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「へたれのくせにへたれのくせに……」


 どきりとした。心音が爆ぜて、息が止まった。血流が一気に良くなり顔が赤らむのを察してなんとかごまかすので精いっぱいだった。

 彼が、可愛いと言ったのは、自分自身そのものが可愛いと言ったわけではなく。

 男にじゃれ付く姿。その様子が可愛いと言ったのだ。それが理解出来ているのに。

 可愛いと言われた事に対して異常なまでに過敏な反応をしてしまっている自分が居た。

 照れた顔を見られるのが嫌? なぜ嫌がる? 恥だからか? 負けたか気がするからか?

 確かに、それはありえる。完全試合目前だったところに強烈なカウンターパンチを食らった気分だった。

 もしこれが試合でレフリーがいたのならテクニカルノックアウトで自分の負けだ。

 衣服が擦れる音がした。夜の街に行くのだから当然だ。

 しかし、心のどこかで期待する自分も居た。

 もしも、あの音が着替えではなく、次の行動へ移るための準備だとしたら…なんて考えてしまっていた。

 とっくに覚悟なんて出来ていたはずなのに…怖気づいている自分が居た。

 そうかと思えば女の芯に火が点っている。いったいぜんたい自分はどうしてしまったのだろうか?


『相手は年下だぞ。しかもバカで、ヘタレで、甲斐性無し。なんで、あんなヤツ相手にドキドキしているんだ⁉』


 恋愛感情とは生殖行為を促すためのシステムだと考えれば実によく出来ている。

 男性と違い女性は性的興奮が絶対条件ではない。しかしながら、その方が事が円滑に済む事も事実。

 モンスターによる生命の危機を強く感じてしまった心。人は生命の危機を感じとると生殖行動が活発化しやすくなる。

 それは自分とて当てはまる。つまり本能的に子孫を残そうと精神を誘導していたとしても不思議ではないのだ。


 もしも、あの時――


 彼があの場に居合わせなかったら。

 強引に安全圏まで距離をとっていなかったら。

 おそらく自分は愛衣をかばっていただろ。

 そして頭から背中にかけて溶解液を浴び肌は焼けただれ、もしも脊椎を傷めでもしたら致命的だ、最低でも五体満足な生活は送れまい。

 そう考えれば彼に対し感謝こそすれ意地悪するのは、おかど違いもはなはだしい。

 かといって、このまま流されたら負けたみたいで悔しくもある。


『なんだ、この焦燥にも似た感覚は?』


 父親の話を何度と無く繰り返して聞いてきたせいだろうか?

 まるで友を戦地に送り出したような気分だった。


『ああ、そういうことか……』


 どうせ命を失うなら最後に思い出を作ってから逝けと――慰みにでもなろうと思っていたのかもしれない。

 不明点が多すぎるゲーム。場合によっては命を落としかねない危険な遊び。そんなものに彼は興じてしまっている。


「帰ってこないような錯覚に囚われても不思議じゃないのかもしれないな」


 それに、この感覚も……。


 昨日まで繰り返されてきた日常が今日も繰り返されるとは限らない。

 昨日まで当たり前だった常識が今日も通用するとは限らない。

 戦争、災害、事故…きっかけはなんだっていい。

 何かが起こり。それに巻き込まれたなら。平穏だと感じていた日々はあっさりとその姿を変貌させてしまうのだから。

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