二章 4-1

 4


 譲の家を辞しての帰り道、壱矢が唸りだした。

「……うーん」

 隣を歩きながら雪は問う。

「なんだよ」

「わざわざ押しかけていったくせに、譲を泣かせた挙げ句、本当に話聞いただけで帰って来ただけってのがなんとも」

「仕方ないだろ、カウンセラーでもないただの高校生に何ができるってんだ。大体、泣け叫べ喚け、俺がぶん殴ってやるって言ってたの壱矢だろ」

「そこまで言ってない」

「気にすんな。あとは譲の気持ちの問題だ」

 あの後、目を真っ赤にして戻ってきた譲は重い口を開いた。

 ぽつりぽつりと、途切れがちに紡がれた話を要約すると、こうだ。

 一年ほど前、譲の父親が宮城にある支社に転勤になった。三年で戻る予定だったので単身赴任をすることにして、譲は母と共に東京に残ったのだが、一年後に二人は父を追って宮城へ引っ越すことになった。その原因の一つに、例のバス事故がある。もともと単身赴任には反対だった母親が父親を説得する決め手になったという。

 ところが、宮城に越して少ししてから、譲は事故の夢を見るようになった。最初は週に一度くらいだったのが徐々に頻度を増し、今では毎日のように見るという。そのせいで睡眠不足を通り越して眠れなくなり、現在に至るということだった。

(東京にいた頃は見なかったのに、宮城に来てから急に見るようになった……)

 夢の情景は、異様にリアルなのだと譲は言った。記憶よりも鮮明に思えるほどで、目を覚ますまで夢だと気付かないのだという。まるで、何度も繰り返し事故に遭わされているようだと言っていた。

(しかも、玉藍が言うには譲自身の夢じゃなく、他人の夢だ。だったらその相手は一人しかいない)

 大学病院に入院しているという、今も意識が戻らないらしい、もう一人の被害者。口元に手を遣りつつ、雪は記憶を探る。

「ほら、また」

「え? ……っと」

 壱矢に肘のあたりを掴んで止められ、前方の信号が赤なのに気付いて慌てて雪は立ち止まった。

「悪い」

「いいけどさ、一人で歩いてるときに考え事はやめなよ、危ないから」

「ああ」

 駅を通り過ぎるくらいならばいいが、今のように信号に気付かないというのは危険極まりない。

「……おまえの今の行動、まるっきり保護者だよな」

「ええ?」

 壱矢は驚いたような顔で雪を見ると、眼鏡を押し上げて、にっこりと晴れやかな笑みを浮かべた。

「わかった、次は止めないね」

「え、嘘。冗談、冗談です。止めて」

 止めないどころか、車道に蹴り出されかねないと雪は慌てて撤回すると、壱矢は笑って片手を挙げた。棟の違う壱矢とはここで別れる。

「それじゃ」

「ああ」

 エレベーターに乗り、廊下を歩いて、雪が自分の家に到着したのを見計らうかのように鞄のスマートフォンが震えた。取り出すと着信は「佐瀬譲」となっており、さっき別れたばかりなのになんだろうと首を捻りながら雪は電話に出る。

「はいはい?」

『……俺』

 躊躇いがちに聞こえる譲の声に、玄関を閉めつつ雪は笑い交じりに応える。

「降り込まんぞ」

『詐欺じゃねえよ』

 間髪入れずに返ってきた言葉に声を立てて笑いながら、雪は問うた。

「どうした?」

『あ……その……』

 電話の向こう側で譲が言い淀むが、雪は促すことはせず待つ。玉藍が出てきたが雪が電話中なのを見て頭を下げるだけで戻り、雪がリビングのソファに鞄を放り出して腰掛けたときにようやく聞こえてきた譲の言葉は、頭を抱えたくなるようなものだった。

『……ちょっと、かけてみただけ。悪かっ―――』

 この期に及んでと怒鳴りつけたくなるのを堪え、切られる前にと雪は重ねて尋ねる。

「壱矢には言えない話か?」

 先程話さず、今改めて自分に電話をかけてくるのはそういうことだろうと雪は考える。「言えない」ではなく「言いたくない」かも知れないと思いながら返事を待つが、沈黙したまま応答がない。切らないのは消極的な肯定だと勝手に解釈し、雪は別の方向からアプローチしてみることにした。

「身体が平気なら、明日うちに来ないか」

 電話の向こうで小さく息を飲む気配がした。一呼吸ほどの間を置いて、吐息のような声が返る。

『……うん』

「じゃあ、昼頃に玉藍を迎えにやるよ」

 横で聞いていたらしい玉藍が、抗議するように尻尾でぺしぺしと雪の足を叩いた。電話の向こうからは戸惑ったような声が聞こえる。

『い、いいよ別に。場所は知ってるんだから』

「まあまあ。一回、それも夜に来ただけだし、道案内がいた方がいいだろ。―――あ、でも、無理は駄目だからな。体調悪くて出て来られなさそうなら、連絡くれ。玉藍に言うんでもいい」

『……わかった』

「じゃあ、明日」

『うん……ごめん』

 何故そこで謝るのかと言いたかったが、雪の返事を待たずに電話は切れた。一つ息をつき、雪は携帯電話を閉じる。足下を見れば、玉藍が恨めしそうに見上げていた。

「セツさま……」

 雪は三毛猫を向かい合うように抱き上げた。

「頼むよ。今の譲を一人歩きさせるのは危ないだろ。それに、譲は来いっつったら来ると思うんだ」

「当然です。セツさまがお呼びなのですよ」

 大真面目に言う玉藍へ、雪はかぶりを振る。

「いやいやいや。―――ええと、だからさ、玉藍が様子を見て具合悪そうだったら、外に出さないでくれないか」

「そういうことでしたらお任せください。譲が何と言おうと一歩も部屋から出しません」

「……具合よさそうだったら止めなくていいんだからな? つか、別に軟禁しろって意味じゃないからな」

「かしこまりました。セツさまのご命令とあらば、わたしにいなやはございません」

「そのわりにさっきは尻尾がばしばし言ってたんだけど」

「少々運動をいたしました」

 うそぶく玉藍の背を撫でて雪は小さく笑う。

(俺は、多分……嬉しいんだろうな)

 今まで、玉藍のことをわかってくれるのは家族だけだった。それも、玉藍を「見える」のは父だけで、母と兄たちは玉藍が姿を見せようとしなければ殆ど視認することはできない。

 今まで誰にも言ったことはないが、雪にとって玉藍は家族同然なので、不可抗力とは言え彼女の存在を区別しなければならないのは、少々―――否、かなり寂しいことだ。だから、強い見鬼けんきを持つ譲が玉藍のことを捉えることができて、彼女のことを話題にできるのが嬉しい。

 今の譲を一人で歩かせたくないというのも本当だが、何かと理由を付けて譲と玉藍を関わらせたいのではないかと、雪はひっそりと己に苦笑した。

 尻尾を揺らしながら玉藍が言う。

「元気そうではないですか。もうわたしが譲に付かなくてもいいのでは?」

「あの様子じゃ、玉藍がいない日は夢を見てるみたいだ。もう少し、この件が片付くまでお願いできないかな」

「本当に……、セツさまはお優し過ぎます」

「優しいとか優しくないとか、そういうんじゃないってば」

 玉藍には、週に何度か譲の眠りを守るのを続けて貰っている。譲は何も言ってこないので、気付かれないように玉藍が計らっているのかも知れない。雪としては毎日譲に付いていて欲しいのだが、玉藍が承服してくれなかった。

 玉藍は尻尾を揺らして考えていたが、やがて諦めたように一つ息をついた。

「譲が復調することが、雪さまのお心に安寧をもたらす唯一の方法なのですね。承知いたしました」

 そう来たか、と思ったが口にも顔にも出さず、雪は神妙な表情を作って頷く。玉藍はぱたりと尻尾を振ると、雪の膝から飛び降りた。

「ささ、お手を洗ってお着替えください。お茶をお持ちします」

「お茶はいいよ。俺もいい加減テスト勉強しないと」

「では、夕餉の準備ができましたらお呼びいたします」

 頷いて雪は立ち上がった。肩に鞄を引っかけ、スマートフォンを片手に部屋に戻る。

(譲は何を話したいんだろう)

 壱矢には話せないことならば、見鬼に関することだろう。またおかしなモノにでも絡まれたのだろうかととりとめもなく考えているうちに、早く手を洗えというまるっきり母親のような玉藍の声に呼び戻された。

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