がした。王女が立ち上がったらしい。だがすぐに、落ち着けよ、というテセウスの声がした。鞭が宙を切るしゅっという音がしたが、脅しに過ぎなかったらしい。再びテセウスの落ち着いた声が話し始めた。

「この話をするのは君が初めてだ。わたしは荒野で恐ろしいものに出会ったんだ」

「怪物か?」

 期待に満ちた王女の声が聞こえた。

「違う」

 王女のがっかりした顔が目に見えるようだ。

「もっと恐ろしいものだ」

「話してみろ」

「晴れた暖かい午後だった。わたしは埃っぽい赤茶けた大地を歩いていた。太陽は沖天を過ぎ、うだるような熱気が身体を包んだ。どこかでカッコウが鳴いていた。小さな緑色のとかげがちょろりと姿を見せると、藪の中に消えていった。地平線にはぼんやりと金色のもやがかかり、陽炎がゆらめいていた。すっと涼しい風が吹いてきて、わたしの汗ばんだ額を撫でた。わたしは立ち止り、額の汗をぬぐった。その時だ」

 テセウスは言葉を切った。

「どうした」

 と王女。

 テセウスは答えない。

「何があった」

 王女は焦れたように尋ねた。

「何も」

「何も?」

「突然、世界から音が消えた。カッコウは鳴くのを止めた。うなりを立てて花から花へと飛び回っていたミツバチの姿も見えない。梢を揺らす風さえも止んでしまった。世界は厚い綿に包まれたように音を失った。と、シュッ!なにかが宙をよぎった。尖ったくちばしと鋭い目を持った何かが、矢のように空から急降下してきたんだ。一瞬後、短い悲鳴と激しい羽ばたきの音と共にそれは再び天に駆け上がっていった。不運な小動物を力強い爪の間にしっかりと挟んで。一瞬の後、世界は音を取り戻した。太陽、ミツバチ、梢を揺する風の音。まるで何も起きなかったように、カッコウは再び歌いだした」

「それで?」

「それだけだ」

 王女は困っているようだった。話の意味がつかめないのだが、わからない、と言うのは癪なのだろう。

「お前は、その、鷹だか隼だかが怖いのか?」

 テセウスは苦笑したようだった。

「違う」

「ならば、何が恐ろしい?」

「何も起きないことがだ。一つの命が失われた。永久にこの世界から消えた。だが、何も起きなかった。太陽も、ミツバチも、カッコウの歌も。何もかもが、残酷なまでに同じだった」

「だって、たかが野鼠一匹」

「そうだ。我々人間だって、荒野では、たかが人間一人だ。無意味なのは同じだ」

「アテネでは違うとでも?」

「違う。アテネでは人の命には意味がある。人の死は、雑多な騒音に包まれてる。ベッドの周りに集まった人々のひそひそと話す声、医者の厳粛な宣告、愛する者を失った者の泣き声、なぐさめの言葉、葬式の手配、死者のための祈り、遺産をめぐっての争いの言葉。すべてがその人の死に、ひいては生に、意味があったというあかしなんだ。中には不愉快な言葉もあるだろう。それでも無関心よりはましだ」

「お前は、荒野が人の死に無関心だととがめるのか?」

「そうだ。人の死には意味があるべきだ。人の生は、何よりも重んじられるべきなんだ」

「何よりも」

「そう、何よりも」

「お前はここへ何しに来た?」

 王女の声は、いつもの高圧的な調子を失っていた。低く、かすれるようなささやき声で、俺は窓に耳を押し付けてかろうじて聞き取った。だが、王女に答えるテセウスの声はそんなことをしなくてもはっきりと聞こえた。

「わたしはミノタウロスを殺しに来たんだ」


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