(9)

 翌日早出した俺は、店長と二人でクリスマス向けに棚のセッティング変更作業に勤しんだ。若いパートさんは全員女性。俺のようなしょぼくれたおっさんでも、店長を除いた男性職員の中では一番年下だ。力仕事は率先してやらなければならない。

 作業が終わるや否や、店長はすぐさま在庫チェックを始めた。俺もチェック表を挟んだクリップボードを持って、店長を追いかける。バイトの件をさっさと切り出そう。


「店長、募集かけてたアルバイトのことですけど。惣菜の方、見つかりました?」

「いや、まだだ」

「それなんですが」

「あてがあるの?」


 俺と話をしながらも、店長の手が止まることはない。クリップボードに挟まれた在庫管理表には次々にチェックと数量が書き込まれ、白かった紙を幾何学模様に彩っていく。


「私の娘がやってみたいと言ってるんです」


 店長は、特段驚きもしなかった。代わりに短く聞き返した。


「娘さん、おいくつ?」

「二十二です。転職二回。今はフリー」

「何やってたの?」

「携帯ショップとリサイクルショップの店員です」

「お、店員か」


 店員としての経験ありは、店長としてはポイントが高いらしい。


「使える?」

「高村さんに仕事内容を聞いて、娘に説明してあります。教える手間を短縮できます」

「そりゃあすごく助かる。じゃあ頼むわ」


 すんなりオーケーが出て、ほっとする。


「ヤードの方は見つかりました?」

「ラッキーだよ。前にバイトしてくれた佐藤くんという大学生が来てくれることになった。今日から」

「経験者なんですね」

「そう。きびきび動いてくれるからずっとやって欲しかったんだけど、苦学生だからね。うちのバイト代じゃ無理は言えない」


 一瞬手を止めた店長が、小さな溜息を漏らした。


「なるほど」

「娘さんは明日から来れる?」

「もう店に来てるんです。すぐ入れます」

「なんだ、確信犯か」


 店長はにやっと笑ったものの、その時間がもったいなかったと言わんばかりに短い指示を出した。


「じゃあ、すぐに入って。タイムカードは朝一で押しとくから」

「ありがとうございます」


 勤務時間の前乗せは店長のサービスのように見えるが、実際は違うと思う。高村さんが手を止めて娘に仕事内容を説明する時間を俺が肩代わりしたことで、俺の勤務時間が実質増えている。超過分は娘さんの方で振り替えるから……そういうことなんだろう。


 白いビニールエプロンをつけて緊張した様子で惣菜の厨房に入っていった千秋は、高村さんの指示通りにてきぱきと野菜の下拵えを始めた。幼い頃から自活を強いられていた娘は、料理に一切の抵抗がない。卒なくこなすはずだ。俺は、さっと持ち場に戻った。


◇ ◇ ◇


 佐藤くんというアルバイターも、店長が高評価するだけあって特上だった。すでに経験があるから飲み込みが早く、その上店長並みに馬力があった。

 病気がちのシンママに育てられた苦学生だと聞かされていたが、ひがみっぽさやこすっからいところがなく、からっと明るい。挨拶や言葉遣いはしっかりしているし、若い頃の水谷豊に似てるわあとパートのおばちゃんたちからの支持は絶大。まるでずっと前からいた店員のように雰囲気になじんでいた。


 アルバイトの佐藤くんと千秋がしっかり機能し、これでなんとか年末年始を乗り切れるかなと思ってほっとした矢先に突然でかい爆弾が落ちた。さのやにではなく、俺に。

 昼休みに、スタッフルームでビニ弁をわしわし食いながら新聞に目を走らせていたら、小さな囲い記事の中にとんでもない文言を見つけてしまったんだ。


「うっ」


 飯が喉に詰まって、慌ててペット茶で流し込む。地方新聞経済欄の片隅にぽつんと置かれていた企業倒産の記事。多くの人々にとって、倒産はよくあることの一つに過ぎないだろう。だが俺的にそこは、どうしても潰れて欲しくないところだったんだ。


「美春の勤務先も……アウトか」


 この前千秋と電話で話していた時に強く危惧していたこと。あの時にはまだ可能性の一つでしかなかった。出版不況と言っても、どこもかしこもダメというわけではない。ちゃんと読者と購買者がついていて一定部数を売り上げているところなら、今日明日の心配をする必要はないだろう。

 しかし、雑誌メインでやっているところは浮き沈みが激しい。名の通った老舗雑誌すら廃刊の憂き目にあっているし、新たに創刊された雑誌も読者ニーズを掴むことに四苦八苦している。雑誌を購入させるというビジネスモデル自体が、時代遅れになりつつあるんだろう。

 大手ですら追い詰められている現状にあって、中小の出版社はもっと足元が暗くなっている。美春のところも、以前からいろいろ噂が出ていたんだ。


 部外者の俺にすらわかることが、現場にいる美春にわからないはずはない。それでも、あいつは最後まで社にしがみついた。俺の場合、社にこだわったのは単なる意地だったが、あいつの場合は夢だったんだろう。自分の理想を実現するための夢。それも非現実ではなく、現実にそこにある夢。

 俺は社から嫌われたが、社が今でも存続しているからこそそいつを蹴り飛ばすことができる。だが、寄りかかっていた壁が突然消え去ると、無の中に転がり落ちてしまう。


「……」


 俺に当てつけるようにして、離婚という切り札を躊躇なく切った美春。夫婦としての生活はとっくの昔に破綻していたから、美春の突き放すような態度に特段の感傷も反発も覚えてはいない。もし美春に別の男がいたなら、俺はもっとすっぱり割り切れただろう。でもあいつは、自分を支配しようとする男という存在自体を嫌悪しているんだ。だから、あいつのパートナーは人間ではなく仕事。

 美春がもっとさばけた性格なら腰掛ける椅子がなくなったからといってうろたえることはないんだが……あいつの基本はオールオアナッシングだ。受け入れられないもの全てを容赦なく切り捨ててしまう。自分が切り捨てられる側になりうるということを、まるっきり考えない。それが怖くて……仕方がない。


 俺も社にしがみつき続けたから美春のことは言えないが、社から冷遇され続けていた俺にはどこかに覚悟があった。俺はいつか追い出されるっていうね。終焉を意識の中に織り込んでいたからこそ、さのやでのリスタートが予想以上にスムーズに進んだ。


「あいつはどうするか、だな」


 美春が俺にアクセスしてくることは絶対にないだろう。あいつにとっての俺は、自分を無神経に侵食する害悪でしかない。まあいいさ。その意地が、あいつのリスタートのきっかけになってくれればね。


「ふうっ」


 新聞を四つ折りにして、事務机の上に放り出す。


「主任、どうなさったんですか?」


 やっと一段落ついたんだろう。田村さんが、疲れた様子でよろよろとスタッフルームに入ってきた。


「いや、別れた妻の勤務先が倒産したっていう記事を見つけちゃって」

「え?」


 俺の表情がざまあみろというトーンじゃなかったのを見て、田村さんが首をかしげた。


「心配なんですか?」

「あいつも俺と同じで仕事人間だからなあ」

「はあ」

「どうなるかなあと思ってね」

「あの……」


 聞いてもいいのかどうかという控えめな口調で、田村さんが俺に確かめる。


「主任は……どうして奥様と離婚されたんですか?」

「有り体に言えば性格の不一致です。長い間仮面夫婦だったから。お互い仕事優先で、娘のためだけに一緒にいたようなものです」

「なんか……信じられないんですけど」

「私がおおらかで包容力があるように見えます?」

「はい」


 いや、前の社にいた時の俺を見せてやりたいよ。無口で、覇気がなくて、コンプレクスの塊。誰とも比べられたくなかったから、濃いコミュニケーションから徹底的に遠ざかっていた。まあ……典型的なコミュ障だよな。


「ははは。それは私がここにいるからですよ。仕事は前職よりずっと忙しいけど、私はここで自分を出せる。自分を活かせる。そこが、役立たずの駒に過ぎなかった前とはまるっきり違う」

「奥様は?」

「あいつは私と逆です。家庭ではなく、社で自分の全てを満たしていた。なんの不満もなかったはず。仕事の内容も、待遇も、人間関係も、何もかもね。あ、食べながら話しましょう。午後も忙しくなるし」

「はい」


 着席した田村さんが、お弁当箱を開けて黙々とご飯を食べ始めた。目だけはずっと俺の方に向けている。


「私は社から不満しか持ち帰れない。社に全てを捧げて帰ってくる妻は、家に何も欲しいものがない。それじゃあ、未来永劫に噛み合いませんよ」

「うまくいかないものですね」

「まあね。世間一般によくある不倫とかの方が、感情がちゃんと動く分よっぽどましです」


 不倫という言葉を聞いた途端に、田村さんの肩ががくんと落ちた。


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