眠れる女神に永遠の約束を

さかな

第一章 碧の杜で女神は神舞をおどる

第一章 碧の杜で女神は神舞をおどる 1

 しとしと降る雨の中、見上げた空はどこまでも青かった。周りを覆っている、息が詰まるような緑は雨に現れてさらに色を増す。目の前に広がる湖は銀色で、落ちる雨粒が細かな波紋を作っては消えていく。


 そんな中に、彼女はいた。


 背中から地面へ流れ落ちる長い髪は烏の濡れ羽色のような漆黒、丸い二つの瞳は柔らかな大地の色。顔立ちにはまだ幼さが残るが、その印象さえ払拭してしまうほどに、浮かべた表情は大人びている。鮮やかに色づく唇や潤んだ瞳からこぼれでる色気は、もはや少女とはいえないだろう。髪の毛の隙間や襟、袖口からのぞく白い肌はほんのり桜色に色づき、少女のからだを彩っている。なにより身にまとう寒椿の着物が、彼女の存在をより際立たせていた。


 ――ああ、神様だ。


 途切れることなく軽やかに鳴らされる鈴の音を聞きながら、直感的にそう思った。

 自分は、神の住まう聖域に足を踏み入れてしまったのだと。それほどに、湖の中ほどに浮かぶ小島の社前で舞う彼女は美しかった。瑞々しい唇から朗々と紡がれる詞は、どんな楽器が奏でる音色よりも澄み切った音をしている。青年は体が濡れるのも忘れて、ただその景色に見入った。


 否、動けなかった。心が洗われるようなその舞は、今まで見た何よりも美しく、純粋で、綺麗だったから。


 鈴の音の響きがまだ余韻を残す中、舞は静かに終わった。少女だけを切り離していた二つの音が消え、消えていた世界の音が戻ってくる。それでもまだ、一歩も動けなかった。静かに目を閉じ、祈りをささげる彼女がまだそこにいたからだ。誰よりも、何よりもひたむきなその姿を少しでも目に焼き付けておきたくて、青年はじっと見つめていた。


 いったいどれだけの時間がたっただろうか。きぃんと澄み切った場の空気をかえたのは、少女が立ち上がった後に発した言葉だった。


「――誰ぞ!」


 舞の後もその姿に見とれたまま立ち尽くしていた自分に向けられたのは、そんな鋭い問いかけだった。俺はとんだ間抜けだな、と心の中でつぶやいてみたけれど、もうとっくに手遅れだ。


 少女はあっという間に水の上を渡り、すぐ目の前にやってくる。目の前にせまる彼女は頬を真っ赤に紅潮させて、丸い瞳を吊り上げていた。すげぇ空飛べるのか、と感嘆が半分。間近で見ると改めてすごく可愛いなと下心が半分。まだ危機感をあまり感じないまま頬を緩ませ、若干不純な気持ちも入り混じった面持ちで青年は彼女を見つめていた。


 だが次の瞬間、緩んだ思考は木端微塵に吹き飛ばされた。ぐわり、と目に見えない圧力が体を包む。喉に焼けた刃を付きつけられたような感覚に、思わず息を呑んだ。実際には全く彼女は手を出していない。いわゆる神気というやつだろう。息をするのもままならず、ぼやけていく思考の隅でぼんやり考える。このまま殺されてしまうのだろうか、と観念して目を閉じかけたとき。深いため息とともに、呆れた声が耳に届いた。


「先ほどから空気を乱すものがいるから誰かと思えば、何じゃ、ちんけな若造の男衆か。こんな所に来てどうするつもりだったのじゃ、まったく……」


 はあ、と大きなため息とともに、体にまとわりついていた神気が緩む。どうやら命は助かったらしい。そのままそっと逃げればよかったのだが、あまりにも彼女の言葉が呆れ果てた声色だったので、青年はつい反射的に返事をしてしまった。


「その、俺はここに迷い込んできてしまって……あなたを見かけたんです。それで、綺麗だな、と……」

「――は?」

「え? いや、迷い込んだのはわざとではなかったし、なにもするつもりはなかったんです。でも、偶然見たあなたがあまりにも綺麗で……」

「ちがう! そなた、わらわが見えているのか?!」


 ただ普通に返事を返しただけなのに、いきなり飛びつかんばかりに近くまで顔を寄せられる。吐息さえかかりそうなほど目の前まで迫られ、思わず息を止めた。目の前で潤む柔らかな大地の色をした瞳を見上げれば、その双眸には自分の姿が映り込んでいる。上気した頬は色づき始めた桃のような薄紅色で、絹のようにきめ細かく滑らかだ。あまりの勢いに言葉を発せず、青年はただ頷くことしかできなかった。だがその反応にもかまうことなく、その答えに彼女は顔をほころばせた。


「なんと……人間であるのに、わらわの姿が見えるというのか……!」

「それがどうかしたんですか……?」

「どうもこうもあるものか! わらわが見える人間など久方ぶりじゃ。そなた、あやかしの類などではなかろう?」

「ええ……俺は、いたって普通の人間です、が……ぐぇ」


 とうとう体の上に乗り上げられた挙句襟首をつかまれる。青年は半ば潰れかけの蛙の気分になりながらどうにか平生心を保って答えた。端から見れば絶世の美女――いや女の子に押し倒されているという、世の中の男が皆うらやむ状況だ。だが、神様に押し倒されていることを考慮すれば、全くうらやまれる話ではない。最初に向けられていた殺気こそ消えているが、彼女にしてみれば、人ひとりの命をひねりつぶすことなど容易いはずだった。


「うむ。確かにそなたからは人間の匂いしかせぬ。しかし妙な事もあったものじゃ。ここにはわらわが張った結界があったはずなのだが、どうやってここまで来た?」

「特に、何も……山に狩りに入ったら特別大きな鹿がいたので、それを追いかけてきたら、いつの間にかここへ出てきたのですが……」

「ほう、鹿を追ってきたとな。さてはおぬし、獣の主に手を出したな?」


 いたずらっぽく彼女は笑って答えた。そういわれてみれば、確かに納得できるかもしれない。自分の追いかけていた奴は、普通の鹿の倍はあろうかと言うような大鹿だった。こんな滅多にない獲物を逃がしたら一生後悔する。そう思って追いかけてきたが、どうやら身の丈に余ることだったらしい。なぜか嬉しそうにくふくふと笑う彼女は、何事か小さく一言二言呟き、腕輪の鈴を軽やかに鳴らした。


 いったい何が始まるのか。青年が理解できないままその行動を見守っていると、突然湖の上を一陣の風が駆け抜けた。あまりの速さに目が追いつかず、一体何が起こったのかと目を瞬かせる。目の前に突如現れたのは先ほど追っていた大鹿だった。


「そ、その鹿は……っ」

『お呼びでしょうか、柚良ゆらさま――』


 枝分かれした立派な一対の角を振りながら、大鹿が頭を垂れる。柚良、というのは目の前の少女の事だろうか。


「おお、呼んだとも。こやつに見覚えはあるかの?」

「ええ、ありますよ。これは私を狩ろうとした命知らずな上に、 恐れ多くも神域を侵した重罪人です」

「ほう……そうか。それは困ったの」

「柚良さま、困ったもなにもありません。悪ふざけはおやめになって、この愚かな人間にさっさと手を下してくださいませ」

「ふむ。だが、俊足のお前についてこれる足を持ち、結界をすり抜けられる特異な能力を持っておる。どうじゃ、面白いとは思わぬか?」

「恐れながら、全くそうは思いません。むしろそんな危ない人間はさっさと殺してしまうべきです。貴女様がお手を汚したくないのであれば、私めが手を下させていただきますが」


 憤る鹿は怒りも露わに大きな蹄で土をえぐる。あんなので踏み潰されたら簡単に死にそうだ。自嘲気味にそんな薄ら寒い事を考え、恐る恐る少女のほうを見上げる。命を握っている柚良は鹿と青年を見比べてから、さらにくふ、と笑った。


おおいは気の短いことよの。いいや、殺してはならぬ。これはわらわのものじゃ。決して手を出すのではないぞ」

「しかし――」


 柚良が眉間に少し皺を寄せながら答えた言葉に、なおも大鹿は食い下がる。その瞬間、彼女のまとう空気が一変した。


 流れるように滑らかな動きで大鹿の前に立つ。大地色の瞳はすっと冷えて縁取りの濃さを増し、静かに目の前の獣をねめつけた。風など吹いていないのに、簪に結い止められた黒髪が強風にあおられるように揺らめく。はたはたとなびく髪の動きに共鳴して、まるで悲鳴を上げるかのようにびりびりと空気が震えた。


(――怖い……!!)


 感じたものは、根源的な恐怖と、無意識に強者を判断する意識。それが何かを理解する前に、青年は思わず後ろへ身を引いていた。


「わらわが駄目だと言ったのじゃ。おぬし、わらわに逆らう気かの?」


 いつの間にか、柚良の顔から笑みは消えうせていた。氷の刃のような表情で、少女は鹿に問う。言葉が一言発せられるたび、空気の震えはどんどん大きくなっていく。


 これほどの力にさらされていても、徒人ただびとである自分の気が狂ったりしないのは、ひとえに神力の向けられている相手が大鹿だからだ。自分が全く無事なところから判断して、その力が他方へ向かないよう、少女が結界を張ってくれている可能性すらある。それでも、おそらく彼女は持てる力の十分の一も出していない。だがたったそれだけの力であっても、大鹿が負けを認めて足を折り、頭をたれるには十分な力の強さであったようだ。


「……いいえ。お言葉に従います。私から、山の者にも知らせておきましょう」

「そうか。分かってくれてうれしいぞ。皆に伝えるとよい。こやつはわらわが招きいれた客人だとな」

「……は。仰せのとおりに」


 もう一度、 柚良に向かって大鹿は深く頭を下げた。そうして現れたときと同じように、一陣の風となって湖畔を渡り、あっという間に姿を消したのだった。

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