終節 -黙示録の胎動-

 西暦2037年1月。スイス連邦ジュネーヴ州ジュネーヴ。

 白い吐息が見える欧州の冬。最高気温が10度にも満たないという、ミクロネシア連邦では決して経験することが無かった環境の中にアヤメの姿はある。

 寒気が上空を覆い、太陽の光ですらこの空気は僅かにしか暖められない。


 午前7時。暖かな太陽の光も昇らない薄暗い朝にアヤメは学校へ向かうために両手を温めるように握りながら道を歩んでいく。

 現在、アヤメはジュネーヴの大学に飛び級留学生として通う身となっていた。

 昨年の11月。唐突にポーンペイ島を訪れたマリアによって留学の話が持ち掛けられ、特に深く考えることも無く同意したことが始まりだ。

 両親に相談するでもなくその場で即決したあまりの決断の早さに、留学の話を持ち掛けた張本人であるマリアですら驚きの表情を見せたほど何も考えずに同意したのだった。


 それは全て愛するお姉様と共にいられるという一点の為だけに。


 マリアがあの日アヤメに持ちかけた話は簡単に言うとこうだった。

 一つ目はスイスのジュネーヴにある大学へ飛び級で留学してみないかという誘い。

 二つ目は生活する拠点として自分の家を提供するということ。

 そして最後の三つ目に関してが一番肝心な内容であり、決して他言することの出来ない内容だが…


 それを含めてアヤメとアイリスは一切の迷いなくマリアの誘いを受けることにした。


 留学の話が外部から持ち掛けられたことに関してはアヤメを指導していた学校の教員や両親も特に驚くことでは無かったらしい。

 元々アヤメの学校での成績は全世代の中でもトップクラスに良かったし、将来は世界中の多くの人々の役に立つ仕事がしたいと常々公言しており、海外の学校とのやり取りもしていたからだ。

 彼女の噂を聞きつけた誰かがそういった話を持ち掛けてくるのではないかという予想は誰の頭にもあった。

 ただ、マリアという人物がどういった接点によって話を持ち掛けてきたのかについて知るのはアヤメとアイリス本人のみである。

 本人の強い希望によってとんとん拍子に話は進み、翌月の12月にはアヤメはマリアと共にスイスへと渡った。

 留学によって親元を離れることに関して両親は一切反対しなかった。むしろこういった日が訪れることをもっと以前から予期していた節すらある。

 送り出されるときに掛けられた言葉はいつもと同じ「いってらっしゃい。」であった。


 スイスに渡って初めの日。

 アヤメはマリアの住む巨大な屋敷や多くの使用人を抱える生活を目の当たりにして度肝を抜かれることになる。

 学校に匹敵するほどの大きな屋敷。整備された美しい庭園。近付くだけで鼓動が早まるような高級車が敷地内にはあり、物腰穏やかな各々の仕事を黙々とこなす使用人たちがいる。そういった全てがアヤメを心底驚かせた。

 使用人とは言うが、マリア本人は彼ら彼女らのことを決してそういう風には思っていないだろう。マリアは彼らを純粋に共に暮らす家族だと思っているに違いない。

 それは彼らがマリアに向ける憧憬や尊敬の念、自身と同じような心酔の念を送っている様子から容易に汲み取ることが出来る。

 彼らは自主的にマリアにその身を捧げて仕えると決め、自らの意思で彼女に付き従うと心に誓った者達なのだ。

 貴族出身であることを差し引いても、元々高いカリスマ性を持つ人物だと思っていたが、自身が想像していたよりも遥かに凄まじい素質を持っていたらしい。

 資産をたくさん持つ富裕層が大金をはたいて手に入れるそれらとは違い、彼女の場合はそれらが “自分から” 近付いてくるような…そのようなカリスマ性を持っている。

 スペインの哲学者であるオルテガによれば《貴族》とは莫大な資産を持つ富裕層などを指すのではなく、自らと異なる価値観の相手に対しても対話による共存を示そうとする大らかさと忍耐強さを持つものだという。

 だとすれば、リナリア公国においてマリアは真の貴族の1人ではあるが、哲学的概念からみても正当な《貴族》であると言えるのではないだろうかとアヤメは思った。

 彼女に多くの人々が自らの意思で仕えようと決心するのも納得である。

 そして、 “決して誰にも口外してはならない” といって話された彼女の “立場” というものを考えれば尚のこと当然だと思うようになった。

 そもそもその件についてはアンジェリカから得たメモリーカードの情報で事前に知っていたことでもある。

 奇跡の少女と呼ばれた自分がなぜ彼女の目に留まったのか。そしてなぜ自分の元に呼び寄せようと思ったのかなどもその話の内容に凝縮されている。

 マリアがアイリスの存在を認識するに至った最初のきっかけこそ、あのいけ好かない修道女の声掛けであったようだが、そんなことはもはやどうでも良かった。

 次に会った時に棒読みで感謝を伝えるくらいの礼を示せば十分過ぎるだろう。


 身に染みるような寒気が満ちる街中をアヤメは足早に歩いて行く。

 学校の通学には送り迎えを付けると何度もマリアから提案されているが迷惑をかけたくない一心で断り続けている。

 しかし、この経験したことのない寒さの中を歩く日々を繰り返すうちにそろそろ考えを改めた方が良いのではないかと最近は思っているところだ。

 何となくではあるが、そのうち考えを改めるであろう未来をマリア本人には見透かされている雰囲気もある。

 送迎の話を持ち掛けられる度に彼女の表情が妙ににやにやとしているからだ。まるで “いつ寒さに降参するか” を楽しんでいるような雰囲気すらある。

 南国育ちのアヤメの体にはこの寒さが厳しいということも最愛のお姉様には全てお見通しらしい。

 学校での学籍登録はもちろんアヤメ・テンドウの名前で行っているが、意識を普段表出させているのはアイリスのままである。しかし、ポーンペイ島で生活していた最後の1年とは違って好きな時に好きなように互いが意識を入れ替えるような形で過ごしている。

 これは学校にいる間に限らず、日常生活でも同様だ。

 そのような複雑なことをしているのだが、なぜかマリアには今どちらが意識を表出させているのか見通せるらしく名前を間違えられたことは一度もない。

 アヤメが表出している時はアヤメと呼ぶし、アイリスが表出している時はきちんとアイリスと呼んでいる。

 佇まいや優雅さ、気配りや優しさなど、そんな細かい部分においても完璧さを発揮するマリアに対しては今やアヤメですらも心酔してしまっている。


 アイリスにとって、空白の期間があったにせよ千年もの間望み続けた夢のような時間が流れている。

 アイリスもアヤメもこの時間が永遠に続けば良いと願っているが、それが叶わないということも理解している。理解した上で彼女と共にこの地に来た。


 そう遠くない未来。この世界を揺るがすような出来事が訪れる。

 自分が祖国で起こした奇跡とはまるで規模の違う出来事。世界というものの在り方を根底から覆してしまうような事象。


 刻印を持つ者には安寧を。

 刻印を持たざる者には混沌を。


 “七人の御使い” が世界を滅亡へと導く神の怒りの七つの鉢を傾ける日が訪れる。

 

 その中心に彼女はいる。

 子羊の妻なる花嫁。メギドの丘。

 終わらない連鎖の断絶と事象の再構築。

 変わらない世界の再定義。


 人為的なハルマゲドンがもたらす未来の行く末をお姉様と共に見据えること。それが今の自分の目的であり、その世界実現の為にお姉様は自分の力が必要だと言った。

 言葉で寄り添ってくれたイベリスの想いにはまたしても逆らってしまうことになるだろう。彼女がどう思うかは分からないが、いずれ再び敵対する間柄として出会うことになるのかもしれない。

 しかし、元より自分にとっての願いは “お姉様と共に在ること” ただそれだけだ。今では自分だけではなくアヤメも含めてその願いを共有している。

 アイリスはふと空を見上げ、親愛なる人を想い心に誓う。

 今度こそ、 “最期まで” 彼女の傍にいると。


-了-(【眠りの妃 -嘆きの大地賛歌-】 へ続く)

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アイリスプロセス -虹の彼方に- リマリア @limaria_novel

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