第49節 -少女の望みが叶う時-

 11月1日、土曜日の朝。

 コロニア市内にあるミクロネシア連邦警察署より遠く離れた拘置所に向けて1台の護送車が移動を開始していた。

 護送対象は薬物密売組織マルティムのトップであったアルフレッドとベルンハルトだ。

 2人は今後行われる裁判によって量刑が定められ法の裁きが下されることになる。


 小さな鋼鉄の監獄である護送車の後部でアルフレッドとベルンハルトは余裕の表情を浮かべながら静かに座り込んでいた。

 運転席や助手席とは完全に隔離された密室空間だ。

「裁判。法の裁き、ねぇ?」ベルンハルトが言う。

 2人が余裕の表情を浮かべているのには理由がある。その理由の最たるものとしては “殺される可能性がなくなった” からであった。

 ミクロネシア連邦には死刑制度が存在しない。第六の奇跡が終わりを告げた今、警察の厳重な監視を受けて生活をすることになる自分達は文字通り “死ぬまで生かされる” ことになるのだ。

「薬物をばらまいて、地下であれだけの殺人までやらかした大罪人の罰が自由はく奪のみとはな。自由を失う代わりに死ぬまで悠々自適に養ってもらえるたぁどういう冗談だ?安全が保障された場所で生きるために必要なものは適切に与えられる。人でなしの悪魔みたいな人間に対しても人権ってやつが保障されていて、それを守らなけりゃ生かさなかった奴が罰を受ける。変な話だぜ、まったく。自力で生きることに疲れた連中が罪人になりたがる心理ってのも頷ける話だ。」

 アルフレッドは何を答えるわけでもなくベルンハルトの話を聞き流す。

「俺達を生かすために使われるのはこの国の国民が汗水垂らして収めた税金ときたもんだ。あのガキの奇跡で俺達を殺したいと願った連中が大勢いたのはそれが理由か?なぁ、ボスはどう思う?」

「ちぃっと静かにしてな。あんまり騒いでると “本物の悪魔” が出るぞ。」饒舌に語る大男に対し声を押し殺しながらアルフレッドは返事をする。

「ボスまで冗談を言うようになったのか?」

 はしゃぐように笑いながらベルンハルトは言ったが、その笑いも長くは続くことは無かった。


「あら?誰が本物の悪魔ですって?こーんなに可愛い美少女を目の前にして失礼しちゃうわね。そういう物言いは~、めっ!なんだよ?」

 甘ったるい声で挑発的に言う少女の姿を目の前にしたベルンハルトは目を見開いたまま硬直している。

「でもでもー、私がここにいるってことに気付いていたアルフレッドは褒めてあげようかな?褒めてつかわす!日本のドラマでそんなこと言ってたー☆ジャパニーズ殿様ー!きゃははははは!!」

 愛くるしい仕草、表情、声色、容姿。目の前の少女を人々が形容するならそういった類の言葉が並ぶだろう。

 しかし2人は知っている。この女は真正の悪魔だ。デーモン、サタン…長い歴史において聖典に書き記されたそれらの存在と比肩するのではないかと思ってしまう程にその言葉がしっくりくる。


 いつから?一体いつからこの場所にいた?

 ベルンハルトは言葉にならない戦慄を覚えた。

「あ、いつからここにいたのか?って顔してるー!まっぬけー!私は “どこにでもいるし、どこにもいない”。あぁこれ人が神様や超常の存在を指していう言葉なんだって。つまり神出鬼没。貴方達の常識の及ばない遠い遠い遥か先にある概念。そう、神様はいつでも人の心の内に宿っているのだよ、君たち♪」

 何を言っているのか意味が分からない。しかしそんなのはいつものことだ。

 今、目の前にこの女が現れたということが意味する答えはただ一つ。

「でもそんなことどうでもいいじゃない?ねぇ、クマさん?悪いことをしたら罰を受けるっていうのは人の世の真理、だよねぇ?」

 挑発的に短いスカートをひらひらと揺らしながらベルンハルトに少女は近付く。

 そしてわざとスカートの中が見えるか見えないかという際どい姿勢でしゃがみ込んでベルンハルトの顔を覗き込むようにして蠱惑的に囁く。

「私はね、まだ全然物足りないの。火照った体の疼きがおさまらないの。私はね、私の情欲を掻き立てた責任を貴方達に取ってもらうためにここに来たんだよ?」

 そのか細い指先でベルンハルトの膝から大腿部をなぞって言う。そしてその指先をベルンハルトの胸部に当てながら少女は耳元で囁いた。

「ねぇ?貴方の大切なものを、私に ちょ・う・だ・い♡」

 その言葉に完全に青ざめたベルンハルトは呼吸が出来ずにひゅっという情けない悲鳴にも似た音を漏らした。


 少女が言葉を言い終えた直後だった。

 ベルンハルトの頭があった部分から真っ赤な液体が噴出し、重量のある塊が車内に転がる。

 “頭が無くなった” 胴体の首元から心臓の鼓動に合わせて一定のリズムで赤い液体がぴゅるぴゅるととめどなく溢れ出る。

「あぁ♡ やっぱり綺麗ね。ようやくヤラせてくれた…私はこの瞬間の為にずぅっと我慢してたんだから。最大のときめきを感受するには最大の情動を。それは高鳴る心があってこそ楽しめる至福のひととき。ねぇ、貴方もそう思わない?アルフレッド?」


 最初からこうなることを予見していたアルフレッドは視線を一切動かすことなく、冷淡に車内の床を見やりながら横にいる女が2か月前に言った言葉を思い出していた。


『貴方のような大きな男の人が真っ赤な血を吹き出しながら崩れ落ちる瞬間って凄く綺麗だろうなって私思うの!いつかヤラせてくれない?』


 ビッチめ。

 この女はあの時既に心の中で決めていたに違いない。ここに至るまでの筋書きというものを。

 奇跡によって自分達が殺されるか、自らの手で殺すかの二択に一つ。

 最初から最後まで自分達を生かしておくという考えなど無かったのだ。

 運転席の看守がこの事態に気付かないということは何か仕込んでいるのだろうか。

 いや、気付かないわけがない。少しの物音でも覗き窓からすぐに監視をしてくるような奴らだ。しかし、どういうわけかこれだけ騒いでいるにも関わらず、看守は車を停める気配も動く気配も見せない。それともこの状況は目の前の女の特別な力というやつなのだろうか。

「答えを聞かせてちょうだい?今、私は最高に昂っているの。」

 目の前の少女が言う。顔は笑っているがもはや目は笑っていない。光なき紫色の美しい瞳は狂気に落ちた冷酷な悪魔そのものを連想させる。

「 “最初から” ここにいたな?警察が俺達をこの護送車に誘導する前からずっと。」

 こういう状況で相手の質問にすぐ答えるのはナンセンスだ。少しでも命を長らえさせたいなら話の腰を折らない程度に話題をそらしてしまう方が良い。

「あら、焦らすのね。もしかして女の扱いが上手いのかしら?お楽しみ前の会話も悪くない…良いわ、教えてあげちゃう。貴方の言う通り、私は最初からこの場所にいた。とても現実的な手段を使って、ね?」

「現実的な手段、か。どんな手品を使ったんだ?」アルフレッドは会話の引き延ばしを図る。

「手品、そう手品みたいなものかしら。だいたい5年くらい前、ハンガリーとセルビアの国境辺りで起きた難民襲撃事件って知ってる?」

「あぁ。その手の事件は昔からよく見てたぜ?国際連盟が結論の出ない無駄話に興じようとしている間に起きた事件だろ?」

「もう、そういう言い方は、めっ。あんな会議でもそれなりの役割は果たしたんだから。それより、その時の事件に使われた “擬装” と呼ばれているものがあるんだよねー。それを身に纏い、スイッチ一つで人間の視界からもドローンや監視カメラの視界からも、赤外線探査からも完璧に姿を隠匿できる最新技術。世界各国の軍隊さんが喉から手が出るほど欲しがるような夢のアイテム。私は “それ” を使ったのよ。」

「つまり、姫さんが着ている服そのものが擬装とやらの役割を果たしていると。そういうことなんだな。」

「ぴんぽーん♪賢い人は好きよ。私はこれを使って最初からこの場所で貴方達を “待っていた” の。」

「そうかい?なら楽しみはゆっくりと味わうべきだな。そこの先に果てた男とは違って俺は優しく扱ってくれるんだろう?」

 車内の床に転がるベルンハルトの頭と視線を合わせながらアルフレッドは言う。

「そうね。特別にそうしてあげようかしら。」

 ゆらゆらと揺れながらゆっくりと少女はアルフレッドに近付く。可愛らしい顔を近付けて、指でアルフレッドの身体をじっくりとなぞりながら呼吸を乱した甘い声で囁く。

「まず何をしよっか…?何をしてほしい?」

 少女の瞳は変わることの無い狂気を浮かべたままだ。

 時間稼ぎにはなるだろうが根本的に自分が死ぬという運命までは変えることは出来ない。そう悟ったアルフレッドはある思いつきを試してみることにした。

 後ろに回して手錠で拘束された手に “とあるもの” を彼女に見えないように構えて言う。

「俺は強欲な男だからな。俺は自分の思うような快楽ってやつが得られないと満足できない質なんだ。それは肉体的なことだけじゃねぇ。精神的な部分も当然含まれる。お前さんと同様にな。だから、俺からの “贈り物” をまずは受け取ってくれ。」

 アルフレッドはそう言うと少女の腹部に膝蹴りを見舞う。そして、少女が後ろに吹っ飛び倒れ込んだところに背中から飛び込み、手に持つあるものを彼女の体に突き刺した。

 直後、彼女は激しい悲鳴を上げ始める。


「あぁ…あぁぁあぁぁぁあぁ♡ 痛い、痛い、痛い…痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃ!!体中がしbこほぁ…」


 車内の床で体をよじらせ、のたうち回りながら少女は叫ぶ。

 快楽に溺れて絶頂を繰り返すように何度もえびぞりになりながら激しくばたついている。

「そいつは俺からの返礼だ。元々はお前さんからもらった代物だがな。きちんと返しておくぜ?」

 アルフレッドが彼女の腹部に突き刺したのは特殊な形状の注射器だった。その中に入っていたのは違法薬物。

 第五の奇跡で全て焼失したと考えられていたこの地球上でもっとも数の少ない新型ドラッグ【グレイ】だ。

 通常で使用する量の5倍の量ともなれば “まともな人間であれば” 苦しむ間もなく死に至るはずなのだが、それを体内に注入された彼女は痛みを感じる様子を見せながらも恍惚の表情を浮かべている。

「とぉっても痛くて痛くて…耐えられないほど痛くて…痛くされるのって、気持ち良いわ♡」


 どこまでも狂ってやがる。

 彼女からすぐに離れたアルフレッドは背筋にぞくぞくとした悪寒を感じつつ車内の壁際まで下がり、ゴミをみるような視線を送った。

 まともな会話で自身が生き残る道はない。であれば殺される前に殺す。それしか手段はないと悟り、思い付きで隠し持っていたグレイの全てを打ち込んでみたがどうにも思ったような効果までは発揮していないらしい。

 少女は体をくねらせて甘ったるい喘ぎ声を漏らしながら未だに床をのたうち回っている。

 こうなったら最後の止めは自らの手で下すしかないようだ。

 注射器で完全に視界を封じてから首を絞めるのが早いだろうか。後ろ手に手錠を掛けられた状態の自分に出来る最善はその程度しかない。

 そう考えたアルフレッドが注射器を手に握ったまま再び立ち上がろうとしたその瞬間だった。


 目に見える景色が突然ぐるりと回転して激しく床に頭をぶつける。それから視界は床から室内を見上げるような状態になった。

 何をされた?俺は倒れたのか?いや、違う…

 アルフレッドが視線を壁際に向けると、そこには首のない自分の体が情けなくがくがくと震えたまま立ち尽くしており、一定のリズムを刻みながら首元から血を噴き出している。

 全てを悟ったアルフレッドは既に動かなくなりつつある頬の筋肉を歪ませて笑った。


 すまねぇな、ベルンハルト。一矢報いるのがせいぜいだったぜ。最初から定められた運命ってやつにはどうあっても抗えないように出来ていたらしい。


 それがアルフレッドが最後に思考した考えだった。

 やがて立ち尽くしていたアルフレッドの身体も床へと崩れ落ちた。



 護送車の監獄には床に這いつくばったままのアンジェリカだけが激しく息を切らしながら不気味な笑みを浮かべて恍惚に浸っていた。

 伏せていた体を仰向けにすると、何度も絶頂を迎えて満足したとでも言うようにとろんとした目を天井へと向けた。


 油断した。動きを封じられた獲物を前にして警戒をする必要性が生じるなど考えてもいなかった。

 先読みの目を使うことも無く、ただただこれから訪れる最高の快楽の瞬間を楽しむことだけを考えていた罰が自分に返ってきたのだと思った。

 そして、悔しいことにあの浜辺で総大司教様が言ったことはどうやら間違っていなかったらしい。


 他人に苦しみを課し、苦痛に顔を歪める様を高みから見下すのが楽しかった。それだけが自分の楽しみだと思っていた。生きる意味、生きている実感、生きている証だと。

 しかし、他人から苦しみを課せられ、痛みを与えられ続けるというのも存外に悪くはなかった。その程度が激しければ激しいほど、生と死の狭間を彷徨うくらい苦しい方が《気持ち良い》と感じた。生きているという実感が得られた。

「ふひ、ふひひひひひひ…あはははははは…!さいっこうね!あぁ…♡ あぁ…気持ち良かった…♡」アンジェリカは狂ったような目をして笑い声を上げる。

「アルフレッド…私をこんなにも気持ち良くして楽しませてくれた貴方の名前は、私が忘れるまで忘れないでいてあげるわ。」


 ひとしきり笑った後、アンジェリカは振り子のように揺れる瞳を見開き、不気味な笑顔を湛えたままゆっくりと立ち上がる。

 床にぶちまけられたベルンハルトとアルフレッドの血を全身に浴びた少女の衣服と体からは大量の血が滴り落ちている。

 グレイの影響だろうか。目の前の景色は灰色と色彩が入り乱れたように映り、うまく視界の焦点を合わせられないでいるがそのうち元に戻るだろう。

 元より、自分にその手の薬物など最終的には大した影響すら残らない。

 先程も注入された瞬間からしばらくの間は全身の神経や筋肉が破壊されていく痛みを存分に味わったが、効果が切れればこの通り。

 後遺症のひとつも残ることなく元に戻る。


 アンジェリカはゆっくりとアルフレッドとベルンハルトの遺体に近付いて言った。

「私は法の王。私が絶対の法。この国の法律が貴方達を裁けないとしても、私は私の意思で貴方達を裁くことが出来る。 “私の御心のままに” ね☆」

 笑いながらそう言い残したアンジェリカは霧散する煙のように紫色の光の粒子を散らしながらその場から消え去った。


 それと同時に、運転席と助手席にいたニタニタ顔をした骨のように細身の看守の姿も同様に煙が霧散するように消失していく。

 道路の只中でやがて動きを止めた車内に残されたのは、マルティムの2人の変わり果てた姿だけであった。


                 * * *


 11月も中旬を過ぎた頃、アヤメは両親から言われてある場所を1人で訪れていた。

 警察から要請されていた外出禁止も解除され、自由に外を出歩けるようになってからおよそ2週間。

 そう長くはない期間の外出自粛生活であったが、やはり外に出ると開放的な気分になって心地よい。それは2週間が経過した今でも同様だ。

 アヤメが訪ねたのはコロニア市内のメインストリート沿いにある何の変哲もない観光ホテルの一室だった。

 この辺りでは比較的高級な部類に入るホテルの一室、そこで自分に会いたいと名乗り出た人物が待っているという。

 話の内容としては単純で、海外留学の勧めというものらしい。両親に学校の先生を通じて話が舞い込み、今日の面談に至っている。

 自分に会いたがっている人物の名前までは両親も教えてもらえなかったらしく、どんな人物が部屋で待っているのかは分からないが学校の先生の興奮具合から察するになかなか凄い経歴の人物なのではないかと言っていた。

 今日このホテルを訪ねるにあたって途中までは学校の先生が同伴していたが、その人物はホテルのロビー以降は自分1人で部屋まで来るように求めたらしく、今は目的の部屋に向かってエレベーターから部屋へと至る通路を歩いている最中だ。

 学校などの多くの人が集まる場所を避け、その上1人で来いなどと言う怪しい人物の待つ部屋に行くことに抵抗が無かったわけではない。

 しかし、信頼できる人々からの話であったことや過信しているわけではないがいざとなれば自分だけでも災難をどうにか出来るだろうことを考えて話を受けた。


 目的の部屋に辿り着いたアヤメは部屋から嫌な気配を感じないか確認する。

 しかし特にそういった気配はなく、むしろとても安心を覚えるといった不思議な感覚を得た。

 温かく、優しい不思議な感覚。それはまるで両親にも似た…

 アヤメは特に危険が無いことを確認すると部屋のドアをノックして声を掛ける。

「本日お会いするお話を頂きましたアヤメ・テンドウと申します。」するとすぐに扉が開き、中から1人の女性が顔を覗かせた。

 覗かせたとはいっても顔は黒いベールで覆われており、その表情を読み取ることはほとんどできない。口元の様子から微笑んでいるのがようやく確認出来る程度だ。

 ゴシック風の黒のドレスとロングスカートを纏った背の高い女性は穏やかな声で挨拶をした。

「お待ちしておりました、アヤメ様。中へどうぞ。貴女と直接話をしたいという人が待っています。」

 とても優しい声。そして優雅な物腰と気品あふれる佇まい。アヤメは目の前の女性の美しさに目を丸くしていたが、すぐに意識を切り替えて部屋の中へと足を踏み入れた。


 とても広い客間を一歩一歩ゆっくりと歩き、扉をくぐった先にその人物は座っていた。

 窓から差し込む柔らかな太陽の光の中、テーブルで優雅に紅茶を楽しむ1人の少女。

 緩やかなウェーブのかかった金色のミディアムヘアに宝石のように輝かしい赤い瞳。まるで精巧に作られた人形のように均整の取れた容姿は非の打ちどころがない美しさだ。

 上品な黒のゴシックドレスを纏う少女は穏やかな表情を湛えて椅子に腰掛けている。

「お連れしましたよ。」

「あぁ、すまないね。ありがとう。」長身の女性の呼び掛けに返事をした少女は手に持っていたカップをゆっくりと机に置くとアヤメの方へ視線を向ける。


 その姿を見たアヤメは心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けて固まった。

 厳密にはアヤメではなく、張り裂けそうな程の感動に打ち震えながら立ち尽くす以外のことが出来なくなったのはアイリスだ。


 見間違えるはずがない。

 その姿、その瞳、その声、そしてその魂の輝きの色。

 貴女は…


 ゴシックドレスを纏う少女はゆっくりと椅子から立ち上がるとアヤメの方に向かって歩み寄りながら言う。

「こんにちは。奇跡の少女、アヤメ・テンドウさん。」

 そして一歩一歩アヤメに近付き、ついにその目の前に立った少女は言った。

「いや、 “君” には “久しぶりだ” というべきかな。アイリス。アイリス・デ・ロス・アンヘルス・シエロ。私の名前は言わなくても分かるね?」

 アヤメはその瞳から大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら頷き、微かな声で言うのがやっとだった。

「マリア…お姉様。」

 歓喜に打ち震える様子でそう言った彼女に満面の笑みを浮かべた少女はアヤメを力いっぱい抱き締めた。

「あぁ、覚えていてくれて嬉しいよ。千年ぶりだね、アイリス。」

 懐かしい声。懐かしい温もり。懐かしい感覚。

 その全てがアイリスの心を震わせる。およそ千年に及ぶ空白が今この瞬間に埋められていくのを感じた。

「忘れるはずがありません。忘れられるわけがありません。私は、貴女様のことを…ずっと。」


 マリア・オルティス・クリスティー。

 アイリスが心から敬愛してやまない親愛なる “お姉様”。


「空のたもとで遠く離れていても、君の想いはきちんと私のところに届いていたよ。」

 抱き締めていた腕をほどいてマリアは言う。

「ただひとつ。次にヴァチカンの総大司教様に会ったら一言だけ礼を言うように。」

 マリアは人差し指をアヤメの唇に軽く触れさせながらそう言うと可愛らしいウィンクをした。

 そしてくるりと後ろを振り返り先程まで座っていた椅子に戻りながら言う。

「積もる話はたくさんあるのだけれど、今日という日に話せることはそう多くはない。まずはこっちに来て椅子へ掛けるといい。」

 満面の笑みで促すマリアに何度も頷きながらアヤメは彼女の待つテーブルへと向かうのだった。


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