第5話 月見里と書いてやまなしと読む、小鳥遊と書いてたかなしと読む

 ゆらりゆらりと水面が揺れる。

 水底を見るが何も沈んだりはしていない。暑さで歪む自分の影が、時折あやしく視界に入るだけだった。


 境界が曖昧ゆえに、それぞれの世界の次元を行き来するのだろうか。一般に言う「摩訶不思議」な現象が、昔も今も身近なモノとして本当はあるのかもしれない。



 ******

 

 此処は真っ暗でさ、冬の空の下みたいでさ…… 白い息が真っ暗なその中でも上がっていくのが分かったんだ。ゆっくりと溶けて中に消えて行く。何も元からなかったみたいに。


 さっきから行き場を失ったような声で俺のナマエを呼んでるのは誰?


 別に誰にも期待なんてしちゃいないよ。

 ただ、耳にこびりつくような、か細く頼りないその声は、どこか懐かしくて大事だって感じたんだ。なんか変だよな。


 なあ、強くなるってなに?

 人ってそんなに強くなければいけないの?

 なあ、それでなにが残ったの?




 ペグ…… 俺

 俺は此処にいるよ。

 ずっと変わらずに此処にいるよ……




 

 閉鎖された真っ暗の中で高校生のことをちょっと思い出してた。

 俺がいちばんタイムトラベルしたくない時代だった。

 俺ってさ、飄々としてるからさ。馬鹿っていうか。誰彼構わずなんでも言いやすいのかな? とにかくそういう風に見られないのよね。我ながら損してるよねって思ったら、少しだけ胸の奥がチクリとした。




「そんないっぺんに、やいやいやいやい言わないで下さいよ! 俺だって色々と考えてるんです」

 四階の新校舎に行く途中の旧校舎の渡り廊下で数人の上級生に囲まれるように俺が面倒くさそうに声を出した。


「根性なしが偉そうに言ってんじゃねーよ」

「土屋くんは別に何にも考えてないでしょ? いつも、ぼけーってした顔してるじゃん」

「それよかさ、やるかやらないかを僕たちは聞いてるのよ? ねえ、三代目、土屋おぼっちゃま」

 べったりと顔面にへばりついた、ニヤニヤといやらしい笑顔が俺を囲み、気持ち悪さを演出する。こういうの正直に言うと死ぬほどどうでもいい。暇人どもが揃いも揃って。くだらない。


「……顔はこの際、関係ねえし。ここから落ちたら根性あるって言うんですか? あと、その三代目っていうのやめてもらえませんか……」

 三代目。そのセリフに少し嫌気がさして、俺は投げ捨てるように言葉を吐いた。


「おお。認めてやるよ、根性あるってな」

「和菓子屋の跡取り息子なんだろう、いいじゃん! 三代目って踊りも歌も上手そうなお名前じゃん」

 そんなこと思ってもないくせに、よく言うよ。落ちたら落ちたで笑うだけだと俺は知ってた。「あ〜あ、ホントに落ちちゃったよ」くらいの薄っぺらい言葉をその口から吐き捨てるんだと、俺は知ってた。


「こんな高さから落ちたら…… 落ちたら、ぺちゃんこじゃん。もう終わりじゃん。それに三代目は名前じゃねえし、そもそも今は、そういうことじゃないだろうよ……」


「ぐちゃぐちゃ言ってんなよ! はーやく落ちろ。はやーく落ちろ」

 その囃し立てる声に、俺は吐きそうになった。


 俺は俗に言う、いじられっ子だ。


 え? そういうのは、いじられじゃなくて、いじめだって? 知ってる。認めたくないのよ。そういうのって認めちゃうと終わりでしょ?


 飛び込むことは簡単よ。でもでも、こいつらに負けたみたいなのが嫌なのよ。


 ねえ、みんなだってそうでしょ?



 で…… どうしたらこうなっちゃうのよ。しかも、俺だけなの?




 どうして俺、此処に居るの? どうしてこの姿なのよ。どうしてよりによっていちばん厄介な時なの…… どうしてこの時間の場所なのよ


 身体と場所が変わっても、現在の記憶は消えずにタイムトラベルしたのであろう。


 土屋 史郎 16歳。高校一年生の夏休み。

 所謂、低迷中。自分がどういう位置でどういう感じでどう見られていたいのか分からないでいた。

 簡単に説明できればいいのに。そうもいかないみたい。そういうお年頃なのよね。


 軽音部の俺は、中学生の頃からずっとやっているベースが高校になってもやりたくて入部届けに名前とクラスを書いて提出した。どの先輩も優しくて、めちゃくちゃみんな演奏も上手くて、早く俺もその中に溶け込みたくて楽譜を貰った日は嬉しかった。今でもあのドキドキは忘れない。アイスが溶けるほどの熱い気持ちがドキドキをワクワクに変えていった。御自慢のベースを学校に持っていく日がいちばんキラキラに輝いていたと思う。それに何よりも誇らしくて、コピーでも、大好きなバンドの音楽に触れていられるのが嬉しくて仕方なかった。

 中学二年の誕生日に父親からお古のベースをもらった。ずっと強請っていた父親のコレクションのベースだった。綺麗な色の四本弦。光にかざすとさらに美しさが増すのが子供の頃からたまらなかった。父親がピックでひとつひとつ教えてくれた音は、耳とお腹に響き痺れていつも体をくねらせては気持ちよくて顔が緩んだ。



 それなのに――


 文化祭で演奏する俺に煽るような言葉が降ってきた。


「ヘタクソ!」

「いくら良い楽器でも、使う奴がヘボじゃ楽器がカワイソウ〜」

「ヤメチマエ!」

 最初は誰に言ってるのか分からなかった。


 演奏を止める気持ちはさらさら俺にはなくて、声なんて聞こえなくなって夢中でベースの弦をピックで弾く。無事に最後まで弾いてるって思ってた。そう思ってた。


「……土屋くん、もう誰もいないよ」


「え?」

 俺のナマエを呼ぶ係の人の声に振り向いた時には、一緒に演奏していた人は、誰も居なくなっていた。



 


 どうしてこうなった?



 なぜ、こうなった?


 で、イマココ。って感じね。

 はいはい、色々、思い出した。



 やっと見つけた青い鳥は、飛び立つ瞬間に黒い鳥に変わっていった。


 呆気ないな。本当。



 



 ペグ…… 学校の屋上から見える空ってこんな綺麗だったっけ?



 どうして、ここにいるんだっけ






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