第11話 変化してゆく学園生活(4)


「――なぁ、ライラ・トゥーリエント」

 一人、ホールの端へと移動したライラの背に声がかかった。びく、と振り返るとレオナルドが怖い顔をして立っていた。

「レオナルド君。あの、さっきは、かばってくれてありがとう」

 レオナルドはかばったということを否定せず、ムスッとしている。ライラのことを嫌っているのに、助けてくれた事実が不思議だった。

「……その、か、体は」

「体?」

「あいつに、かけられてただろ、《魅惑》」

 その言葉には怒気と苛立ちが滲んでいた。魅惑の術自体は淫魔でなくとも扱える魔術だが、精度や効力において格段の――それこそ比べようにもならない程の違いがある。

 《魅惑》を嫌っているからこそ、自分を助けてくれたのだとライラは理解した。


「うん、大丈夫。……先生が《魅惑》かけてきてたの、よく分かったね」

 どうやら今は会話しても許してくれるようだ。ライラはレオナルドを真っ直ぐ見上げた。しっかりと目が合い、気まずげに目を逸らしたのはレオナルドだった。

「それぐらい分かる。聞きたいのは、底知れない魔力を持つデヴォンの《魅惑》に、どうしてお前はかからなかったんだ? 淫魔とはいえ、上位の存在の《魅惑》にはかかるもんだと思っていたが、そうじゃないのか?」

 レオナルドはライラが《魅惑》にかからなかったことが不思議で喋りかけてきたらしい。確かに不自然だろう。でも《魅惑》にかからない特異体質だと、これ以上異質さを知られるのは避けたい。父たちにも、他言しないように言われている。

「えーと。淫魔だって《魅惑》や《催淫》にかかるよ。ただ、今回はかからなかっただけで……運が良かったのかな」

 誤魔化すように笑ったが、レオナルドは懐疑的な目でライラを見ている。彼は思い切り息を吸い込むと、目を瞑って大きく息を吐いた。バチリと目を開け、ライラ見据える。


「なぁ、お前何なんだ?」

「え、なに……」

 そんなことを言われても意味が分からない。困惑したライラ以上に、困り果てて途方に暮れた目をしているのはレオナルドの方だ。

 レオナルドが一歩近づいてくる。

 ――逃げなければ。頭の中で思うのに、足はそこに縫い止められたように動かない。

(囚われてしまう)

 レオナルドが更に一歩近づき、手を伸ばした。首を絞められるのかと思ったのに、その手は頬に伸び――


「ライラー!」

 二人の間の緊張をぶち壊すように、キャロンがライラに抱きついてきた。

「先程は大丈夫でしたの!? あんなことが出来るなんてビックリしましたけど、本当に怪我してません? ああ、ほんと、ありがとうライラ。でもあんな危険なことしないでくださいね、可愛らしい貴方に何かあったら私……っ。……あら? そこにいるのはレオナルド・ウォーウルフ君ですか? 貴方にも、ありがとうと言っておきますわ。でもその手は何かしら」

 キャロンはとても礼を言っている口調ではなく、むしろレオナルドを睨んでいた。

「またライラを虐めていらっしゃるの?」

「違うよ、心配してくれてたんだよ」

(心配だけじゃないけれど)


 ライラはそう言ったがキャロンは納得しないまま、レオナルドを睨み付ける。レオナルドは興味を失くしたように二人の傍から離れて行った。

「ライラ? 本当に大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫だよキャロンちゃん。ありがとう。でも本当に何もなかったよ」

「あの方、以前ライラをなじっていたじゃありませんか。……ライラが、教室で微妙な立場になったのもあの方のせいでしょう。それに流された私たちも悪いのですけど」

「うん、まぁ、そうだね」

「ごめんなさい、ライラ」

「何で謝るの? 別に何かされた訳じゃないし、レオナルド君が淫魔を嫌いだっていうなら仕方ないんだと思う。レオナルド君が相当強い魔族だっていうのは、私でも分かるもん……クラスがあんな風になっちゃうのも無理ないよ。今は、こうしてキャロンちゃんといるんだし、それでいいの」

「でも……」

「それに、レオナルド君って悪い魔族じゃないと思う。さっきだって、嫌いな私を助けようとしてくれたし。根は優しいんだよ、きっと」

「ライラ、本気で言ってますの?」

「え? うん」

「貴方って……」


 キャロンは呆れたように呟き、優しく笑った。

 授業はまだ終わっていないが、レオナルドはホールの外へ出て行ったようだ。

(何故さっき囚われると思ったんだろう)

 レオナルドに見つめられると上手く体が動かない。胸にほんの少し熱が灯る。

(変なの)

 それは嫌われているからだろうか――と考えた。


       〇


 肝が冷えた。

 デヴォンとかいう似非教師が何かの手違いで上位の火焔を作った。レオナルドがかばいに行かなくても、奴が吸収魔術を発動させて大事には至らなかっただろう。驚いたのは、自分と同時に動いた奴がいたからだ。お世辞にも上手いと言えない魔術を披露したばかりのライラが、その火焔を殴り飛ばした。魔術は発動していなかった。素手で怪我無くあんな芸当が出来るのは、戦闘魔族の中でも上位である。防護は確かにしていなかった。

 それだけでも問題だったが、レオナルドが許せないのは次に起こったことだ。

(似非教師、あろうことか《魅惑》をかけてきやがった)

 他の生徒は気付いていないだろうが、デヴォンは強い出力で《魅惑》をかけていた。研究材料としてのライラが相当魅力的な素材だったのだろう。許せることではない。


 淫魔たちがどうなろうと、俺には関係ない――と自分に言い聞かせても、レオナルドの怒りは爆発しかねない領域まで膨れ上がり、体が勝手に動いていた。《魅惑》にかかっているだろうライラを引き離す。状態確認に振り返ると、当のライラはケロリとしていた。

――今の魅惑がかからないのか!?

 魔力の低いライラが、デヴォンのあの魅惑に打ち勝てる訳がない。何故だ。

後で問うてみると「運が良かったかな」などと言った。運などでどうにかなる問題じゃない。そして入学式以降、人型では初めて見る笑顔を見せた。ただ、狼姿のときに見せる笑顔とは違ってよそよそしい。それが至極じれったかった。自分のせいだとは分かっている。

 花のような、蜜のような、形容しがたい天上の匂いがする。間違いなく目の前の女の香り。大きく息を吸い込んだ。狼のときと同じく、くらくらと酩酊しそうになった。


――お前は何だ。

 自分を吹き飛ばしかねない甘美な誘い。これが《魅惑》でなくて何なのだろう。この状況下でも《魅惑》をかけてくるのか。しかし目の前のライラは、意図的にそうやってないことぐらいは分かってきた。

――無意識にしているのか? 俺がここまでまいっているのに、クラスの奴らが引っかからないのはおかしい。俺だけに向けている? 何故?

 ライラはレオナルドを見て困った顔をしていた。当惑しているのはレオナルドの方だというのに。

――誘いに、乗ってやったら、こいつの思う壺なんだろうか。……もし、そんな気がなかったのなら、驚くのだろうか。傷つくんだろうか。

 一歩、彼女に近づく。

――トゥーリエント家の淫魔だ。……傷つく筈ない。おそらく。

 もう一歩、近づいて彼女に触れようとした。向こうは呆然としてこちらを見ている。


 あと少しのところで邪魔が入った。フォレスト家の女だ。魔力が高い訳でもないのに、何となく苦手なタイプだと認識している。そいつがレオナルドを責める言葉を吐いた後、それをかばったのは驚くことにライラだった。

――どうして俺をかばう? 俺がお前を嫌いだというのは知ってるだろうに。

 入学式のあの日、初対面のライラにぶつけた言葉と嫌悪を忘れているはずはない。

 レオナルドは耳がいい。遠く離れた場所にいても、聞こうとさえ思えば声を拾える。だから、ライラがレオナルドのことを「根は優しい」と言ったことも聞こえていた。

 ――そうか、馬鹿なのか。

 ちりりと胸を焦がす痛みは気のせいだ。



 キャロンという友達もできたようだし、今日は来ないんじゃないか、と思っていたが違った。昼休みになるとライラはすぐ教室を出た。今日も学園の外れに行くつもりなのだ。

 レオナルドは急いで昼食を食べ、屋上へと上がり、狼となって会いに行く。

 水色の狼を見たライラは嬉しそうに顔を綻ばせる。天真爛漫で、レオナルドには絶対見せない笑みだ。多分クラスの奴も知らない――けれど、それも時間の問題だろう。今日の出来事で、ライラに対する見方は変わった筈だ。

(それに、可愛……いやいや)

 水色の狼(この姿)に対してライラは無防備だ。近寄って、彼女の体を囲むように座っても動じない。むしろ嬉しそうに身を預けてくる。所有欲の表れだと言って良かった。

 上半身を狼の体に預けたライラは、うっとりとした心地で美しい毛並みを撫でていた。


「狼さん、さっきの授業でびっくりしたことが起きたよ」

『ふうん』

「前に、私のこと嫌いって言った人のこと覚えてる? その人がね、私のこと助けようとしてくれたの。びっくりしたー」

『……本当は嫌いじゃないんじゃないか?』

「えーそれはどうだろう? 多分ねぇ、よっぽど淫魔とか淫魔の魅惑が嫌いなんだろうね。だから許せなかったんだと思う、先生を」

『お、おう』

「嫌いなはずの私まで助けようとするんだもん。たぶん、優しい魔族だよね。それが分かって、良かったかなぁ」

『……本当に嫌いだったら、助けないと、思うが』

「そう思うでしょ? だから、律儀な性分なんだろうね」

『……』


 ライラはのほほんと笑っている。レオナルドは二の句が継げなかった。

「狼さんはなんだか納得いってない?」

 ライラの言葉に、勢いよく首を縦に振る。

「私ね、世間知らずだけど、自分に向けられる嫌悪が分からないほど鈍感でもないんだよ。あ、でも、今日はいつもみたいな敵意は無かったかも。何でだろう?」

 きょとんとするライラからは、変わらず甘美な匂いがする。狼の自分はそれがうっとりとして心地よかった。

 ――正体を明かすなら、いつかバレるかもしれないのなら、傷が浅いうちに、今言った方がいいんじゃないか? そして謝罪と、ライラの無自覚かもしれない《魅惑》について問い質す。狼のときは笑うくせに、レオナルドのときは目も合わせようとしないのが腹立つ、と言うか、寂しいのだ。普段からその笑顔を俺に――


「ライラ、こんなところにいましたの?」

 また邪魔が入った。

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