(10)

「わたしは……そっちでした」

「ご主人が不誠実だったんですか?」

「いえ、わたしが」

「えええっ?」


 びっくりして、座っていた椅子からずり落ちそうになった。仕事ぶりを見る限り、不器用なくらい真面目だけどなあ。


「なんというか……」

「バカでした」


 そのあと、田村さんがご飯と一緒に飲み込もうとして飲み込めなかった後悔が、だらだらと口から垂れ流された。


 別れたご主人は前に勤めていた職場の同僚。物静かで誠実な人だったらしい。田村さんはそれほどご主人に惚れ込んでいたわけではなく、周囲の女子社員が次々結婚していく流れにいつの間にか乗せられ、勢いで結婚した。

 ご主人の人柄に欠点はなかったという。家事にも協力的だし、話をよく聞いてくれて、優しくて穏やか。ただ……どうしても男性としての魅力を感じなかった。どこか物足りない、満たされないというじれったい思いが悲劇を呼び込んだ。別の課のやり手チーフによろめいて、既婚者であることを知りながらずぶずぶと泥沼にはまり込んでしまったそうな。


 それが単なる不倫で終われば、よくある話だ。しかし、そいつの子供を妊娠してしまったために全てが瓦解した。ご主人が懐妊に気づいて喜んでしまったから堕ろすに堕ろせず、そのまま出産。赤ちゃんの容姿が夫に全く似ておらず、血液型も夫婦の組み合わせからは生まれない型だったためにごまかせなくなり、とうとう白状した。それから……修羅場になった。

 チーフは自分と家庭を守るために全責任を田村さんになすり付け、一方的に退社に追い込んだ。ご主人は怒り心頭で、誰がそんな子の面倒なんか見るものかと田村さんを罵倒し、妻の不貞を理由に離婚を切り出した。田村さんには一切の言い訳ができなかったし、それが許される状況でもなかった。


 辛かったのは修羅場の真っ只中にいた時ではなく、離婚が成立して騒動が沈静化した後だと言った。自分の両親からも縁切り宣言をされ、親を頼れなくなってしまった。田村さんと親しかった友人たちも浅慮と愚行を一斉に非難し、次々に離れていった。まさに孤立無援。

 バカなことをしたのは間違いなく自分で、誰のせいにもできない。息子さんを抱いて、何度飛び降り自殺をしようとしたかわからないと言った。


「思いとどまったんですね」

「ええ」


 ほんの少しだけ。田村さんが目尻を下げた。


「息子の寝顔が。どうしようもなくかわいかったんです」

「ははは。なるほどね」

「わたし、バカですよね」

「さあ」


 俺は事実として多くのものを壊し、俺自身も壊れている。まだ修理の真っ最中で、あちこちが欠けたままなんだ。そして、壊したもの壊されたものを全て元に戻すことはできない。とてもじゃないけど、人様のことを偉そうにああだこうだ言える立場にはない。


「うまく行ってる時はうまく行かないことを想像できないし、うまく行かない時はうまく行く方法が思いつかない。そういうことなのかなあと思います」

「主任も、ですか?」

「もちろん。そして別れた妻も、今同じように思っているんじゃないかな」

「そうですか……」


 微妙な雰囲気になっていたところにどやどやと大きな足音がして、三人の女性が飛び込んできた。惣菜の高村さん、パートの木田さん、そして千秋だ。


「ピーク越えたから昼ご飯にするね」

「お疲れ様ですー」


 一声かけて、高村さんの顔をうかがう。機嫌がいいから、千秋は役に立ったんだろう。一安心だな。


「ああ、横井主任」


 高村さんに話しかけられて、おっかなびっくり答える。


「なんですか?」

「千秋ちゃん、できるねえ」

「おっ! そうですか」

「へへ」


 千秋も満更ではないらしい。


「まず基本的な心構えがしっかりできてる。人様に食べさせるものを作るんだから、意識は自分より買ってくれるお客様に向けないとならないの。濃い化粧をしたり匂いものつけたりとかは論外。アクセじゃらじゃら髪だらだらも論外。そこらへんは文句なしに合格」


 高村さんが丸顔をほころばせた。


「手際のいい子は今までもいたけど、千秋ちゃんは全体の段取りをちゃんと見てる。それに、勢い任せで雑にやらない。大したもんだよ」

「良かったな」

「はい」


 ここで「うん」と言わないのが、社会に出た千秋の成長を感じるところだ。学生なら、身内の問いかけに思わず「うん」と返事してしまうだろう。でも、親子だろうが兄弟だろうが職場では同僚ないし上司だ。「うん」と答えてしまうと、公私をきちんと区別していないとみなされてしまう。千秋は、ちゃんと経験から学んでるんだ。

 俺のことではないのになんとなく満足していたら、もう一人のアルバイトの佐藤くんが汗まみれで入ってきた。


「すいません。昼飯にしていいですか?」

「もちろんだよ。一段落ついたんでしょ?」

「はい!」


 高村さんが椅子を引いて佐藤くんの席を作った。さっと席をたった千秋が人数分のお茶を用意しようとしている。こんな風に気が利くところは、俺様気質の美春とは正反対だ。あいつはこてこての男女同権論者だったからな。さて、と。


「私は持ち場に戻ります。佐藤さん、ゆっくり食べていいですよ。納品のチェックは私の方でやるから」


 そう言って俺が立ち上がると、佐藤くんが深々と頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 体育会系なのかな。所作の一つ一つがぴしっと決まっていて、見ていて気持ちがいい。店長が気に入るはずだ。惣菜の三人と佐藤くんとで賑やかな会話が始まったのを尻目に、俺と田村さんはそそくさと持ち場に戻った。


◇ ◇ ◇


 上がりは、アルバイターである千秋の方が早い。いきなりの実戦で、肉体の疲れと気疲れがダブルでのしかかったと思う。今日は、帰ってから俺にアクセスしてくることはないだろう。

 パートさんや若い店員さんが引けたあと、残務整理をしてからスタッフルームに入ったら、店長が伝票の束と格闘していた。


「お疲れ様ですー。手伝いましょうか?」

「助かる。あと少しなんだけど、その少しがなかなか終わんないんだよな」

「ははは。そうですね」


 二馬力になれば、時間は半分で済む。残業というほどの時間もかからずに整理が終わった。


「よし、と。助かった。ありがとう」

「いいえー」

「あ、横井さん」

「はい?」

「娘さんなんだけど、学生の時に何か小売りのバイトをしてたの?」

「コンビニでバイトをしてました。高校生の時からだから、だいぶ長いことやってますね」

「それでかあ。高村さんも感心してたけど、段取りの飲み込みがすごく早い。まさに打てば響く、だ」

「あいつの長所ですね」

「俺らのような商売なら、どこでも引っ張りだこだよ」


 店長が、ふうっと大きく息をついた。


「ああいう子を入れたいんだけどな。そのためには受け皿を先になんとかしないとならん。ジレンマだ」


 思わず口を挟む。


「店長」

「うん?」

「でもね、娘の長所は、同時に短所でもあるんですよ」

「どういう意味?」

「こなせちゃう分、どうしても使われるんです」

「ああ……なるほどな」


 俺も、店長に負けず劣らずのでかい溜息をつく。


「はあっ。それでもいいという受け身な性格なら、きっとこなしていけるんでしょうけど」

「違うの?」

「娘は私や妻以上にストイックですよ。仕事にくっきり生きがいを求めるタイプ」

「ああ……そいつはしんどいな」

「でしょう?」


 がっと腕組みをして、伝票の束をじっと見下ろす。こいつらはただの紙束だ。その下に、千秋を押し込めてしまいたくない。


「コンビニでもこれまで勤めていた店員職でも、雇用者が娘の能力だけを使い潰そうとした。娘は仕事から逃げたんじゃない。理不尽な使われ方に腹を立てたんですよ」

「ふふふ。やるなあ」


 店長が、くっきり口角を上げた。


「俺と話が合いそうだ」

「いやあ、まだ店長ほどの根性はないです。でも」

「うん」

「高村さんの仕事ぶりを見て、いっぱい学んでくれるんじゃないかなと思って」

「そうだな。惣菜の高村さん、鮮魚の黒さん、精肉の本尾もとおさん。親父たちの代から番を張ってる人たちは、仕事に向き合う姿勢が違う」

「ええ」

「ただな……」


 何か言おうとした店長は、そのまま口をつぐんでしまった。


「ああ、遅くなるから今日はこのくらいにしよう」

「はい。お疲れ様でした」

「お疲れ様」


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