七章 アイツがやってくる!

アン・エイビーの『おともだち』①

「ね、お人形遊びしよっか」



 アン・エイビーはそう言って、少年の鼻先で立てた人差し指をクルクル回した。少年にとっての『年上の友達』は、時々こういう、無意味な手遊びをするのが癖だった。

 少年の大きすぎる菫色の目が、焦点が合わないほど間近のそれをじっと見る。


「あたしねぇ、訓練して、戦えるようになって、がんばって、出世して、お給料増えてェ、昔に比べりゃソコソコ成り上がったのよぉ」


「す、すごいじゃない」少年はやっと、という様に言った。


「お姉ちゃん、すごーい……」

 わざとらしく震えた声だった。


「ンンン、それがね、あんま良くないのー。あ、グチっちゃってるゥ? ごめんね、でももう少し聞いて。お姉ちゃん、ちょっと疲れてんノ。あのねあのね、いいところだって言われて来たのにさサ、アンのやりたいことは、これェっぽっちも! やらせてくんないのよ。ありえなくない?

 こういうの、エート、コヨウ契約違反って言うのよね。詐欺だわァ! なんていうか、そう……自由じゃないの。自由じゃないのよ!」

「……じゆう?」

 それは今の少年にとって、一番縁遠い言葉だった。


「そ !お金が手に入ってもサ、ぜーたくできるようになっても、あたしが欲しいのはお金じゃないの! お金じゃ満たせないモノ! 愛よ愛! 簡単なことよ? アン、安上がりだもの。あったかいごはん、あったかいベット、優しい人たち……でも、一番やりたいことは出来てない。やらせてもらえないの。不公平だわ! みんな持ってるものじゃない。そりゃあたしだって忙しいけど、そんなのサア、一分……ううん、三秒あれば十分。アンは満たせるわ。満足できる。なのにやらせてもらない。フラストレーション溜まるばっか」

「大変そうだね」

「そ! 大変なの! ねっ、ねっ、あたし今までよく我慢したと思わなぁい? 」

 アンは尖った装飾過多の爪を少年に突き付けた。


「思うって言って!」

「お、思うよ! ひぃっ! ちょっと、離れてよぅ」

「んんん? ……え、思っちゃうの? キミ、ちょっとおかしいんじゃないの」

「言えって言ったんじゃないか……」

「夢でも見たんじゃないの。あほらし。……んでね、アンも、自分がオカシイってわかってんのよ。自覚があるの! えらくない? わかってるのよ! それを理解しろとも言わないしぃ――――」

 アン・エイビーはまた、指をクルクルやりだした。しかしすぐに飽きたのか、今度は少年の鼻を押して遊びだす。


「ぶぶー」

「痛い! 爪が! 爪が刺さってるぅぅぅううう! 」

「あはっ変な顔」


 凶器ツメが少年の鼻さきの皮を、ついに突き破った。

 ぷくっと出た血の滴を見て、アンは舌を伸ばして舐めとる。少年は耳まで赤くなった。

「…かわいいかお」

 舌舐めずりしたアン・エイビーは、今度は少年に見えないように後ろ手にクルクルやりだした。


「………」

 そういえば『お人形遊び』とやらはどうなったのだろうと少年は思う。彼女がこうも回りくどいのは、実にめずらしいことだ。むしろ、こうも口上を立てるなんて、何かの前置きとしか思えない。

 いつもなら、何も言わずにやらかして驚かせてくれるのが常なのに。

 嫌な予感しかしない。


「……そうよ、そうそう! お人形だったわね!そうそう! タイクツな日常にスパイス!それでゲームを考えたのよぅ。ねぇねぇ、クエスチョン! アンが一番面白いのってなーに? 当てたらチューしたげる」

「え、えっと」

「わかんない?わかんないわよね! 普通のやつじゃあ、アン面白くないモン。これでもちゃんと考えたのよぅ? 子供の心を忘れないアンってステキ! 自画自賛しちゃう。大人の遊びしましょ、チャック」

「お、大人の遊びって……」

 少年、チャックはたじろいだ。


「スリルでショッキング! R18、発禁指定のゲームよぅ?ね、ステキ。そいえばチャックはいくつだっけ?」

「は、八さ」「あらあらあらぁ! じゃ、大人の階段登る~ってやつぅ? お友達に自慢できるよぅ? 」

 アンがチャックににじり寄る。チャックは委縮して壁際に少し身を引いた。腹の前で握りしめていた両手をアンが取り、固く閉じたこぶしの指を一本一本開いて見せた。

「い~い? ……これはお人形遊びなの。マリオネットって知ってる? 」

「ぼく、お人形遊びなんて、女の子の遊びはしたくないよ……」

「うふ。マリオネット、知ってる?」

「……知らない」

 アンがチャックの汗ばんだ手をぬぐう様に撫ぜる。「そう、知らないの。勉強不足ね」


 彼女は唐突に手を伸ばしてチャックの頭をわし掴むなり、顔を近づける。チャックの喉が、ひゅっと鳴った。


「いい?あたしの目を見るの。そらしちゃダメ。体を楽にして。マリオネットってね、糸がぶらーんとついてて、引っ張ると糸の先が動くお人形なの。面白いんだから、楽しみ?」

「――――ひ」

「楽しみ?」

「う、うん」

 首を動かせば頭がぶつかるような距離だ。

「でね、アンがそのお人形になるの。こう、キミの指を動かして……」

 アンはまた胸元で握りしめていた冷や汗だらけの手を取り、指を絡ませる。

「こうね……動かして……」

「ちょ、ちょっと離れて……」

「……ほぉら、できた」


 指が離れたので、チャックはすかさずアンから距離を取――――――ろうとした。アンの離れた指は、次の瞬間にはチャックの手首を軋むほどぎっちり掴んでいる。


「ほら、ちゃんと見て」

「な、なに? 」

 視線の先には自分の両手。指と同じだけの糸だ。息遣いにすら揺れるような、細い透明の糸だ。

「……なに、これ」

「ゲームの説明よ。よぉく聞いて。これはねぇ、糸です! 」

 そりゃ見りゃわかる。


「……これが十本、端っこはアンの体の色んなところにぐるぐる巻きにしています。アンの右と左の両手首、フトモモ、おなかと胸と、首と、残った一本は右手の小指と、左手の薬指」

 アンは彼の手首を離した。チャックは首をかしげる。

「これはねぇ、ゆっくり引くと、いっっ…ぱい伸びます。いっ、くらでも伸びます。好きなだけ伸びます。……けれど一気に引くと」

 アンは右手を視線の高さに上げ、左手で右手小指の糸を軽くたわむほど掴んだ。

 引く。


「―――――きゃぁあああぁ! 」


 悲鳴を上げた少年の目の前に小指を突きつける、凶器の様な鋭い爪はもう無い。それどころか、関節が一個しかない。目を覆おうとする彼の手はアンに掴まれ、身を寄せてきた彼女によって、よりジックリと視界に入れる羽目になった。アン・エイビーは、矢次に言葉を放つ。


「ねえ見て、ちゃんとこれを見て。わかる? わかった? ねぇ、こうなっちゃうの。こんなふうになるの」

「もうやめて!」

「やめるかよぉ! ほら、見なさい。見て、あのね、あのね」

 アンの左手は少年の目を、鼻を、口を、耳を、ふさぐことを許さない。悲鳴に重ねてアンは叫んだ。


「いーち! この糸がキミにくっつきまぁあぁあす! にーい! キミのこの糸は取れませぇぇええぇん! さーん! キミが、ちょぉぉおっとでも急に動いたら、 アンの大事なトコロが取れちゃいまぁあぁぁす! 」

「やだぁぁあ」

「洗っても取れません! はさみでも切れません! みんなには見えません! あはは、鼻水でてるぅ変な顔」

「そんなの、痛いじゃないか。死んじゃうじゃないか。面白くないよ! 」

「そうだよぅ、血が出るよぅ? とオっても痛いの」

 アンはこれ見よがしに傷口を揺らした。

 チャックは顔をそらして身をすくませる。目をつむった。嗚咽も一緒に無理矢理口を閉じた。ぼくは何も言わない。息も吸わない。鼻も利かない。何も聞こえない、ここはどこだ?自分の部屋だ、僕の家だ、いつも通りだ、これは夢だ。


 しかし、ぬるついた切っ先を頬に感じ、チャックはすぐに腰を浮かしかけた。脂汗が浮く。むき出しの傷口を押し付け、アンは笑った。


「ゆーびきーりげんまーんウソついたぁ~ら針千本のぉぉおおますぅ……ホラ、ナイショの約束よ?」

 そして冷たく言い放つ。


「動くな」

「ひっ……」

「動くとアンが、死んじゃうよう……? 」

「ヴヴヴ…………」

 チャックがテコでも瞼を閉じるつもりなのを見届けると、アンはまたチャックの顔についた血を舌で舐めとり、体を起こした。

「あした、キミがあたしを殺さなかったら、また来るね」

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