二章 3-1
3
帰りのホームルームが終わった途端に月子が一直線に向かってきた。うっかり目が合ってしまった雪は、見なかったことにしようと顔を背ける。
(……掃除ロッカーに用があるのかも知れない。うん)
譲が欠席なので、月子の延長線上には雪の他には掃除ロッカーしかない。箒でも取りに来たのだろうと胸中で言い訳していると、月子が雪の机に片手をついた。
「ちょっと。なんで目を逸らすのよ」
掃除ロッカーに用事はなかったらしい。仕方なく雪は月子を見上げる。
「目を逸らしたんじゃなくて、雨が降ってないかなーと」
六月も半ば、曇り空が続いて、そろそろ梅雨入りしようかという時分である。今日も朝から分厚い雲が空を覆っている。
月子に後れて彩葉が机にぶつかりながらやってきた。
「月ちゃん、ちょっと、あ痛た」
「彩葉、先に行ってていいわよ」
「今日はセッションでしょ? 一緒に行こうよ」
「そう? じゃあ待ってて。―――鷹谷も待ちなさい」
今のうちに帰ろうとしていた雪は、呼び止められてぎくりと固まった。同じく立ち去ろうとしていた壱矢の鞄を、一人だけ逃がしてなるものかと掴む。すると壱矢は顔を顰めて振り返った。
「放してよ。せっちゃんをご指名でしょ? おれは関係なさそうじゃない」
「神倉でもいいわ」
すかさず月子に言われ、壱矢は不承不承といったふうに口を噤んだ。月子は雪と壱矢を見比べながら言う。
「佐瀬ん家に行きたい? 行きたいわよね、行くわよね。そのときにこれを」
雪はたたみかけるように言う月子を慌てて遮った。
「ちょ、ちょっと待て! なんで俺が譲の家に行かなきゃならないんだ」
月子は手にしていたクリアファイルを軽く振った。中には様々なプリントが詰まっている。
「佐瀬、昨日から休んでるじゃない」
「それを届けろって?」
雪が先回りして言うと、月子はにっこりと笑みを浮かべた。
「話が早くて助かるわ。よろしく」
「だから、待て。なんで俺が」
本格的に体調を崩したらしい譲は、昨日、今日と欠席だった。明日は土曜で、来週から試験期間に入るのを考慮して、不利にならないよう担任が取り計らったのだろう。
月子は何故訊くのかとばかりに首をかしげる。
「あんたたち佐瀬と一番仲いいでしょ。あと、鷹谷は部活やってなくて時間ありそうだから」
まったく反論できず、雪は口を閉じた。横から壱矢が助け船を出してくれる。
「月ちゃんが先生から頼まれたんでしょ?」
「先生って言うか、常陸からね。常陸の都合がつかないから、わたしにお鉢が回ってきたの。でも、わたしもコンサートの練習で忙しいのよ。だから代わりにお願い」
月子から飛び出した言葉に雪は頷く。
「ああ、今度はうちのオケ部の定期演奏会か」
少し前に雪は月子からチケットを買わされていた。壱矢は彩葉から、譲は公平にと月子と彩葉がじゃんけんをして、勝った彩葉から買っていた。なんでも、一枚三〇〇円で一人十枚のノルマがあるらしい。去年も思ったが、オケ部もいろいろと大変そうだ。
「忙しいってったって、一日くらい抜けても平気だろ。今年のコンサートは会場の都合で七月だって言ってなかったっけ」
「七月だけど、第一土曜よ。もう二十日くらいしかないの。それに、明日からテスト前で一週間部活禁止でしょ。今日休むわけにはいかないのよ」
「あ、そうか」
公立校ゆえの制度だが、部活をやっていない雪には印象が薄い。月子は呆れた様子で息をついた。
「んもう。鷹谷も何か部活やったら? オケ部は男子大歓迎よ」
「力仕事要員だろ? やだよ。そもそも、なんでこんな時期にコンサートやるんだよ。萩女みたくもっと早くやりゃいいのに」
「知らないわよ、昔からの伝統なんじゃない? 夏休み入ってすぐコンクールだし。……じゃなくて、とにかくお願い」
拝まれ、雪は渋々月子の手からファイルを抜き取った。
「わかった。今回だけだぞ」
月子は胸の前で両手を合わせ、ほっとした様子で笑みを浮かべた。
「ありがと。今度お礼するわね」
「いいよ別に。それより、譲ん家の部屋番号教えてくれ」
「六○二号室よ。マンションの場所は……」
「知ってる」
雪が遮ると、月子は驚いた様子でもなく頷いた。
「じゃあよろしくね。―――お待たせ。行こ、彩葉」
傍らで待っていた彩葉が頷き、二人は連れだって踵を返す。
「んもう、クラス委員なんて来年は絶対やらない」
「でも、わたしは月ちゃん向いてると思うな」
「そんなことないわよ。彩葉こそ、来年やったら?」
「ええー、わたしには無理だよ」
話しながら教室を出て行く二人を見送り、雪はファイルを鞄にしまい込んだ。横で聞いていた壱矢が鞄を肩にかけながら言う。
「おれも行ってもいい?」
「ああ。でも、壱矢も部活は? 東北大会もうすぐだろ」
「うん、今月末」
「テスト終わってすぐじゃん。部活禁止とか言ってる場合じゃないだろ、学校だって特例で許可してくれんじゃないのか」
「頼めば許可は出るかも知れないけど、一人で練習しても集中できる気がしないからいいよ。それに、朝練はしてもいいって」
「エースがそれでいいのかよ」
「いいんだよ。学校のために部活やってんじゃないもん」
言いながら壱矢は携帯電話を取りだし、メールを打ち始めた。部活を休むことを誰かに連絡しているのだろう。
「まあ、おまえがいいならいいけど。―――壱矢って変なとこ頑固だよな」
携帯電話をぱくんと閉じた壱矢が不満げに唇を尖らせる。
「真面目って言って欲しいな」
「今回のは真面目とは違うだろ。譲に何か用でもあるのか?」
「用って言うか、ちょっと言いたいことが……あ」
メールの返信が来たらしく、壱矢は閉じたばかりの携帯電話を開いた。手持ち無沙汰になった雪はふと譲の席に目を遣る。
玉藍を付けた日は、久しぶりに眠れたと礼を言われたが、それにしては浮かない顔をしていたのが気にかかった。玉藍が何か言ったのかと問うても、首を横に振るばかりだった。玉藍とのやり取りを思い出し、雪は一つ息をつく。
「譲は夢を見ています。ですが、譲の夢ではありません」
「なんだって?」
思いがけないことに驚いて聞き返す雪へ、玉藍は猫の姿ながら神妙な表情で続ける。
「譲は誰かと強く同調していて、その相手の夢を共有しているようです」
「夢を、共有……」
同調の話は聞いたことがあるが、そんなことが起きるのかと雪は半ば呆然と繰り返す。玉藍は小さく尻尾を揺らしながら続けた。
「譲は、精神感応の素質があるのかも知れません。なんと言うか……、壱矢とは真逆の性質なのだと思います」
「超常現象に敏感で呼び寄せるってことか?」
そういったことにとんでもなく鈍感で、有象無象に避けられる壱矢と真逆というのはそういうことだろう。
玉藍は首肯した。
「相変わらずの無防備でもあります」
「まあ、護身法は教えたけど一朝一夕で身につくものじゃないからなあ。―――玉藍がいれば夢をブロックすることができる?」
「はい。間に入って遮ってやれば、譲が夢を見ることはなくなるかと」
「なるほど。ちなみに、夢の主? 共有の相手がわかったりしないか?」
玉藍は悄然と頭を垂れる。
「相手が誰かはわかりませんでした……申し訳ありません」
「いや、玉藍が謝ることないよ。譲の見てる夢じゃないっていうのがわかっただけでも収穫だ。俺の方こそ、無茶言ってごめん」
玉藍は勢いよく首を左右に振る。
「とんでもないことでございます。わたしはわたしの役目を果たしたまで。お役に立てれば幸いです」
「……ありがとう」
「……っちゃん。せっちゃんってば」
呼ばれて腕を引かれ、雪は我に返った。
「なんだ?」
「なんだじゃないよ。何遠い目になっちゃってるのさ。待たせてごめん、行こ」
「ああ、うん」
壱矢に促され、雪は鞄を片手に立ち上がった。教室を出て昇降口へ向かう。
「メール、なんだって?」
「部長が怒ってたって」
だろうなあ、と雪は深く頷いた。
「戻ったほうがいいんじゃないのか」
「だから、どうせ集中できなくて意味ないってば。時間と労力の無駄。あと、怒られ損」
「……おまえって、たまに物凄く……まあいいや」
雪が苦笑すると同時に、前方の角からジャージ姿の女子生徒が姿を現した。雪の知らない顔だったが、相手はこちらを捜していたようで、見つけるなり目を見開いて声を上げる。
「いた!」
「げ、部長」
壱矢の呻きで雪は事態を悟った。弓道部部長は雪には目もくれずに詰め寄ってくる。
「神倉……あなたね、この時期にサボるなんて―――」
彼女の話は聞かずに壱矢は雪の前腕を掴んだ。
「行くよ、せっちゃん!」
「へ? ちょっ、なんで俺まで!」
廊下を走り出す壱矢に腕を引かれ、雪は逃げる理由がないのに不可抗力で走る。
「待ちなさい、神倉!」
「明日ちゃんと朝練しますからー!」
部長に声を投げ、それでも雪の腕は放さない壱矢に、雪は渋々ついていった。校舎はロの字型なっているので、昇降口への道筋が限定されることはない。しかし、下駄箱の前で待ち伏せされたら意味がないのではないだろうかと、走りながら雪は尋ねた。
「おまえ、今からでも戻って部活に出た方がいいんじゃないのか?」
「出ても出なくてもどうせ部長に怒られるもん。絶対やだ」
出た方が怒りは少なくて済むのではと雪は思ったが、走りながらでは息が上がるので口には出さない。
(ま、怒られるのは壱矢だけだしな)
ぐるりと遠回りして辿り着いた昇降口には、幸い部長や他の弓道部員の姿はなかった。急いで靴を履き替え、二人は慌ただしく学校を後にする。
「ジャージの色からして、三年だろ? さっきの部長。引退しないのか?」
「部長も東北大会に進んだから。三年生では……って言うか、女子ではあの人だけ」
「なるほど」
男女一人ずつ個人戦で勝ち進んだらしい。壱矢はともかく、部長は受験もあるのに大変そうだと、雪は極めて他人事に考えた。
地下鉄の駅への道を歩きながら、壱矢が言う。
「譲、ここんとこずっと調子悪そうだったよね」
「確かに、やっと休んだって感じだったもんな」
「ね。そのくせ、心配すると嫌がるし」
「大丈夫だって言い張るしな」
「そうそう。今の譲って、昔のせっちゃんを更に拗らせたみたいだよね」
「……人を風邪みたいに言うな」
壱矢の言いたいことはなんとなくわかる。雪も昔は自分の殻に閉じこもりがちだったし、他人には滅多に懐かない、相当に可愛くない子供だった。だが、譲の我の張りかたは自分とは微妙に違うように雪は思う。
雪の頭の中を読んだかのように、壱矢が首をかしげた。
「少し違うかな。せっちゃんは手負いの獣って感じだったけど、譲は産後の母鹿っぽい」
「母鹿って。あいつは何を守ろうとしてるんだ。もっとましなたとえはないのか」
「えー? 的確だと思うけどなあ」
笑い混じりで言い、しかしすぐに真顔になって壱矢は続ける。
「噂が原因かなって思ったんだけど、違うみたいだし……譲が具合悪くしたの、もっと前からだもんね」
「ああ……」
バス事故の噂は、今では殆ど聞くことはない。人の噂も七十五日と言うが、それよりも遙かに短い日数で収束した。譲が変に隠し立てしなかったことと、被害者だということで、皆の同情する気持ちが自粛の方にはたらいたのだろうと雪は考えている。なんにせよ、譲の傷口に塩を塗り込むようなものだっただろうことは想像に難くない。
(そいうえば、こっちにもう一人被害者がいるんだっけ)
転院して地元である宮城に戻ってきたという少女のことを思い出し、ぼんやりと靄のような考えが頭に浮かんだが、それが纏まりきらないうちに雪は壱矢によって思索から引き戻された。
「ちょっと、せっちゃんどこ行くの」
「え?」
気がつけば、地下鉄駅の入り口を通りすぎるところだった。慌てて足を止める雪へ、壱矢は笑みを向ける。
「考え事すると周りが見えなくなるのは昔からだね」
「そうか?」
「そうだよ。昔、授業中に考え事してて、声をかけてきたのが先生だって気付かないで煩い邪魔するなって返して、物凄く怒られたことあったじゃない」
「……おまえ、変なこと覚えてるな」
今の今まで忘れていたのだが、壱矢に言われて思い出し、雪は顔を顰めた。たしか、中学に上がる少し前くらいの出来事だ。
小学生の頃は友人と呼べるのは壱矢くらいだったし、中学時代の友人とは高校が別れて疎遠になってしまった。幼い頃の話をするのは壱矢くらいだと考えて、雪はふと、今譲に必要なのは壱矢のような存在なのではないかと考える。
ある意味「同類」である雪が、譲への理解を示すのは難しいことではない。まったくの他人であり、異能などには一切関わりのない人間が、すべてを受け入れてくれるのは希有なことだ。ゆえにそれが心の寄る辺になり、あるときは救いにすらなる。―――以前の雪がそうだったように。
「壱矢が来てくれて、よかったのかも……」
壱矢は束の間きょとんと雪を見ていたが、やがて胡乱なものを見るような目になった。
「だからおれ一人で行けってのはなしだよ。おれは譲ん家知らないんだから」
「なんでそうなる」
「相手を持ち上げて思い通りの方向へ持っていくってのは常套手段でしょ」
「……おまえ、案外腹黒いよな」
雪が半眼で言うと、壱矢は眼鏡を押し上げて悪そうな笑みを浮かべた。
「おや、案外なのかい?」
「自分で言うのかよ。案外どころじゃなく真っ黒だわ」
「ふふふ、誉め言葉として受け取っておくよ」
不気味な笑い声を立た壱矢は、気を取り直したようにぱっと顔を上げた。
「まあ、来てくれてよかったって言われたからには、それなりのはたらきをしないとね」
妙に晴れやかな表情で、そのくせ目は笑っていない壱矢を見て、雪は言い様のない不安を覚える。
「なんか不穏なこと考えてるだろ、おまえ」
「そんなことないよ。でも、わかり合えないときは、拳を交えることも時には必要だと思うんだ」
「いきなり不穏じゃねえか。病人を殴り飛ばすなよ」
「それは譲次第だなあ。やせ我慢をやめたら考え直さないでもないけど」
薄暗い笑みで言う壱矢を横目に、まさか本当に殴ることはないだろうが、万が一のことがあったら止めようと、雪はひっそりと決意した。譲が本調子ならば放っておくのだが、病人に喧嘩をさせるわけにはいかない。
(でもまあ、気持ちはわからなくもない……)
やせ我慢という部分には雪も同意する。おそらく、譲の不調の原因には慢性的な睡眠不足も含まれるだろう。一人で抱え込むことはないのにと、雪は小さく息をついた。
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