第6話 自転車屋の爺ちゃんと婆ちゃんは優しい匂いがした


 夕方の蜩の声が物悲しく聞こえる。生ぬるく吹く風が辺りを闇で纏い、昼間の騒がしさをどこかへ運ぶ。


 みな、夜になると家に帰る。こんな当たり前の行為が躊躇いになった。今の俺が家に帰るのか? 今現在の俺と昔を手繰り寄せ、それを混ぜ込んだ記憶を背負って。俺は親父にどんな顔すればいい? 母ちゃんに会ったら一番最初に何を言えばいい?


 というか、本来、高校生の俺は、今どこに居るんだ。俺の心の中なのか。それとも……


 こんな曖昧な俺は、どこに行けば正解なんだよ。


 ずっと悩んだ挙句、出た答えは商店街の自転車屋の前だった。

 そう、川瀬サイクルの前だ。


 まだ、高校一年の夏休み。俺がペグに会うのは、もう少しあとのこと。


 さあ、なんて言う?

 どんな顔して、ペグに会えば正解だ?

 ずっとそんなことを考えていた。


 夕飯時に高校生が自転車屋の前でうろうろしている時点で、怪しいことこの上ない。誰かに通報されやしないか? もしこんな時に知り合いに会ったら、どう言えばいい。


 答えが見つからなかった。まるで、同じ場所を行ったり来たりしている気分だった。


「……なあ、兄ちゃんはさっきから何やってんだい?」

 呆れたような嗄れた声が、俺の頭上から聞こえてきた。


「あ……」

 見上げた先には、小さな小窓からペグの爺ちゃんが俺を見ていた。まだ元気だった頃の川瀬サイクル店主。川瀬ヒデは、商店街でも有名な勝気な人だった。



「あれあれ、兄ちゃん見たことある子だね……」

 ボーッと考えている俺は、ヒデさんが居ることに気がついて後退りした。そんな俺をヒデさんは、店の扉を開けて首を傾げていた。


「あ! 兄ちゃん、駅前の和菓子屋の坊ちゃんかい。どうしたんだよ、こんな場所で」

 片手を打ち思い出したと言わんばかりの表情で、気さくに声をかけるヒデさんの顔をぼーっと見ていた俺の目から、突如ぼとぼとと大粒の涙が溢れ出した。止めようにも一度溢れた涙は簡単には止まらなくなっていた。それに気がついたヒデさんは一瞬だけ眉が動く。すると、奥さんのタエさんが店から出てきて驚いた顔を見せたが、すぐにまた店に入っていった。しばらくすると、ハンドタオルと氷が浮かんだ麦茶を何も言わずに俺にさしだした。


 タオルを手にして顔を包み込むとごしごしと擦る。洗濯物の優しい香りが鼻腔をくすぐり俺は安心したように、今度は嗚咽を漏らして泣き出した。


「あらあら、大変。あなた、土屋さんとこのシロウちゃんよね。そんなに泣いたら体の水分が全部出ちゃうわよ。水分補給しなさい」

 と、タエさんが優しくそっと髪に触れ、頭を撫でてくれた。僕はもう高校一年のはずなのに、タエさんにとっては孫と同じ歳なんだもんな。なんてことない、かわいいもんなのだろう。今の俺なら解る。


「とにかくここじゃなんだからね。うちに上がってちょうだい。ほらほら、どうぞ」その何気ない気遣いと包み込むような声に、また鼻の奥がツンとした。


「何があったか知らんが。とにかく、まあ、ばあさんが入れたお茶飲め。美味いぞ。冷えた麦茶は熱くなった体にはいいんだ。話は、その後でも構わんさ」

 そう言ったヒデさんの顔はとても優しくて、低く安定した声は腹の底をじんわり暖かくしてくれた。


 俺、こういうのを忘れていた気がする。

 おもいやり。

 それから、人と人の繋がり。


 ありがたい。そう思うと涙が次から次へと溢れて、またうまく声にならない嗚咽まで混じる始末だ。やれやれだ。



 ******


 数時間前。


「ねえ、こういう時ってエアコンの効いた部屋の中でメシ食いません?」

「え? そういうもんか?」

「だって、食べてる間も汗がとめどないですよ」

「仕方ねえだろうが、財布の中にあった金は、たった三千円だぞ!」

「まあ ……そうですけど」

「なんだよ、その面。おまえに限っては財布も持ってないだろうが! 嫌なら食うな」

「うぐぅうううう」

「喉に詰まったのかよ。ほら、烏龍茶で流し込めよ」


 このクソ暑い炎天下で、持ち帰りのファーストフード。せめて店内で食べたらいいのに。シャムを探すと聞かないテツさんのあとを俺は渋々と着いていく。カラカラに乾いた空気に、アスファルトが焼けた匂いをさせる。雲ひとつない空は綺麗な青で、お天道様は真上に昇っていた。足元には、真っ黒な影がへばりついていた。



「……ねえ、なんか思い当たる場所ねえの?」

「思い当たる場所って言ったって。さっき新聞を見たら、この時代には、まだ俺とシャムは知り合いじゃないんですよ! 何処にいるなんて……」

「ん? なんか思いついたか?」

「シャムの実家。駅前の和菓子屋さん……」

「あ……」


 無駄道。遠回り。人は焦ったり慌てたりすると判断力が落ちる。絶対的主人公にはないタイプの失敗だとテツさんは、眉根を下げて仕方なく笑っているように俺には見えた。


 そろそろ風呂に入りたい。エアコンでほどよく冷えた部屋でひと眠りしたい。アイスコーヒーにやりかけのゲーム。ああ〜

 欲求は加速していく。


 ああああああああぁぁぁ!

 シャムは一体全体どこにいるんだよ。

 そう思って見上げた空に宣伝用に飛ばされた飛行船が浮いていた。まるで大きな空で優雅に泳いでいる鯨みたいに、俺には見えたんだ。


 どうしてだろう。

 この風景、見た記憶があった。

 どこで見たんだっけ。

 誰と見たんだっけ。





 日が落ちると、寂しさと共に異質なモノたちの動きが活発になると言われている。そして、仄暗い中になにかが蠢きはじめる。人の心もそのひとつ。


 怪異も幽霊も妖怪も区別される存在。人も。


 不思議さゆえにいずれ人々の意識や幻想の中で生き続ける。鬼や神隠しも。かくれんぼをしていて消えた子もいたとかいないとか。

 異界をめぐる豊かな想像力は日本人ならではなのかもしれないね。


 あの場所、あの時間を隔てる扉がどうもよく閉まっていないのではないだろうか。境界があいまい。それゆえにそれぞれを行き来しやすいということだろうか。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る