価値

(「落ち着きなさい。動揺は目的の敵よ」)

 記憶の中のエリカが言う。

(「すべて巻き戻っても、わたしはわたし。あなたを信頼するわ」)




(「ニルくん。忘れないでください。あなたの経験したことは、あなたの記憶の中にしかない」)

 記憶の中のビス・ケイリスクが言う。

(「誰よりも早く『思い出す』あなたには、その記憶だけが武器になります。アン・エイビー事件は、間違いなく山場のひとつです。『前』と同じ行動を取れば生き残れることは証明されている。けっして無理はせず、あなた自身とエリカさんを守ることを優先してください」)



(「我々にとって、記憶は最も大切な財産になりうる」)



 目の前に白い封筒がある。

 厚みがあり、中身は透けて見えない。

『前』には無かった要素。これがお助けアイテムになるかどうかは、ニルの行動にかかっていた。

 宛名は『シオン』。エリカの実父にして、管理局が捕捉しながらも行方が知れない異世界人だ。

 彼について管理局が把握しているのは、その痕跡だけ。そんな『痕跡』のひとつが娘のエリカであり、妻であるエリカの母だった。

『東シオン』は、ときに戦争に参加したり、ときに現地人に混ざって日雇いでアパート生活をしていたり、ときに傭兵として商家の護衛に身をやつしていたり……そうして生活をしながら、異世界間をさまよっている。

 そんな父親のおかげで、娘のエリカは局内で微妙な立場に置かれ、三カ月後の『アン・エイビー事件』においてはさらにそれが加速することになった。


 『東シオン』は、三カ月後の大晦日に起こる『アン・エイビー事件』において、実行犯の容疑者として名前が挙がることになるからだ。

 

 東シオンの容姿は、管理局に把握されているため、知っている局員は多い。

 大晦日、多くの局員が東シオンらしき男を、この『本の国』で目撃するのだ。


(今回、僕は前との違いイレギュラーをたくさん作ってしまった)


 その最たるイレギュラーが、ケイリスク夫婦と接触したことと、その日、ケイリスク家に滞在してしまったことである。

 事態はすでに、見えないところで大きく変わってしまっているかもしれない。


 なら、この手紙はシオンに渡そう。ニルはそう考えた。

 ダイモン・ケイリスクは、ビスと同じく預言能力者である。サイコメトラーでもあり、こちらの状況も把握して打った手が、この手紙なのだ。

 この手紙を渡すことは、ダイモンを信頼することに他ならない。


(……不思議な人たちだったな)


 三カ月後、ダイモン・ケイリスクとロキ・ケイリスクは命を落とす。

 ダイモンは郊外で裂傷による出血多量。

 ロキ・ケイリスクは、自宅を爆破しての、自殺だったとされる。


(「ニルくん、命の価値は、あなたに近いものほど高く見積もってください。いちばん大切にするべきは、あなた自身の命です。ときに非情になったとしても、残酷な選択をしたとしても、の中のあなたの価値は、けっして揺るがないのですから」)


「……ごめんなさい隊長。僕は、あなたのご両親を助けません」


 その日がやってくる。





 ●





 微睡みから覚める瞬間は、雨が降り出す時に似ている。


 小さな雫が肌で弾け、やがて土砂降りの『情報』という数多の雫が体に降り注ぎ、覚醒へと押し上げる。

 鼻が、耳が、温度が、肌触りが。

 最後に記憶が、どろりとした赤黒い混沌と無音の中から、彼を引き揚げる。

 土砂降りの『情報』に、痛む頭をこらえながら、ビスはようやく目を開けて、覚醒した自己と、自己が捉える『感覚じょうほう』を取捨選択していく。


 色、輪郭、光の反射、質感……。けっして構成する物質の配列や種類、付着した細菌の数、止まった蠅の羽ばたき一つ一つを、視認する必要はない。


 両眼を覆う包帯には、みっしりと呪術めいた刺繍が施されている。厚い布を透かし、閉じている瞼を透かし、ビスの視界は、常人よりはるかに広く、深海のように深かった。

 それをゆっくりとほどき、ビスは常夜灯で薄青く照らされた室内を、おそるおそる見渡してみる。

 

 ビス・ケイリスクは起き抜けの青い左目と、眩しげに細められた右の金色の目を庇うように、瞼の上から擦りながら立ち上がった。。


 情報で加圧される世界は、ビス・ケイリスクという幼い脳には、あまりに重くのしかかる。

 物心ついたときから無菌室に隔離されて育った彼の日々は、すべて訓練に費やされた。

 両親との面会は、医師と患者としてなら週に三度。両親と子としてなら、月に一度だ。


 ベッドから起き上がったビスは、黙って寝巻を着替え、身支度を整えた。

 子供用に調整された机に置かれたパネルに、起き抜けの体調を記入していく。手首に巻かれたリストバンドで、バイタルチェックが自動でされるため、正直に。


『封印帯を取り外して気分の調子はどうですか? 』

「問題ありません。視界明瞭。頭痛なし」

『一時間後、同じ質問をします』

「はい」


 パネルの向こうにいる母に向かってそう打ち込むと、ビスは少し考えて、一言付け足した。

「今日家に帰るのが楽しみです」



 まだ何も知らない子供は口元を緩ませる。

 その日は、彼が5年ぶりに帰宅する日だった。

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