第16話「暗転」

 シルヴィアが校門でマリウスを捕まえた時、彼は相変わらずマニーと談笑していて、それをがっちりと側近たちが固めていた。

 一見すると、婚約者は彼女の方で、側近たちに祝福されながら逢瀬を楽しんでいるようだった。


 いつもならいたたまれなくなってその場を去るだろう。

 だが、今日は引く訳にはいかない。

 次はいつマリウスとふたりになれるか分からない。その前に摂政閣下が大鉈を振るったら、それはマリウスにとって大きな傷になる。


「殿下!」


 強張った声で王子に話しかけると、彼は笑顔で出向かえ、そしてすぐに怪訝そうな表情を浮かべた。


「どうしたんだいシルヴィア? どこか調子でも……」

「どうか、お時間を頂けませんか? ふたりで話したい事があるのです」


 マリウスの瞳にわずかな驚きの色が宿る。

 彼女がこの手の願いを口にする事はめったにない。

 しかし、何事かと尋ねる前に、ヤコブが口をはさんだ。


「残念ですがシルヴィア嬢、これから殿下は貧民街で炊き出しの視察ですので」


 挑発するような小馬鹿にするような、粘着質な声のように感じられた。


「私は殿下にお願いしている。例え側近であっても、ここで割り込むのは僭越だろう?」


 ヤコブを睨みつけて牽制すると、マリウスに向き直って「どうか!」と頭を下げた。


「あの、殿下。ここはシルヴィア様の話を聞いて差し上げては……」


 怯えるようにヤコブの後ろに立ち尽くしたマニーが、水を向ける。

 彼女が味方をしてくれるのは意外だったが、思案するマリウスを煽り立てたのは、またもやヤコブだった。


「なんとお優しい! 流石は善政で名の知れたセルヴィオ男爵家のご令嬢! シルヴィア嬢の我儘・・を広い心でお認めになるとは!」


 ここに来て、シルヴィアは自分の甘さを痛感した。

 ヤコブは強い意志を持って自分とマリウスを引き裂く気だ。

 そして、王子はそれに気づいていない。


「やめないかヤコブ! シルヴィアの言う通り僭越だぞ!」


 流石のマリウスも、この対応には声を荒げた。

 ヤコブはそれに不満げな顔をするどころか、喜色すら浮かべて「はっ! 申し訳ありません!」と謝罪する。

 だがそれは、僭越さへの謝罪であって、シルヴィアに対する侮辱は含まれていないようだが。


「シルヴィア、君との時間は必ずとる。今は公務があるから……」


 公務と言っても、炊き出しにずっと張り付いている必要などない。要は貧民たちの生の声を聞ければいいのだから、終了後に予定をずらしても構わないのだ。

 そもそも、炊き出しこそこれでもう行われないと言うわけではない。

 保安上の理由で、視察が発表されている訳でもないから、彼らの期待を裏切る心配もない。そこまでして優先する仕事では無い筈だ。

 だがマリウスは言葉を濁す。いつものシルヴィアなら引き下がっただろう。

 衆人環視の中で口論するのは、彼女に不利すぎる。

 だが、シルヴィアはもう止まれなかった。


「その時間とはいつなのですか?」


 マリウスが言葉に詰まる。

 彼も今の状況に違和感は感じているのだろう。

 だが、人の良い彼はその正体に気付かない。

 ふと、ハルとエマの顔が浮かんだ。

 ふたりが背中を押してくれたのだ。人前だろうと構わない。自分の気持ちをを伝えなければ……。


「殿下、私は今まで……」


 だが、ヤコブはそれを遮ってマリウスにとっての「呪いの言葉」を吐き出した。


「殿下、貧しい人々が救いを求めています・・・・・・・・・・・・・・・


 マリウスは目を見開き、眉間にしわを寄せると、「分かった。すぐ行こう」と応じた。


「殿下! どうか! どうか今だけは私の話を!」


 彼が弱者を犠牲にすることを良しとしないのは分かっていた。

 それでも、今は、今だけは、自分の言葉を聞いて欲しかった。


 だが、追い打ちは非常な言葉だった。


「シルヴィア。すまないが、君の勝手・・・・のために公務を蔑ろにするわけにはいかない」


 シルヴィアは、今までの8年間が音を立てて崩れてゆくような錯覚に囚われた。

 自分の懇願より急ぎでもない仕事を優先されたことは確かに悲しい。だが、それ以上に、自分の辛い気持ちを、助けを求める声を、「君の勝手」と断じられたことが何よりもショックだった。

 マリウスが向けてくれた笑顔は、皆に向けられたもので、自分にだけ向けてくれたのではなかったのか。

 彼は、自分の涙をすくう事すらしてくれないのか。


「あんまりです! あんまりです殿下!」


 気が付いたら叫んでいた。

 もう自分を制御できない。ただ今まで溜めに溜めた感情を吐き出すだけだった。


 ヤコブがほくそ笑むのが王子の肩越しに見えた。

 きっと、自分は全てを失うのだな。

 激情の中の冷静さが、そんな感想を漏らした。


「畏れながら申し上げます!」


 シルヴィアの理性を引き戻したのは、聞きなれた弟分の声だった。


「ハ……ル?」


 しびりだした名前に、ハル・クオンは頷いてくれたような気がした。


「いいえ、確かに3つ、付いております。主君の名前と権力を使い、他者を虐げる『君側の奸』と言う毛埃が」


 驚きのあまり、思考が停止する。

 ハルは、王太子の側近に、はっきりと喧嘩を売ったのだ。


 私のために?


 いくらクリエンテスでも、無謀が過ぎる!

 このままでは、ハルが縊り殺されてしまう!


 だが、少年の瞳は、自信と覇気に溢れたものだった。

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