第一章 碧の杜で女神は神舞をおどる 3

 いつのまにかすっかり止んだ時雨は、周りの木々をさらに濃い色にしていた。むせかえるような緑に囲まれながら、少しぬかるんだ山道を下っていく。先ほどまで傍らでお喋りに花を咲かせていた少女とは、峠の分かれ道である結界の間際で別れた。


 なんでも、普段山の神がこれ以上先に行くことを許されていないのだという。 もう少しここに居てはくれぬか。そう言い募る柚良に別れを告げるのは少し心苦しかった。だがこれ以上市伊が山から帰ってこなければ、共に狩りへ出かけた仲間が不審に思うだろう。寂しげに見送る少女にまた来ることを約束して、ようやく市伊は帰路についたのだった。


 神木かみき村は、大城山のすそ野に唯一ある集落で、そこに市伊の住む家はある。水に濡れた濃い緑は空と同じ茜色に染まり、影を落とし始めていた。仲間とはぐれた理由をなんと言おう、と言い訳を考えながら歩いていく。山道の入り口から少しばかり東に歩を進めると、すぐに神木村は見えてくる。 ぽつぽつと煙が立ち始めているところを見ると、早くも夕飯の支度をしている家がいくつかあるのだろう。


 簡素な門をくぐり村へと入ると、少し歩いた先の村長の軒下に、はぐれてしまった仲間たちが集まっていた。 なにやら笑顔で話しているところを見ると、今日はいい獲物をしとめることが出来たのかもしれない。さすがに心配をかけただろうから謝っておかなければ。そう思った市伊はその集団に近づき、頭ひとつ分とび抜けて大柄な男に声をかけた。


榎木えのきさん!」

「ん? ああ、市伊か。またおまえ、狩りの途中でふらっといなくなっちまいやがって……お前でなきゃ、今頃山ン中村人総出で大捜索してるとこだぞ」

「それ、何気にひどくないですか」

「ひどい? それは狩りの途中でふらふらどっかいっちまう癖を直してから言うんだな。まあ、毎回毎回ちゃんと帰ってこられるのには感心するが」

「その通りだぞー市伊!」


 それまで周りで聞いていただけだった仲間たちも皆、榎木の言葉に賛同してどっと笑う。その言葉は残念ながら図星だったので、市伊は何も反論しないまま苦笑を浮かべた。


「けど、今回は珍しく帰り道で合流しなかったな。何かあったのか」

「いえ……局地的な濃霧に遭ったので、うかつに動けなかったんです。危ない目にあってたわけじゃありませんよ」

「そうか。あまり家族に心配かけんじゃねぇぞ」

「わかってますよ。それは一応心得てるつもりですから」

「なら、いいんだけどな」


 榎木の質問には、少しどきりとさせられた。こういうのをとっさに言うのは苦手なので、帰り道に言い訳を考えておいてよかったと思う。


 それからひとしきり仲間とたわいない話に花を咲かせた市伊は、家のあちこちに明かりが入り始めたのをきっかけに仲間たちへと別れを告げ、 家へ向かって歩き出した。さすがに完全に日が暮れるまでに帰らないと心配されてしまう。だが十歩も歩かないうちに、聞きなれた声に呼び止められた。


「おおい、市伊じゃねぇか!」


 声のしたほうに視線をやると、離れたところで市伊の名を何度も呼びながら、豪快に手を振っている男の姿がある。久方ぶりに見るその男は昔からの腐れ縁であり幼馴染だった。普段は布の行商人をしているためこの村を離れていることが多いのだが、珍しく帰ってきていたらしい。こちらも手を振り返しながら近づくと、男が片手をあげる。半年ほど前に別れた時とほとんどその姿は変わっていない。だが、いつもにこにこと笑顔を浮かべている男は、珍しく渋面をしていた。


筑芭つくばか。久しぶりだな」

「おう! って久しぶりだな、じゃねぇだろうが。今日の狩りで朝から山に入っちまったまま姿が見つからねぇって聞いたんで、心配してたんだぞ!」

「すごく良い獲物を追っていったら途中で濃霧にあって、少しばかり道に迷っただけだ。俺がふらふらどっかにいくのはいつものことだし、そんなに騒ぐことじゃないだろう」


 しかめっ面をして怒鳴る筑芭にため息をつきながらそういうと、彼の眉間に寄っていたしわが少しばかり緩んだ。だが完全にはなくならないそれが、全て納得したわけではないということを物語っている。こういう顔をこの男がするときは、たいてい理由はひとつである。


 もう一度ため息をついてその話題に触れようとしたとき、市伊は筑芭のはるか後ろから駆けてくる一人の少女の姿に気づいた。


「兄さんっ! 市伊兄さん──!!」

「あいつ……!!」

「そういうことだ。瑞季みずきにいらない心配をかけるんじゃねぇよ」

「まったく……」


 この溺愛ぶりは何とかならないものか、と天を仰ぎながら、走ってくる少女を見て途端難しい顔になった。柔らかな黒髪を揺らしてこちらへ来るのは、六つ下の妹であり、筑芭が溺愛している少女だ。もっとも当の本人はそれをまったく自覚していないので、今のところは完全に筑芭の一方通行なのであるが。


「無事だったのね兄さん! すっごく心配したんだからっ!!」

「お前、まだ病み上がりだろう。走るなと何度言ったら……あー、その、心配させたのは悪かった」


 息を弾ませて一目散に胸の中へ飛び込んできた妹の行動をとがめると、途端鬼のような形相で筑芭に睨まれた。先に謝れと言うことか、と理解した市伊は路線を変更して謝罪の言葉を言う。すると瑞季は市伊に抱きついたまま、泣きそうな顔をしてこちらを見上げた。


「怪我はしなかった? 危ない目にあってない? 山を降りてきた人たちに、兄さんが見つからないって聞いて、それでわたし──」

「本当に悪かった。濃霧にあって少しばかり道に迷ってしまったんだ。お前が心配していたようなことは何もない、大丈夫だよ」


 力いっぱいぎゅっと抱きついてくる妹をなだめるように抱きしめると、ようやく瑞季はふわりと笑った。嘘は言っていないが、本当のことを話したわけでもない。隠し事をすることは少し罪悪感があったが、彼女の安心したようなその笑顔に、これでよかったのだと思うことにする。横でその笑顔に骨抜きにされている瑞季馬鹿な男はともかく、兄である自分ですら幸せになるような微笑みである。


(――恥ずかしげもなくそういえてしまう俺も相当の妹馬鹿かもしれないな)


 やっと安心したらしい瑞季だったが、なかなか市伊の衣の裾を離そうとしない。おそらく八年前、山へ入ったまま帰ってこなかった父親のことを重ねてしまったのかもしれない。その時彼女はまだ八歳だった。父がいなくなった二年後に流行り病で母も亡くなり、とても心細かったことをよく覚えているのだろう。筑芭がいつもより怒っている原因もそこにある筈だ。不可抗力だったとはいえ、確かにこれは市伊の落ち度だったと反省をした。


「俺はお前を置いてどこにも行ったりはしないから、安心していい。父さんのように、山に行ったままいなくなったりしないから」

「絶対よ。約束なんだからね、市伊兄さん?」

「ああ、約束する。だから頼む、病み上がりの体でこんな時間に外へ出ないでくれ」


 ため息をついて、見た目にも薄着だとわかる妹に言う。六月になってだいぶ暖かくなったが、よく雨が降るこの月の夕方は少しばかり肌寒い日が多い。 もう大丈夫だと医者に言われたとはいえ、ひと月ほど前に質の悪い風邪にかかり、この前まで床に伏せっていた妹が外を出歩くにはあまりよくない気候のはずだった。


「あら、もう私はすっかり元気よ? 今日なんかすっごく暖かくて過ごしやすかったおかげで、いつもより機織りが進んだんだから」


 市伊の心配をよそに、瑞季は笑ってあっけらかんと答える。この娘はいつだってこうだった。彼女は体が弱く、ふた月に一度くらいの頻度で体調を崩す。だが毎度治りきる前に起きようとする妹を家に押し込めておくことに、いったいどれだけ骨を折っていることだろう。ちらりと横を見ると、こればかりは筑芭も市伊と同じく苦笑していた。


「昼間はあたたかかったが、今は少し寒いだろう。外に出るならせめて上にもう一枚着てから出るようにしてくれ」

「わかったわ。さあ、帰りましょう。筑芭兄さんもうちに来るわよね?」

「おお、せっかくだから寄らせてもらうぞ。瑞季の手料理は絶品だからなぁ」

「嬉しい! じゃあ今日は筑芭兄さんのために、腕によりをかけてご馳走を作るわね」


 すっかり傾いてしまった太陽を横目に、優しく瑞季の肩を押す。すると、衣を離した代わりに腕に抱きつかれた。普段はあまりこういう甘え方はしない妹だが、今日は仕方ないだろうと納得して、そのまま歩き始める。かなり羨ましそうににらんでいた筑芭は瑞季の手料理という言葉にすっかり機嫌を直し、にやけきった顔で隣に並んだ。妹の手料理が少し個性的なことは筑芭もよく知っているはずだが、ようは瑞季が自分のために料理を作ってくれることだけで嬉しいらしい。


 その晩は、少しばかりにぎやかに囲炉裏を囲むこととなった。酒を片手に次々と披露される筑芭の土産話はどれも面白く、普段食事をすませるとさっさと寝てしまう市伊と瑞季も、この夜はひとしきり楽しんだのだった。

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