第17話 旋律に溶ける泡沫《うたかた》
ニクセリーヌの夜はとても暗く、深海に届かない光がとても恋しく感じる。
さすがに城が自宅ということもあって、ジェフのおかげで城には何の問題もなく入ることができた。
人魚の暮らすニクセリーヌには硬い床は必要ないのだろうか、砂が敷き詰められた床をふわふわと踏んでは浮かぶようにして進んで行く。
「なんだか俺たちドロボーみたいだな!」
はしゃいだチッタがジェフにたしなめられたその時ティリスがだれか来るわ、とあたりを見回す。
咄嗟に近くの部屋に隠れたあたしたちのすぐ近くをおそらく貴族であろう男二人が談笑しながら通り過ぎていった。
胸を撫で下ろしたその時、置いてあった書類を眺めていたガクがおいこれ! と声を上げ、彼が手にした紙切れを受け取ったティリスが眉をひそめた。
「何が書いてある?」
尋ねたジェフに見ないほうが……とティリスが言ったが彼はそれをなかば奪い取るように手にしたが、みるみるうちに顔色が悪くなり、チッタが顔を覗き込む。
「どうしたのー?」
「……父の臣下への暗殺の指示だ……私と、レミアの……」
あんさつー? ととぼけた声を上げるチッタにティリスが言った。
「急がないと、レミアさんが危ないわ。行きましょう」
あたしたちが青藍の真珠牢に着いたのは城で暗殺の命令を知った数刻後のこと。
先刻閉じられていた牢の扉は開かれており、中にレミアさんの姿は見えなかった。
暗い青白く光る貝殻の街灯が不気味な雰囲気を醸し出していた。
と、そのとき、声が聞こえた。
「ジェフロワなの……?」
「レミア! レミア! どこにいるんだ!」
叫んだジェフに答えたのは別の声だった。
「ここだ。……ジェフロワ、我が息子よ」
姿を現したのは立派な髭をたくわえた初老の人物で、左手には大きな三つ又の槍を携え、正に海の王と言った出で立ちの彼は本来ならば聞き惚れるだろう低く深みのある声だったが、その時のあたしにはとても不気味に聞こえた。
「父上……!」
その隣にはおそらく臣下であろう人物がレミアさんの首を捕らえる真珠の鎖を引いていた。
もう片方の手にも何かの鎖を持っていたがその先に何が繋がれているかは光の届かぬ夜の海の中では暗闇に隠れて見えなかった。
「……何をしに来たのだね、こんな夜更けに。よそ者まで連れてくるとは」
「あなたの不正を暴きに来ました」
まっすぐに見つめる彼に王はほう……と呟き、その長い髭に手をかける。
余裕のある表情。
「不正だとな……この私がか?」
「証拠はある。……とにかく、レミアを離してください父上」
ジェフがそういうと王は突然笑い出した。
レミアが王に不愉快そうな視線を向け、ジェフロワは目を細めた。
「……なにがおかしい」
なおも笑い続けている王が口を開く。
「お前が私に指図するとはな。思い上がりもいいところだジェフロワ。いつからそんなに偉くなったのだ」
黙り込むジェフの代わりにレミアが口を開いた。
「下手な親騙りの芝居なんてしてないでやるなら早くやったらどう? アートス。あなたの実の妹、私の母である女王を殺したときのように」
挑発するように語るレミアの言葉に、アートス王は眉を寄せた。
「余計なことを言うな、レミア。お前も今の自分の状況がわかっていないようだな」
王の言葉にレミアの首にかかる鎖を引く臣下の力が強くなったようで、苦しそうに顔を歪めるレミアを見てジェフが叫んだ。
「いい加減にしろ! どれほどの人を苦しめたら気がすむんだ!」
彼の叫びに王が再び笑い声をあげた。
「そんなに死にたいなら、殺してやろう。いいかげんお前の顔も見飽きた。おい、ダートン」
王のその言葉にジェフは顔を背けた。
名を呼ばれた臣下がレミアさんではないほうの鎖を引くと、大きな唸り声が聞こえた。
何かの鳴き声のようなその声の後、それは姿を現した。
巨大なナマズのような体にクジラのそれと同じ大きな口、そしてその中にはサメのような鋭い歯がまるで無数にあるかのように並んでいたのだった。
あの歯は一体何列あるのだろうか、少なくとも十列以上はあるように見える。あんなのに噛まれたらひとたまりもない、とあたしは身震いした。
「先日捕らえてきたワァルフィクだ。私の命令にだけ従う」
名を呼ばれたその魔物は、あたしたちを見据え、再び大きな咆哮を上げたのだった。
「これはまずいぞ……」
言葉を漏らしたガクにティリスがあれを知ってるの? と問う。
「いや、俺もわからないけど……俺たち、海の中じゃただの餌だぞ!」
「じゃあどうすればいいの? このままじゃ食べられちゃうよ!」
あたしが叫ぶとチッタがそんなこと言っても殴るしかないだろ! と返す。
落ち着け! とジェフの声が聞こえ、彼はどこから取り出したのか、大きな光る槍を構えていた。
「私がどうにかする! 君たちはレミアを助けてくれ!」
分かった! とチッタが素早く動いた。それに気づいたダートンがレミアの鎖を再び引っ張りその反動でワァルフィクの鎖が切れた。
「全く! 何も考えずに動くから!」
悪態をついたティリスがチッタを助けに回った。そのとき、アートス王が何かを呟き、ワァルフィクがティリスめがけて尾を振り下ろす。ガクが彼女の腕を引き、間一髪のところでその攻撃を避けた。
海底に尾を打ち付けて一瞬動きが止まったワァルフィクに今度はジェフが槍を突き立てる。悲痛な叫びをあげるそれに王はまた何かを呟く。
ワァルフィクが今度はジェフに向かっていき、一度は避けたジェフだったが連続した攻撃にやられ動きが止まる。噛み付かれたようだ。
その肩からは鮮血が流れ、じわじわと水の中に広がって行き、それを見たレミアの悲鳴が聞こえた。
魔物は血の匂いに興奮しているように見えた。
その時チッタが臣下を文字通り殴って気絶させ、ティリスが彼女の鎖を切った。
するとレミアさんが慌てて飛び出そうとする。
「来ちゃだめだレミア! 危ない!」
制したジェフに従いティリスが彼女の腕を掴んで止めた。
「どうして! あのままでは死んでしまうわ! 離して!」
「あなたまで死んでしまいます!」
必死に止めるティリスの言葉に、尚もレミアさんは食い下がらない。
「私なんかが死んだって構わないわ! どうせ世間からは忘れられた存在だもの!」
「そんなことを言わないでくれレミア。私は……」
ジェフが何か言葉を続けようとしたその時、低いバスの声が聞こえ、禍々しい旋律が夜の海に響く。アートス王がその旋律を奏でているようだった。ワァルフィクが先ほどよりも増して暴れだし、アートス王の目の前に大きな水の渦が回り始めた。 段々と早く激しくなっていく水の渦に砂や海藻が巻き込まれてゆく。
「みんな離れろ! 巻き込まれたらひとたまりもないぞ!」
ガクのその言葉にみんな散り散りになったが、あろうことか水の渦はあたしをめがけて近づいてくる。
もうだめだ……!
そう思って目をつむった。そのとき聞き覚えのある旋律が聞こえた。
レミアさんの歌。
と、私が目を開けるとすぐ目の前まで迫っていた水の渦はあたしの前で泡へ変化し散り散りになっていた。まるで旋律に溶けたかのような泡沫が美しくも見える、そんな光景。
一瞬時間が止まってしまったかのようなその時、けたたましい獣の咆哮が聞こえた。
ジェフがワァルフィクを仕留めたのだ。
動かなくなったそれに悪態を付き、逃げようとした王をティリスが捕らえた。
「これで、終わったのね……」
初めて見たレミアの安堵した笑顔だった。
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