第4話 クノッソス 其の一


 その翌日のことだ。ミノス王からの呼び出しで、俺は玉座の間に急いでいた。

クレタ王家の住まいは、クノッソスと呼ばれる、海を見晴らす丘に建つ白い石造りの広大な宮殿だ。クノッソスには直線がない。宮殿を囲む松の枝は、荒い潮風のせいでどれもくねくねと蛇のように曲がっていた。宮殿の廊下も、庭園の小道も狭く、しかも複雑に折れ曲がっていた。これもダイダロスの設計で、防衛上の配慮だそうだ。だが一方で、宮殿のあちこちに散らばった広間の壁画は、そりゃ見事なもので、波に踊るいるかや、春の野に咲く花々が極彩色で描かれていた。

 迷路のような廊下を右に曲がったり、左に折れたりしながら、俺は、王の用は何だろうと考えていた。

 昨夜、迷い谷から戻ってすぐ、俺は寝所の王のもとに伺候した。寝所に引き取った王を煩わせることができるのはほんの数人の側近だけだ。俺は例外で、奴隷はモノと同じだから、勘定にはいらない。場合によっては、深夜に起こされたと、機嫌の悪い王からむち打ちを食らうこともある。


 宮殿のほぼ中央にある玉座の間で、王は何か気になることがあるらしく、人払いした広間を苛々と歩き回ってた。

 ミノス王は青白い顔をした五十代半ばの痩せ男だ。若い頃から胃が弱くて、薬草を煎じて葡萄酒に混ぜた薬酒が欠かせない。人あたりが柔らかく、忍耐強く、誰にでも丁寧な口をきくけれど、取引の抜け目のなさと、戦いの際の冷酷なほど容赦ないやり口から、近隣諸国の王には、「クレタの狐」と怖れられてる。ミノス王の、眠そうに垂れ下がった瞼の下から覗く黄色い目はいつも相手の心を測るように油断なく光っていた。

 俺が王の御前に膝を突くと、落ち着きなく動き回っていた王は立ち止った。

「将軍はどこにおる?」

「練兵場におられます」

「またか」

 王は再び、苛々と歩き始めた。

 ポントウス将軍は、ミノス王の母、今は亡い王太后の末弟である。王家の一族で家柄は良し、本人は大胆で大力の大男、若い時から剣術でも馬術でも群を抜いていた。中年を過ぎる頃から伸ばし始め、今では真っ白になったあごひげをなびかせて通りを行く将軍の顔を知らないクレタ人はいない。気さくな将軍は練兵場で兵を練る折に、民意を知るためと称して、見物の市民と気軽に言葉を交わす。それが若い頃の戦場での思い出話や手柄話なら害はないのだが、しばしば現在の政治の話にまで広がっていく。そうなると、王は神経を尖らすことになる。

「聴衆は多いのか?」

「昨日よりも大分増えました」

「若い連中か?」

「大部分は。しかし、年寄りもちらほらと」

「今日のお題目はなんだ」

「トーナメントです。将軍は今年五十歳を記念して、おん自ら出場なさるそうです。若者に良き模範を見せるのが目的だと言っておられました」

 クレタ島は武術が盛んだ。特に夏至に催される大会には、全島から腕自慢の若者が競って出場する。優勝者には賞金が出るが、それよりも、クレタ島随一の勇者と認められる、その名誉のために彼らは命懸けで戦う。

 ミノス王は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「人気取りよ。あやつは昔から、金や地位よりも人望を欲しがった。人に持ち上げられて、人格者だ、長者だ、国家の柱石だと言われるのが、なによりも嬉しいのよ。大馬鹿者の自慢屋めが」

「しかし、トーナメントに出場なされば、将軍が優勝なさるでしょう」

「おお、当然だ。そして、大勢の馬鹿どもにやんやと喝采されるのよ。他には?」

「姫様のことを話しておられました」

「アリアドネ?」

「昨夜ご報告申しました通り、王女様は昨夜、迷い谷の近くにおられました。将軍は大いにご心痛で、若い娘が真夜中に一人で外出などもっての他、国民の模範となるべき王女がこの有様では、早晩、国が滅びるだろうと」

「大げさな」

「しかし、市民たちは喜んで聞いておりました」

「他人の醜聞ほど面白いものはないからな。まして、若い娘の醜聞となると、こたえられんだろう」

 皮肉を言いながら、ミノス王はため息をついた。俺はちょいとばかり王に同情した。絶対権力を握るミノス王に敵があるとしたら、ポントウス将軍だろう。外見も性格も、ミノス王と正反対といっていい男で、王より少し若く、市民の人気者で、特に軍からは絶大な支持があった。王としては絶対に弱みを見せたくない相手のはずだった。

「アリアドネはどこだ」

「朝から外出されたままです」

「どこへ?」

と言いかけて、ミノス王はすぐに、よい、と言った。

 王にはわかっているのだろう。王女はおそらく、ラビリンスに行っている。王女の日課だった。一日に二度、朝と夕方、王女はラビリンスに行く。異形の弟に会いに行く。王女だけが、ラビリンスに自由に出入りでき、王女だけが、迷宮の奥深くに隠された怪物に、肉親としての愛情をもっていた。俺のような凡人にはわからない。ただ、気味が悪いだけだ。

 王は気を変えるように言った。

「その、何とか言う、アテネ人の頭目」

「パリスカス」

「そいつを連れて来い」

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