(17)

市原いちはらさん、どうぞこちらへ」


 通る声で、店長が誰かの名を呼んだ。


「はい」


 澄んだ声が響いて、紺のスーツをぱりっと着こなした細身の女性が店長の隣に並んだ。ショートヘアで、優しそうな顔つきの人だ。年は店長より少し下くらいだろうか。

 市原さんが丁寧にお辞儀をする。俺らもつられて礼を返した。店長が彼女の紹介を始めた。


「今回当店の未来展望を考える上で、エバンスコンサルタントさんに現状をチェックしていただき、数々の貴重な助言を賜りました。私は小売一筋の親父と違って本来門外漢です。経営の見通しを明るくするには、どうしてもプロによるチェックと助言が必要だったんです。特に、当店を担当してくださった市原円香まどかさんにはブラボーマートとの橋渡しにもご尽力いただき、大変お世話になりました」


 そうだったのか。あの半日休んだ日には、市原さんと会って最終決断をしていたということなんだろう。


「市原さんと討議を重ねているうちに、私はさのやに大きな問題点があることを強く意識しました」


 一呼吸置いて、店長が目を伏せた。


「みんな、いっぱいいっぱいなんですよ。自分の意思で前に進むというより、誰かにいつも背中を押されているような圧迫感を覚えてしまう。何より私が、一番強迫観念に悩まされ続けていたかもしれません」


 おでん屋で俺と話をした時と同じように、辛そうな顔で弱音を吐く店長。だが。そのあと顔を上げ、俺の顔を見てぱちんとウインクした。


「横井さんが前の社を辞めて一度リセットされたように。私も一度立ち止まろう。いや、さのや自体を一度停めよう。市原さんからも諭されたんです。もう一度足を動かす気力を作り出すには、立ち止まる勇気も必要ですよ、と」


 そう言ったあと。左手を伸ばした店長が市原さんの右手を握った。その手を握り返す市原さん。おやあっ?


「私はもう限界でした。ですから一度立ち止まって、その間に自分を取り戻すことにしました。削ってしまった自分の修理を……彼女に手伝ってもらうことにしたんです」


 ま、まさかっ! それはスタッフ全員ぶっ飛びの大ニュースだった。ノリさんが慌てて確かめる。


「も、ももも、もしかして。店長」

「彼女と。結婚することにしました」


 どっひゃああああっ!

 最初の辛気臭いムードはどこへやら。いきなり蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまった。俺もびっくりだよ。どうしても、店長と結婚というのが結びつかない。だが、いかつい顔を真っ赤に染めて照れまくっている姿を見る限り、間違いなく事実なんだろう。

 じゃあ、なにか? あの半休はもしかしてプロポーズのためか? ありうるなあ。ありうるありうる。俺だけでなく、ノリさんや黒さんもにやにやしだした。店長は、そんな俺たちから目を逸らしながら話を続けた。


「彼女に、もう一つの副店長職についてもらうことにしています。もちろん、横井さんと同じで給料がいいわけでもなく、特別な指揮権を持っているわけでもありません。彼女には、労務管理と業務監査をお願いしようと思っています」


 ぺこりともう一度頭を下げた市原さんが、店長と入れ替わるように少しだけ前に出て、静かな口調で挨拶と説明を始めた。


「はじめまして。市原と申します。わたしはコンサルタントという仕事に携わっていますが、コンサルタントは助言までしか出来ません。最後に方針を決めて実行するのは、経営者のみなさん自身なんです。そして、わたしの目から見て佐野さんの現状解析や業務改善策作りのレベルはとても優秀でした。これ以上わたしに何が手伝えるの? そう思ってしまうくらいに」


 市原さんがわずかに苦笑を浮かべた。


「でも、佐野さんはそれを実行する方法がわからないとおっしゃるんです。なぜ? なぜ、これだけ優秀な人が最後のゴーサインを自力で出せないの? でも佐野さんは、僕は浮いてると言いました。それでわたしにもわかったんです」


 し……ん。みんなが、視線を床の上に泳がせる。


「佐野さんは横暴ではありません。理不尽な命令を出してみなさんを振り回したことはないはずです」


 一も二もなく、みんなが頷く。


「それどころか、面倒臭い指示を出したり重たいお願いをすることもない。違います?」


 嫌味を言われたり、文句をぶつくさこぼされることは多かった。でも、あれやれこれやれの押し付けは一切なかったな。結局店長が代わりにやってしまうからだ。


「佐野さんは、ご自身がお勤めしていた時に上司にされて嫌だったことを、みなさんにはできるだけしたくなかった。それはとても望ましいことです。でも、自制が効き過ぎたんです。ダメなものはダメ。しなければならないことはしろ。強制力を伴う指示をきちんと出して人を動かさないと、善意だけ並べてもタスクがこなせません」


 うん。確かにそうだ。


「佐野さんは、説明込みでスタッフに指示を出す役割を横井さんが手伝ってくれてる、とてもありがたいとおっしゃいました。でも、それはどうにもおかしなことなんですよ。だってそれは横井さんの業務ではなく、ボランティアですから」


 そう言って、市原さんがまっすぐ俺の目を見た。冷静な、敵意も好意もない透明な視線。その視線は、俺にだけでなく全ての相談者に等しく注がれてきたんだろう。ベテランスタッフにも俺にもない、第三の要素だ。なるほどなあ……。


 市原さんは三本指を立てて、それを俺らに向かって掲げた。


「仕事の遂行能力、仕事に向き合う真剣さや熱意。協力し合う姿勢。みなさんはその三点セットをきちんと備えているのに、なぜか噛み合っていないんです。おかしいですよね?」


 店長のようなごつい声ではないけれど、市原さんの指摘は掛け値なしに厳しい。

 一度口を閉ざした市原さんが、店長の顔を見つめた。それは、恋人や伴侶に向ける視線ではない。さっき俺を見た時と同じ、色のない透明な視線。店長は市原さんと視線を合わさず、じっと床を見下ろしている。まるで叱責に耐えているみたいだ。


「トップがきちんと指示を出さない限り、それぞれの責任範囲がよくわからないんです。ここのみなさんは優秀ですから佐野さんの意図を先回り解釈して業務をこなしておられるんですが、先ほどの横井さんの例と同じでそれはボランティア。業務の全体像が見えないこと、指示や連携がわかりにくいことへの対処法でしかありません」


 市原さんが、こつっとヒールを鳴らした。


「ボランティアの状態がずっと続くと、気疲れしてしまうんです。そうするとどうなるか。ボランティアの努力が衰えた途端に、スタッフ間のリンクがぷつっと切れてしまいます」


 指示を徹し切れないのはトップとしての責任放棄だという容赦ない指摘。優しげに見えたけど、発言の中身は激辛だ。是は是、非は非。一時いっときの情で理を曲げない、か。なるほどなあ。店長が市原さんに惹かれたわけがよくわかる。

 さっと笑顔を引っ込めた市原さんが、短く言い切った。


「指示を徹底できない原因は、佐野さん個人にはありません。それは組織構造の問題なんです。仕事や人を調整する立場の人が誰もいないというのは……おかしくありませんか?」


 改めて苦笑してみせた市原さんは、店長の左腕をきゅっと抱え込んだ。


「こんな風に、リンクがきちんと繋がっている限り大丈夫ですよ。そして、今までの習わしやしきたりがぎごちなさを生んでいるなら、因習に捉われない人が間に入らなければなりません。わたしや横井さんが担うべき部分はそこだと思っています」


 市原さんが、再び俺に視線を移す。


「そして。横井さんにお願いする予定のスタッフの教育・指導ですが、その分担範囲にはどうしても入れ込めない要素があります。それが、女性ならではの悩みや相談ごとです」


 あ……確かになあ。どんなに俺が枯れていても、男の俺には言い出しにくいことがあるだろう。ましてや、店長にはもっと言いにくいはずだ。


「結婚や出産に伴う立ち位置の変化。お子さんのフォローや親の介護に関わる働き方や勤務体制の調整。それは、同じ立場にある女性の方が相談しやすいはずです。わたしがそれを担うことにいたします。労務管理というのは、そういうこと。もっとがんばってねとみなさんを急かす役割ではありません。業務監査もそうです。仕事を円滑にこなせるようにするためのチェックなんです」


 にこっと笑った市原さんは、もう一度丁寧なお辞儀をした。


「わたしは今勤めている社を辞め、こちらにお世話になることにしました。机の上でこねられた理屈を押し付けるのではなく、現場で見て、聞いて、確かめて、改善して、実行したい。そんなわたしのわがままを許してくれた佐野さんに、心からありがとうと言いたいです。そして」


 ふっと。短く息を吐く音が聞こえた。


「わたしは、最近勤め始められたどのパートさん、どのアルバイトさんよりも素人で、現場を知りません。みなさんが愛を込めてわたしをびしびし鍛えてくださることを、今からとても楽しみにしています。どうぞよろしくお願いいたします」


 ぱちぱち……ぱちぱちぱちぱちっ!

 小さな拍手の音は、やがて店中に響き渡る歓待と祝福の号砲に変わった。


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