アン・エイビーの『おともだち』②


 チャックが怖いもの。

 養父おじさんが帰宅する時の扉が開く音。

「おかえりなさい」と、おばさんが迎える音。

「おかえりなさい!」と、従妹ファンちゃんが父親に駆け寄る足音。

「あの子は?」「それが…」薄い壁の向こうで、自分のことを話す声。

 トントントントン、ガチャリ  

「チャック? 起きてるか? 」部屋の扉が開いて、自分を食事に誘う声。

 この一家と同じ食卓に着くとき。

 会話を斜め後ろから見ているとき。

 僕にわからないご近所さんや、思い出を話しているとき。

 彼らが僕を、思い出したようにちらりとうかがう視線。

 壁の向こう側の『日常』というもの。彼をおいていく、『当たり前』の流れ。



 アン・エイビーを一言でいうのは難しい。


 豊満すぎる肉付きのいい身体と、目尻の垂れた熱に浮かされたような目や、ゆるんだ半開きの口。唇の右端には、彼女の特徴と言える黒子が一つ。

 ピンクのルージュ、紫のアイシャドウ、濃い媚びるための化粧に、胸元を露出するフリフリヒラヒラのブラウス、笠形に膨らんだスカート、頭のリボン。


 そんな彼女の趣味と生きがいは、生物のあらゆる体液をその身に浴びることである。


 彼女はある日やってきた、彼の部屋の侵入者だった。

 幻のようにあらわれた年上の友達とのおしゃべりは、『秘密』という関係も相まって、とても楽しいものだった。

 この家の住人は昼間、主人は職場に、夫人は畑に、長女は学校へと行ってしまう。彼は一人きりで、この家の一室に閉じこもる毎日だった。

 奇しくも、アンのその浮世離れした外見は、少年にとってまさに『幻のような』『夢の住人の様な』存在を助長した。

 泥棒ならば、こんなに派手な外見をしているわけもないし、家主に気付かれず何度も音もなく、家の奥の一室に侵入することが出来たこともそうだ。


 アンは初対面から、湿った陰の臭気をプンプン漂わせていたが、八歳の少年には分かるわけもなく、舌っ足らずで甲高い、フワフワいた口調の女は、むしろ話しやすかったのである。


 チャックは今、それらをとても後悔している。

「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ――――」

 ただ淋しかった。一人怖かった。

 家主のいない家で知らない人間と会うなんて、とんでもないことだ。わかっていたけれど、淋しかった。

 アン・エイビーは次の日、やはり現れた。チャックは部屋の隅で恐怖にあえぐことしかできない。

 本性が出た今では、彼女はおおよそこの世のものと見えなかった。

 何せ、たった一夜しかたっていないのに、切れた指はすっかり骨と肉でくっついているのである。


「うーん、いまいち面白くないナ」

 アンは唇をとがらせて言った。

「チャック、ノルマを作ったげる」

 実に楽しそうに、アンは笑う。



 アン・エイビーが彼に望むノルマは、『動き回ること』だった。

 ゆっくりと、転びさえしなければ、彼の指に括りつけられた彼女の『糸』は彼女の体を傷つけはしない。

 出来る限り広く、色々な場所を、毎日たくさん、糸をばらまいて歩き回れ。

 それが彼女の言う『ノルマ』だった。

 しかしこれが、ひきこもりの彼にとって、どれだけの苦痛か、彼女は知らないのだろう。



 チャックが望むもの。

 ――――誰も僕を見ないで。



 せめてもと、彼は一家のいない昼間に終わらせ、気付かれないうちに家路につく。

 初日に選んだ時間は、少し肌寒い、秋の真昼間だった。目の前に本の一族の居住区集落が広がる。


 この街は管理局を中心に栄えている街だ。東のこの集落は、主に管理局に勤める本の一族が多く住んでいる。養父も例外ではない。

 大多数の本の一族がそうであるように、チャックの髪と瞳もまた、色鮮やかである。しかしチャックは、自分の髪色が嫌いだった。


 チャックの髪色は薄い紅色。それも、こんなに明るい陽に透かしたり、薄暗い中では白に見紛うような、淡すぎる桜色をしている。

 血縁ゆえに、ここの一家も自分に似た髪色をしているが、けれども幾分か濃い色合いなのである。

 『白』に見間違えるなんて、とんでもないことだ。だけれども、そう見えてしまっても仕方のない色。

 現存する『禁忌の子』。三人のうちの一人が、丁度チャックと同じ年頃だというので、余計に肩身が狭い思いをすることは、外に出てしまえば多々ある。

 歩けば寄せられる、視線、視線、視線。

 走り出してしまいたい。けれど、ゆっくりと、久々の地面を確かめるように歩く。

 チャックは心優しい少年である。自分をここまで追い込んでいる女の身のために、チャックは歩いた。

 同じ時間に、毎日歩いた。


 さて、当たり前のことだけれど、子供一人いなくなったら、まがりなりにも保護者にあたる人物は気付かないわけがない。そもそも往来には人がいるものだし、この本の国にもご近所づきあいというものがある。

 子供がフラフラ歩き回っていれば、いくら昼間だろうと人は見る。話は三日で、保護者に当たる夫人に露見バレた。

 しかし夫人は、あえて『黙る』ことを選択する。

「あの子にはそれが必要なんだろう」と、見守ることを選んだ。

 もうすぐ年の瀬が迫っていて、忙しかったのもある。


 はてさて――――。

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