二章 3-2

    *     *     *



 地下鉄を折り、歩きながら壱矢が片手で自分の顔を仰いだ。

「今日も蒸し暑いねえ。曇ってるのに」

「まあ、もう少しすればまた寒くなんだろ。毎年、梅雨時は札幌より寒いじゃん」

「そうだけどさ。夏は苦手だ……」

「嫌いじゃないけど、湿気が嫌だな。湿気さえなければ―――あ、ここ」

 雪が示したマンションを見て、壱矢はぱちくりと目を瞬いた。

「譲、こんなとこ住んでんだ。凄いね」

「なー。金持ちだよな絶対」

 エントランスに入ると空調が効いていて、二人はほっと息を吐きだした。上品な照明に照らされた広いエントランスは磨き上げられ、クリムトふうの巨大な絵画が掛かっている。

 明らかに場違いな高校生二人は、きょろきょろと周囲を見回しながらインターフォンに近付いた。月子に教えられた部屋番号を押して待つことしばし、応答が返る。

『……二人して、どうした?』

 聞こえたのは、譲の掠れた声だった。てっきり彼の母親が出るだろうと思っていて、更にいきなり理由を問われて驚いた雪は、隣の壱矢と顔を見合わせる。

「向こうからは見えるのか?」

「これ、カメラじゃない?」

 壱矢はパネルの上の壁に付いている黒いプレートを指差した。反射で見えづらいが、よく見ると確かに奥にレンズのようなものが見える。

「あ、ほんとだ。すげー。うちんちこんなの付いてないよな」

「古いマンションだからね。―――えっと、譲、だよね?」

 壱矢が確認すると、戸惑ったような間の後に再び応答がある。

『そうだけど……』

「横暴なクラス委員に頼まれて届け物」

「開ーけーてー」

『……わかった。今開けるから、エレベーターで上がって来てくれ』

 インターフォンが切れ、ほどなくして自動ドアが開いた。それをくぐり、二人はエレベーターホールへと向かう。

 三機あるうちの一機が待ち構えるように一階に止まっていたので乗り込んで、ボタンに手を伸ばした壱矢が振り返る。

「六階?」

「じゃないの? まさか六○二号室が十階にありはしないだろ」

「わかんないよ、侵入者を惑わすためのフェイクかも」

「住人まで惑わすんじゃないのかそれは。ってか、常に侵入者を警戒しなきゃいけない建物なのかここは」

「さあ?」

 極めて軽く応えた壱矢は六階のボタンを押した。扉が閉まってエレベーターが静かに動き出す。途中で誰かが乗り込んでくることもなく、六階まで上がる。

「六○二、と……あ、ここだ」

 壱矢が部屋の前のインターフォンを押すと、しばらくして扉が開いて譲が顔を見せた。パジャマ代わりなのだろう、ややくたびれたTシャツにハーフパンツという格好で、ついさっきまで横になっていたのか、髪に潰れたような癖がついている。

 雪と壱矢はそれぞれ片手を挙げた。

「うぃーす」

「いよーう」

 二人を交互に見て、譲は不思議そうな顔をした。彼が口を開く前に壱矢が問う。

「一人? 親御さんいないの?」

「……母さんは買い物に出てる。上がれよ」

「いや……」

 雪がここでいいと言う前に、譲は客用のスリッパを出すとふらふらと戻って行ってしまった。仕方がないので二人は玄関に入って扉を閉めた。

「お邪魔しまーす」

「しまーす」

 掃除の行き届いた玄関と廊下はマンションとは思えないほど広い。長い廊下の壁には等間隔に小さな絵画が飾られており、その先のリビングは木目調の家具で統一されている。

「モデルルームみたいな部屋だな」

 呟いたところで、鼻先をふわりと甘い香りが掠めた。覚えのあるそれに雪は目を瞬く。

(なんだっけこれ……花?)

 思わずリビングを見回すが、窓辺に大きな観葉植物の鉢があるだけで花の類は飾られておらず、芳香剤のらしきものも見当たらなかった。カウンターキッチンの向こうにいる譲が、ガラスのコップを片手に首をかしげる。

「どうした雪、きょろきょろして」

「せっちゃんには見知らぬ場所できょろきょろする習性があるんだよ」

 笑いながら雪の代わりに答える壱矢を、雪は軽く睨む。

「人を動物みたいに言うな」

「猫っぽいよね。猫って、何もない空間を見てることがあるじゃない」

「ほっとけ」

 雪が顔を顰めると、壱矢は笑いながら譲へ顔を向けた。

「譲もちょっとそういうところあるよね」

 壱矢に他意はないのだろうが、冷蔵庫に手をかけていた譲は勢いよく振り返った。その表情は目に見えて強張っている。

「……どういう意味だ?」

 問われるとは思わなかったのか、壱矢は不思議そうに返す。

「どうもこうも、そのまんまだけど。たまに何もないところをじっと見てたり、何かを目で追ったりしてるでしょ」

「気付っ……」

 譲は言いさして無理矢理に飲み込んだようだった。不自然に力の籠もった手が微かに震えており、掴んだコップが今にも壊れてしまいそうだ。

 壱矢がきょとんと首をかしげる。

「きず?」

「……いや」

 語尾を濁し、譲は二人から顔を背けた。冷凍庫の氷をコップに移す音がやけに大きく響く。手元が狂ったのか、コップを飛び出して床を滑った氷が彼の胸中を示しているようだった。

 十中八九、壱矢は確証を持てないまでも、譲のことを察している。昔から雪の近くにいた彼が気付かないはずがない。それでも敢えて直接触れずにおくところが、とても壱矢らしいと雪は思う。

(いつから……って、俺が訊くのはおかしいか)

 ここで譲ではなく雪が問えばややこしいことになる。譲のことだけではなく、今まで曖昧にしてきた雪のことから説明しなければならない。雪はともかく、譲は壱矢に己の見鬼を明かすのを嫌がるだろう。

 そこまでを一息に考え、壱矢が更に何か言う前に雪は話題を逸らしてしまうことにした。

「それより、なんか花の匂いしないか?」

 窓の方を見遣っていた壱矢は、くんくんと鼻を鳴らして首を捻る。

「……別に? 消臭剤か何かじゃない? アロマとか、スプレーとか」

「そういうのは置いてないし、まいてないはずだけど。花も飾ってない」

 器用にコップを三つ持ってキッチンから出てきた譲が言う。なんとか気を取り直したようで、足取りはしっかりとしていた。彼はローテーブルにコップを置いて革張りのソファを指差した。

「適当に座ってくれ。麦茶しかなくて悪いな」

 促されるまま腰を下ろし、雪は片手を振る。

「あ、お構いなく」

 雪の隣に座りながら、壱矢が問うた。

「起こしたおれが言うのもなんだけどさ、起きてていいの?」

「ああ。ちょっと熱が出ただけだ。もう下がった」

「ほんとに?」

「うん」

 譲は首肯するが、壱矢は納得していないような顔をしている。雪からしても、譲の頬のあたりがうっすらと赤みを帯びているように見える。動作もいつもより緩慢で、まだ熱が下がりきっていないのだろう。長居はするまいと、雪は鞄からクリアファイルを取り出した。

「忘れないうちに、これ」

「……プリント?」

 ファイルを受け取り、中身を見て譲は不思議そうな顔を上げた。雪は一応補足する。

「来週からテスト週間だろ? 土日も勉強しろってことじゃないのか」

 勉強が遅れないようにという担任の配慮だということはわかっているのだろう、譲は苦笑めいた表情で呟いた。

「鬼だな」

「鬼だよな。知ってたけど」

 この措置の裏には、譲の成績もあるのではないかと雪は思う。譲が前はどこの学校にいたのか具体的には知らないが、東京から来ただけあって、さして勉強しているふうではないのに五月の実力テストではかなり上の方に名前があった。順位は上位二十名しか張り出されないので、そこに載ったことのない雪とは大違いだ。

 譲はファイルを脇に退け、ぎこちない笑みを浮かべた。

「わざわざ悪かったな。今日は学校に行くつもりだったんだけど、親が煩くてさ」

「悪いことなんかないよ」

「え……」

 強い調子の壱矢の声に、譲は僅かに怯んだようだった。壱矢は気遣わしげに言う。

「プリントくらいいくらでも届けるから、ちゃんと身体を治しなよ」

「ああ……うん。でも、もう平気だから」

 口を噤んでほんの少しだけ目を眇めた壱矢の表情を見て、雪は麦茶のコップに伸ばしかけた手を止めた。

(あ、やばい)

 これは変なスイッチが入ったなと、雪は壱矢の様子を怖々と伺った。普段おおらかで鷹揚な反動なのか、一度決めてしまった壱矢は、納得するまで手を緩めなくなる。

「……譲さん」

「さん?」

 聞いたことのない呼びかたに雪が思わず聞き返すと、壱矢は横目で雪を一瞥した。目が据わっているような気がするのはきっと気のせいではない。

「雪は黙ってて」

 呼び方が「せっちゃん」から「雪」に変化したときはいよいよまずい。下手につつくまい、しかし壱矢が動いたら止められるように雪は身構える。

「譲さん」

 姿勢を正した壱矢に改めて呼ばれて、譲もつられたように背筋を伸ばす。

「は、はい?」

「なんかもうらちが明かないので、全力でお節介することにしました」

「はあ……」

 一方的に宣言する壱矢に、譲はぼやけた返事をする。構わず壱矢は続けた。

「全部話せとは言わない。誰にだって秘密の一つや二つあるし、一切隠し事のない関係なんて、むしろ気持ち悪いとおれは思う。その上で、敢えて言う」

 壱矢の声は穏やかだが、強い。

「譲が何を悩んでるのか、おれにはわからないけど、今、凄く辛いんだろうなってのはわかる。話せるなら話してみてよ。吐き出すだけでも違うと思うよ。今でなくても、話したくなったときでいいからさ。おれにでも、雪にでも」

 言葉をゆっくりと飲み込むように、しばらく無言で俯いていた譲から返ってきたのは、疑問符だった。

「なんで……、そこまで? 俺がどうなっても、おまえらには関係ないのに」

 隣に座る壱矢が拳を固め、すわ乱闘かと雪はすぐさま立ち上がれるよう重心を移動させた。しかし壱矢は鉄拳を繰り出すことはなく、呟く。

「友達だからだよ」

 なんのてらいも気負いも虚栄もなく、ただ事実だけを告げる声音でぽつりと落とされた言葉は、理屈でも利害でもなく、だが、動くには十分な理由。わかっていても照れが勝ってなかなか言葉にできないそれを、真っ直ぐに断言できる壱矢は自分よりも大人だと雪は思う。

 やがて、俯いている譲の瞬きが増えた。微かに唇が震え、そこから言葉にならない吐息が零れるのと同時に透明な雫が痩せた頬を伝い落ちる。譲はそのことに酷く驚いた様子で口元を押さえ、立ち上がるとリビングを出て行った。

「あーあ、泣ーかせた」

 雪がわざと軽口を叩けば、麦茶を一気に飲み干した壱矢は首を竦めた。

「いいじゃない。溜め込んだやつを出せばいいんだ」

「……そうだな」

 雪も、溜め込んだ物を吐き出せと言うのには同意する。溜めすぎると爆発するか、抱えられなくなって潰されてしまう。

 譲の問題は、譲が決着を付けるしかなくて、雪たちにできるのは話を聞くことくらいだ。もどかしいが、相談に乗るなどと大それたことは言えない。

「泣くのはストレス解消になるらしいからな」

「そういう小難しい理屈は要らないんだって。泣くのでも叫ぶのでもいいんだよ。まったく、本当にぶん殴ってやろうかと思った」

 コップに残った氷を口に含み、腹立たしげにがりがりと噛み砕く壱矢の肩を、雪は軽く叩いた。

「……よく我慢しました」

「うん。さすがに病人を殴るのはどうかと思って」

「よかった、それくらいの常識はあるんだな」

「失礼な。殴るにしてもちゃんと元気になってからにするよ」

「おう。広瀬川の河原ででも思う存分殴り合え」

 健康な者どうしが喧嘩するなら問題なかろうと、極めて無責任なことを言って雪も麦茶に手を伸ばした。

 譲はまだ戻って来ない。

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