第3話 迷い谷 其の一


 迷い谷はクレタ島の中央部にある渓谷だ。入り口を入ると、両側を高い崖に遮られた袋谷になっていて、いったん入り込むとなかなか出られないことからこの名前がある。谷の中は松の木が生い茂って日を遮り、高い崖の上から落ちる滝が涼しさを誘う。ミノス王は渓谷の周囲に結界を張り巡らし、余人の立ち入りを禁止し、アテネ人の宿舎となる蔵を建てた。約定によって、アテネ人はここで、贄とされる夏至の三日後の夜までを、クレタ王家の賓客として過ごす。

俺は谷の入り口近くの松の木の上で、夜を待っていた。やがて、日は山の彼方に沈み、空気には夜の気配が忍び寄ってきた。

番兵の一人が、そわそわした様子で一人、同僚から離れて森の中へ入ってくると、松の根元に気持ちよさそうに小便を始めた。

「おい、にいさん」

 俺が低い声で呼びかけると、番兵は仰天した。勢いよく噴き出していた小便が止まってしまった。

「誰だ」

 番兵は腰の剣を抜いて後ろを振り返った。

「その物騒なものをしまってくれ。俺は敵じゃない。話がしたいだけだ。にいさんのためになる話だ」

「姿を見せろ。話はそれからだ」

 番兵は言ったが、剣はさやに収めた。俺が松の枝の間から顔を覗かせて、ここだ、と言ってやると、番兵は見上げて、なんだ、耳か、と馬鹿にしたように言った。

「脅かすな。耳役がなんの用だ」

 番兵はまた小便を再開した。

「今日、アテネ人が来ただろう」

「ああ。来た」

「連中、今、何してる」

「知らん」

「頭目を見たか」

「黒い巻き毛の、女みたいに細っこいやつか」

「そいつだ」

「あいつは厄介者だ」

「何をした」

「ラビリンスへ連れていけ、と兵長に要求した」

「なぜ」

「九年前の貢物の弔いをしたいそうだ」

「兵長は許したのか」

「まさか」

 番兵は嘲笑うように言った。

「お前もすぐ、あの連中の後を追うことになる、焦るな、と言ってやった」

「頭目はどうした」

「どうしようがある?黙ってた」

 番兵は小便を終えて、前を合わせた。

「頭目の名前は?」

 番兵はニヤニヤと笑った。薄闇の中で歯が白く見えた。

「なぜ俺がお前に教えてやらなきゃならない?」

 嫌な野郎だ。

 俺は懐を探って巾着を取り出した。銅銭を3枚つまみ出して投げてやった。

 番兵は土の上に落ちた銭を拾うと、手のひらでチャラチャラと音をさせた。

「これっぽっちか」

「贅沢言うな。名前は?」

「パリスカス」

 俺は首をかしげた。聞いたことのない名前だ。あの胆力からすると、アテネでも名の通った若者だろうと思ったのだが。

「そいつは確かか?」

「送り状にそう書いてあるそうだ。俺が読んだわけじゃないがな。アテネの商人の倅だと自分で兵長に話していた」

 それも変だ。なぜアテネ人が番兵長にそんなことを話す?

「兵長は信じたのか?」

「そんなこと知るか。商人の倅だろうが、農夫の弟だろうがなんでもいい。ミノタウロス様のお気に召してくれさえすりゃ、こっちは安泰だ。耳、谷には近づくなよ。結界を破ろうとするものは容赦しないぞ」

 番兵は仲間のいる入り口脇の屯所へ戻っていった。


 西の空に細い三日月が出た。

 俺は松の木から降りると、身を屈めて藪の中を潜り抜け、こっそりと谷に近づいた。

 突然、鋭い呼子の音が響いた。続いて、大勢の足音と叫び声。

 俺はぎょっとして立ち止まった。まだ、何もしてないぞ。

 だが、すぐに、俺のせいではないとわかった。騒ぎが起きているのは、谷の入り口の屯所の方らしい。いくつもの松明のせいだろう、そこだけ空が明るく見える。番兵の怒鳴り声、号令を下す指揮官の声、そして、刃物と刃物が触れ合う剣戟の音がはっきりと聞こえてきた。俺は計画を変えて、屯所の方に走った。

 谷の入り口で、一人の男が、数人の番兵を相手に大立ち回りを演じていた。

 背の高い男だ。黒い巻き毛、長い手足を持つアテネ人の頭目、パリスカスだった。どこで手に入れたのか、細いナイフを手にして、周りを取り囲んだ番兵の動きを油断なく見守っている。槍と盾を手にした番兵が近づくと、ナイフを構えて身構える。鋭く突き出されるナイフを避けて、番兵が下がる。パリスカスは再び待機の姿勢に戻る。敏捷な動きだった。

 それでも多勢に無勢だ。番兵が一斉にとびかかれば、パリスカスはすぐに槍で串刺しになったはずだ。だが、番兵はただ周りを囲み、脅すような動きを時折見せるだけだ。そのたびにパリスカスはナイフを構えて攻勢に出、番兵は後ろに下がる。

 奴はそう長くはもたないだろう、と俺は思った。どんなに優れた使い手でも、どれほどの勇者でも、永遠に戦い続けることはできない。番兵はそれを知ってる。持久戦に持ち込んで、生贄を傷づけることなく手捕りにする気だ。

 再びパリスカスは攻勢に出た。ナイフを構えて大きくジャンプすると、一人の番兵の懐に飛び込んだ。ナイフが月光にきらりときらめき、血しぶきが飛んだ。受け損じた番兵は腕を切られて大きなうめき声を上げた。パリスカスは番兵の持っていた槍を奪うと、後に下がった。ナイフを腰のベルトに戻すと、槍を構えた。ナイフと槍ではリーチの長さが違う。パリスカスは何倍も危険な敵になった。同僚を傷つけられた番兵たちの目に怒りが燃え上がる。今までの悠長な戦いぶりは一変した。このままでは死人が出る、そう思った時、地を揺るがすような馬蹄の響きが近づいてきた。

 クレタ正規軍の騎兵が躍り込んでくると、戦いの輪をぐるりと取り囲んだ。全員、そろいの軍服に身を包み、強弓を手にしている。矢の先はぴたりとパリスカスに向けられていた。

 騎兵の間から、白馬に乗った指揮官が現れた。部下と同じ軍服を身に着けているが、威風堂々としたその身体に他を圧する威厳を備えている。何よりもその胸に垂れるほどの白い長いあごひげを知らないクレタ人はいない。クレタ軍の総帥、ポントウス将軍だ。

「戦いは終わりだ、アテネ人。武器を置け」

 パリスカスは周りを見回した。これだけ大勢の槍と矢に取り囲まれては勝ち目はないと理解したのだろう、手にした槍を地に置いた。

「ナイフもだ」

 促されて腰からナイフを抜くと、槍の傍に投げ出した。

 番兵が一斉にアテネ人に駆け寄って、縛り上げた。その間も騎兵の矢はぴたりとパリスカスに向けられたままだ。腹を立てた番兵が、縛られたアテネ人を小突き回した。

「これ、乱暴にするな。客人だ。丁重に谷にお戻し申せ」

 将軍は言い捨てると、馬首を巡らせて戻ろうとした。番兵長が慌てて走り寄り、ぺこぺこと頭を下げながら礼を述べている。

「なんだ、つまらぬ」

 俺の傍で低い声がした。

 すぐ脇の藪の後ろから、ほっそりとした影が月光の中に浮かび上がった。

「これから面白くなるところだったのに、台無しだ」

 将軍は振り向いて声の主を見た。

「姫様。夜分にかような所で何をしておられる」

 その場にいた全員が、すらりとした立ち姿の乙女に注目した。谷に連れ戻されようとしているパリスカスも含めて。

 アリアドネ王女は平然として皆の視線を受け止めた。

「貢物を検分に来た。はるばる殺されにくるアテネ人とはどんな弱虫かと思ったんだが、存外、骨のある奴もいるじゃないか。大叔父様はお節介が過ぎる。しまいまで見られなかったは残念だ」

 将軍はこの場で王女と言い争うほど愚かではなかった。傍らの副官に向かって命令を下した。

「コリウス。二人連れて、王女様をクノッソスまでお送りしろ」

 はっと承って、コリウスが部下に合図しようとした。王女は「要らぬ」と言って、ピーっと指笛を鳴らした。見事な栗毛の馬が現れた。鞍も手綱もつけない裸馬に、王女はひょいと飛び乗った。

「おやすみ、大叔父上」

 鞭をあてて、王女は駆け去っていった。

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