第5話 迷い谷 其の二


 迷い谷で、貢物のアテネ人は男女別に、石造りの蔵に収容されていた。蔵といっても窓のある明るく清潔な建物で、中には石造りのテーブルに椅子が備え付けられ、寝床には日なたの匂いのする乾燥した藁布団が敷かれている。蒸気で身体をきれいにするための浴室までついてる、中流の市民の家よりずっと贅沢な造りだった。クレタ人は、ダイダロス考案の結界に絶対の信頼を置いていたから、谷の中にいる限り、貢物は完全な自由を許されていた。渓流で泳ごうが、松の木の陰で昼寝しようが勝手だった。

 俺はまず、番兵の屯所に立ち寄った。昨日とは違って、今日は王の使いだ。用向きを話し、結界のスイッチを切って谷に入れてくれるように頼んだ。番兵長は困惑したような顔をしたが、承知した。

「王陛下の仰せの通りに。今、番兵を二、三人付けます」

「いい。アテネ人一人ぐらい、俺一人であしらえる。だが、谷を出る時には護衛がいる。そのつもりで準備して待っていてくれ」

「しかし、今年の貢物は凶暴ですぞ。先ほど王女様にも申し上げたのですが……」

「王女様?」

「王女様はただ今、貢物を尋問中でいらっしゃいます。護衛をお付けすると申し上げたのですが、お聞き入れになりませんでした」

 嫌な予感がした。

「結界を切って俺を中に入れてくれ。その後すぐ、元に戻せ。警戒を怠るなよ」

 谷間はうっそうと茂った松とオリーブの木のせいで見通しが悪い。今の俺には好都合だ。地面には枯れた松葉が敷きつめたように落ちていて、足音を消してくれる。あたりの気配をうかがいながら、俺は慎重に蔵に向かって進んでいった。

 やがて前方が明るくなった。木立を切り開いた空き地に石の蔵が見えた。同時に、俺は探していたものを見つけた。

 蔵の前の乾いた地面に若い男が一人、あぐらをかいてすわっている。パリスカスだ。まっすぐに頭を持ち上げ、膝に置いた手を微動もさせず、背筋をぴんと伸ばしてすわっている姿は、何かの行者のようでもあった。

 そしてその前に、ミノス王の娘、われらが王女様が突っ立って何か言っている。

アリアドネ王女は今年十八、浅黄色の長衣に包まれた身体は若い娘らしくゆるやかなカーブを描いて、ようやく花開こうとするアイリスの花を思わせた。だが、可憐なのはそこまでだ。王女様はご機嫌斜めらしく、細い眉の下の瞳はぎらぎらと怒りに燃えて、目の前の男をねめつけている。右手に持った乗馬用の小さな鞭が震えている。今、気がついたが、男の頬に一筋流れている赤い糸は、その鞭の仕業らしい。

俺はもう一歩近づくと、藪の陰で聞き耳をたてた。

 王女様はどんと足を踏み鳴らした。

「答えろ」

「さっきから答えている」

 男の声は落ち着いていた。日の光の下で見ると、なかなか端正な顔立ちだ。黒い巻き毛が額にかかり、青い大きな目は澄んでいる。今、その目は軽蔑をこめて王女に向けられていた。

「嘘は聞きたくない」

「ならば聞くな」

 王女の目が大きく見開かれた。しゅっと空を切る音がして、男の肩に革の鞭が炸裂した。男は打撃を受けてよろめいたが、すぐに身体を立て直した。その肩にまた鞭が降りた。もう一度、そしてまた、もう一度。

 王女は正確に男の左肩を狙って打撃を加えている。俺は経験上知ってるが、同じ所を繰り返し何度も鞭打たれると、その痛みは並じゃない。二十回で皮膚は裂けて赤い血を流し始める。五十回で肉が弾けて黄色い脂肪がはみ出る。七十回で白い骨が見え、百回を越えると死が訪れる。

 男はよほど強情なたちらしい。声一つ立てずに耐えているが、さっきまで純白だった胴衣に赤い染みが広がり始めた。

 さすがに見かねて止めに出て行こうかと思った時、「テセウス!」という叫び声が聞こえた。林の中から弾丸のように何かが飛び出してくると、王女の振るう鞭の下に身体を投げ出した。髪が長い。女だ。振り下ろされた王女の鞭が背中にぶち当たり、女は身を引き裂かれるようなかん高い悲鳴をあげた。

「テセウス。やはり」

 王女は息を切らしながら、にんまりと笑った。「パリスカスなんて、お粗末なシロモノじゃないと思ってた」

 王女の頬は赤く染まり、きらきらと瞳を輝かせていた。額に垂れてくる汗に濡れた髪を片手でかき上げている姿は、不謹慎な話だが、えらく色っぽく見えた。

 テセウスは飛び込んできた女に押し倒されたが、身を起こして、地面に伏している女を抱き起こすと低い声で名前を呼んだ。女はぐったりと目を閉じている。テセウスは王女を見上げた。

「薬を所望したい」

 王女は微笑んだ。

「どこまでも傲慢な男だ」

「貢物は、その日が来るまで客の待遇を受ける。約定ではそうなっているはずだ」

 王女はいきなり藪の陰にいる俺の方を振り向いた。

「耳、番兵屯所から薬箱を持って来い」

 俺は仰天した。俺の忍びの術は完璧だ。でなければ、王の耳は勤まらない。王女はどうして気付いたのか。まごまごしていると、次の言葉が降ってきた。

「お前も鞭をもらいたいか? 行け」

 俺はすっ飛んで走り出した。

 屯所の番兵長は、俺が薬箱を貸してくれと言うと、顔色を変えた。王女様に何かあったのか、と性急に尋ねる。そうじゃない、と説明してようやく薬箱を受け取った。

アリアドネは国民には人気がある。黙って立ってれば、優雅できれいなお姫様だからだ。クノッソス宮殿の宣伝は行き届いている。救貧院だの施療所だのが開かれるたびに、こころ優しいアリアドネ王女が、孤児の頭をやさしく撫でてやったとか、病人の手をとって慰めたとかいう「いい話」が市場や、町の辻辻で語られる。頭を撫でるどころか、洟垂れ小僧の頭を張り倒す方が得意だと知ってるのは、王のごく身近にいる者だけだ。

 薬箱を持って駆け戻ると、空き地には誰もいなかった。蔵の入口から貢物が一人、顔を出して中に入るように合図した。

 さっきの女はベッドにすわり、テセウスに上体を支えられて葡萄酒を飲んでいた。周りをアテネ人たちが囲んでいる。中に女の姿が混じっているのは、女蔵から呼ばれてきた乙女たちだろう。

 すぐに女の顔に血の気が戻ってきた。テセウスが低い声で何か言うと、女は甘えるような鼻声を出して、男の胸に顔を押し付けた。テセウスは、周りを取り囲んでいた男たちを部屋から出した。すると、女は安心したようにベッドに腹ばいになった。背をおおった布をまくりあげると、はっとするほど白いなめらかな背中がむき出しになった。そこに一筋、くっきりと赤い鞭の跡がついている。俺はテセウスに薬箱を渡した。周辺が紫色に変色したその傷に、テセウスはまめまめしく、軟膏をすりこんでやった。

 この間、王女は石のテーブルの前の椅子にすわり、退屈しきった様子で膝の上に組んだ脚をぶらぶらと動かしていた。ようやく手当てが終り、テセウスは礼を言って俺に薬箱を返した。

「お前はいいのか?」

 王女は言ってテセウスを鞭で指した。

「わたしはいい」

 王女は片頬で笑った。強情な男だ、と言うと俺に向かって、そいつの手当てをしろ、と命令した。

「客の待遇をする、という約定だそうだからな。それに、その日が来る前に病気になられでもしたら、弟が困る」

 部屋の空気がぴんと緊張した。アテネ人全員、ベッドに寝ている女までが刺すような目で王女を見た。もし視線が人を殺せるものなら、王女の命はなかっただろう。いざとなったら、王女を守らねばならない、と俺は身構えた。それくらい危険な空気だった。

 王女は一人平然としていた。さっさとやれ、と言った。

 諦めたように、テセウスは服を脱いだ。乾いた血が張り付いた亜麻布をむりやりはがすと、また新たな血が溢れ出てきて、藁布団に滴った。

 左肩がむき出しになると、王女は椅子から立ち上がり、俺の肩越しにしげしげと覗き込んだ。自分が与えた傷が心配なのかと思ったが、「まあまあだな」とつぶやいたところを見ると、ただ、自分の打撃がどれほど正確だったか見定めたかっただけらしい。石工が切り出した大理石の切り口を吟味するのと同じだ。事実、なかなか見事なものではあった。鞭打ちの痕は、左右に指二本分の幅程度しかずれず、正確に同じところを撃っていた。だがそれだけに傷は深く、ぱっくりと開いた傷口をきれいにしてから、縫わなければならなかった。手当は相当に痛かったはずだが、テセウスはやはり、脂汗を流しながらも声をたてなかった。

 手当てが終わると、王女は残っていた女たちと俺に、部屋から出て行くように命じ、ベッドに寝ている女を指さした。

「そいつも連れていけ」

 逆らっても無駄なのはわかりきっている。俺は女たちの助けを借りて、怪我した女を部屋の外に連れ出した。部屋の外にいた男たちに指図して女を女蔵の方へ運ばせると、俺は蔵に戻った。王女が何をするつもりか知らないが、「知らない」では済まされないのが王の耳だ。

 俺は懐から鉤のついたロープを取り出すと、蔵の平たい屋根めがけて投げた。何度か試みて鉤が引っかかると、ロープを頼りに屋根に登った。登っている最中に王女が窓から顔を出すとすこぶるまずいことになったろうが、王女は尋問に熱中しているらしく、俺は無事に屋根にたどりついた。屋根の端から逆さまに明り取りの窓の中を覗きこんだが、部屋の壁しか見えない。だが、声は聞こえた。耳には、それで十分だ。

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