第一章 碧の杜で女神は神舞をおどる 2

 ようやく恐ろしい神気が消え、緊張が解けた青年はその場にへなへなと脱力した。未だ心臓は激しい動悸の音を立て、体には嫌な汗がじっとりと流れている。


「何じゃ、お前これしきの神気で腰を抜かしたのか。まったく情けない男よのう」

「し、仕方ないでしょう! 俺は何の力もない人間なんですから……!」

「ふむ……この結界に入り、わらわを見ることができるだけの強い力を持っている。おまけに、わらわに言い返すだけの度胸もある。それでも、自分をただ人と言い張るかの?」


 けらけらと醜態を笑う少女は、じっと青年を覗き込む。その瞳はあまりにも真剣で、思わず継ぐ言葉を忘れてしまうほどにひたむきな色をたたえていた。


(いったい、どう答えればいい……?)


 神は、力のある人間や気に入った人間をそばに置きたがることがよくあるという。俗に言う神隠しの類だ。多くは子供がそうなることが多いが、大人が神隠しにある例も皆無ではない。


 彼女も似た理由で自分を傍に置きたいのだろうかと、初めはそう考えた。だが神であれば、力を使ってここに閉じ込めればいいだけの話だ。彼女にはきっとそれだけの力がある。こんな回りくどいやり方をしなくとも、方法はいくらでもあるはずだ。それなのに、彼女はそうしない。こちらをじっと見つめる瞳は、何かほしいものをねだる子供のそれだ。いったい自分が彼女の望むとおり自ら行動することに、何の意味があるというのか。


 答えに窮したまま沈黙していると、ふと少女はおもむろに立ち上がる。いったい何をするのかと身構える青年には目を向けず、彼女は少し遠い目をしてつぶやいた。


「ここには神域を守ることしか頭にない、頑固者の動物たちしかおらぬ。里に住む人間たちはわらわを見ることは出来ず、もはや存在すら忘れておる。むかしはよくうら若き見習い巫女たちと山を駆け回って遊んだものじゃ。だが近頃では神事に携わる者たちすら、わらわを見る力は失われつつある」


 温かい大地の色を映す瞳は、少しはなれたところからわかるほどに揺れていた。どうしようもない寂しさを含んだ声音に、青年は少しひるむ。出来ればもう二度と、こんなところへは近づきたくないと思っている。だが濡れた瞳を揺らす少女を目の前に、そんな酷なことは到底言えなくなってしまった。


「もうほとんど誰も、わらわを覚えてはおらぬ。わらわに語りかけたり、願い事を言うものもおらぬ。人はみな、目に見えるものしか信じなくなってしまったのじゃ」


 ふわり、と湖畔を駆け抜ける風が艶やかな黒髪を揺らす。水面をたたく雨が霧雨に変わったのを見て、少女の唇が少しだけほころんだ。それでも、瞳に浮かんだ寂寥の色は変わらない。


「かつて水城神社の巫女だったわらわがこの山の守神に選ばれてから幾年月いくとしつきがたったのか……それすら人は覚えてはおらぬ。もっとも、昔の話過ぎてわらわすら正確な年数は覚えておらぬがの」


 くふふ、と言ったそばからそれを笑い飛ばす言葉に、青年ははっと顔を上げた。

 そういえば、村の神事を司るじじに昔そんな話を聞いたことがあった気がしたのだ。このあたりの山を治める神は、何百年か前に村の中から選ばれた人間がなったのだ、ということを。


 そうして唐突に気づく。彼女はいつから神様になっているのだろう。どれだけの時間を一人で過ごしてきたのだろう。


「……ただの人の身である俺には、一生神様の隣で過ごすなんて到底無理です。俺にも生活があるし、守るべき家族もいる。何よりあなたとは時間の流れが違う」


 そう言うと、少女の瞳は諦めの色を浮かべながらもさらに揺れた。我ながら残酷な言葉だと思う。くるりとこちらに背を向けたのは、これ以上動揺する顔を見られたくないためか、涙をこぼしたのをごまかすためか。


 それでも青年は彼女の様子にひるむことなく、すぅっと息を吸った。言ったら後悔するかもしれない。普通の生活には戻れなくなるかもしれない。それでも、目の前で瞳を揺らす少女を放ってはおけなかった。かつて彼女が自分と同じ人だったと知ってしまった今、この少女をただの「神」だという目で見ることは出来なくなってしまっていた。


 吸った息は次の瞬間、決意を込めた声になる。きっと振り向いた少女の表情は大きくかわるだろう。神前でこぼされる、言霊の込められた言葉に。


「でも、たまにこの山に遊びに来るくらいなら出来ます。あなたの顔を見るために」


 青年の言葉に恐る恐る振り向いた少女は、思った通りに驚きの表情を浮かべていた。信じられない、と疑うような瞳は、真偽を図るようにこちらを見つめている。そうしてにらめっこがしばらく続いたあと。


「――そなた、名はなんと言う?」

市伊いちい、と申します。大城山おおきやまの守神様」


 唐突な問いかけに、よどみなく市伊は名を告げた。自分の名を告げるのは、相手を信頼する証。ましてや、神に名を告げるということは、自分を丸裸にするも同然である。それを柚良はよく理解していたらしい。ぱっと見開かれた瞳は、みるみるうちに潤んでいく。


「いち、い……市伊、約束じゃ! 絶対に、違えるでないぞ……っ!!」


 どん、と体に衝撃がはしった。大きな丸い瞳に涙をいっぱいためた少女は、ぼろぼろと涙をこぼしながら市伊に言い募る。はい、と市伊が頷くと、泣き笑いとともにその表情は崩れた。


「これからはわらわを“大城山の守神”などとたわけた名前で呼んではならぬ。ちゃんと柚良という名前で呼ぶのじゃ!」

「仰せかしこまりました、柚良さま」

「その、堅苦しい敬語もいらぬ。もっと砕けた感じがよい……!」

「はい、わかりました。これでよろしいですか?」


 いわれたとおりに名を呼び、口調を改める。そうしてやっと、市伊の胸のあたりに顔を押し付けて泣いていた少女は顔を上げた。


 彼女は返事のかわりに、くしゃりと顔をほころばせる。それは思わず息をとめて見とれるほどに艶やかで、どんな花にも勝る美しい笑顔だった。

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