第30話 そうして地は固まった

 途中まで道が一緒だからということで、セシルはユーサーと共に街路を歩く。

 秋は過ぎるのが早く、日に日に冬の気配が増していく。黄色や赤に染まっていた街路樹の葉は先日の雨で多くが落ち、そうして路面を隠していた木の葉の絨毯も払われた。その上を、朝から特に冷え込んだ今日の空気に震える人々が歩いていく。


「ユーサーさん。この道に入るほうが、騎士団の本部に近いですよ」


 と、セシルは傍らを行くユーサーを呼び止めた。小路へ寄り、ユーサーを手招きする。


「セシル殿は、城下の道に詳しいのか?」

「家とシエラ劇場の周辺限定なら、まあそれなりに知ってると思いますよ。家に来た頃もリヴィイールに入った頃も、あちこち歩き回りましたから。庶民にはちょっと高めですけど、シエラ劇場の周りは美味しい店が多いですしね」


 案内しながらセシルは笑う。それにつられたように、ユーサーはそうか、と頷いた。


「私は、主要な通りならおおよそわかるのだが、こういう通りと通りの間の道はあまり詳しくなくてな。一隊員から経験を積み上げていれば、そんなこともなかったのだろうが……」

「あ、そういやユーサーさん、副団長になってまだそんなに経ってないんでしたっけ。それでこんな事件に巻き込まれちゃうんですから、ものすごくついてないですよね」


 でもそれより、とセシルは言いかけて、一度言葉を切った。


「……ユーサーさんは、大丈夫ですか。その……」


 セシルはその先も言おうとするのだが、言葉は喉からなかなか飛び出してくれない。目も合わせづらく、視線はあらぬ方向へとさまよう。


 マクシミリアンとその部下たちは現在、ブリギットの王城近辺にある、政治的な理由で捕らえられた者が入る監獄の中にいるのだという。彼がエルデバランの間者であったことは伏せられ、行きすぎた捜査に対する罰として謹慎中ということになっており、処分が決定次第、一身上の都合により退団して帰郷――――と団員には説明される予定らしい。‘幽霊区’の廃墟へ青薔薇騎士団が向かった理由も、やはりマクシミリアンの違法捜査を止めるためということになっているそうだ。セシルたちが証拠隠滅に勤しんでいたように、青薔薇騎士団もまた、体面を保つために四苦八苦しているというわけである。


 だから少しだけ、セシルは不安だったのだ。ユーサーが前回シエラ劇場へ足を運んだのは、マクシミリアンと一緒だったから。ユーサーの良き部下、良き友人だっただろうマクシミリアンは、もうどこにもいない。あるいは最初からいなかったのかもしれない。ユーサーがそのことに傷ついていないはずがないのだ。


 セシルが言葉にできずとも、その様子で言いたいことは伝わったらしい。ユーサーは瞳を揺らした。足を止め、露店の喧騒へと目を向ける。


「…………そうだな。正直言って、まだ完全には心の整理ができたわけではない。どうやら私は、あの男に気を許していたらしい。あの男とは考え方の違いに戸惑うことが少なくなかったし、行動力に振り回されることもあって……特に、華やかな噂には何度も呆れたのだがな」

「……」

「なのに、今もまだ、あの男が私を騙していたとは信じられない。普通は怒りが沸き上がるものなのだろうが、それもない。……あの男にとって、私も騎士団も都合のいい相手であり場所でしかなかったのだと、わかってはいるのだがな」


 情けない話だ、とユーサーは自嘲に顔をゆがめた。


 それは、騎士の棟梁コルブラント家の男というにはあまりにも弱々しい姿だった。シガの家でセシルに見せた、偽りを許し共に抱えてくれる、揺るぎない包容力と優しさはどこにも見当たらない。こころなしか、力ないようにも見える。

 セシルはたまらず、ユーサーの袖口を掴んだ。


「当然ですよ。ユーサーさんはあの人の正体を知らなくて、ずっと信じてたんでしょう? だったら、悲しいだけになったりしても不自然じゃないですよ。あたしだって、母さんがいた傭兵隊の隊長さんがあの黒い宝石を盗んで逃げたとき、怒るのよりも先に、なんでって思いましたもん」

「……」

「あの人がユーサーさんや騎士団のことをどう思ってたのか、あたしにはわかりません。けど少なくてもユーサーさんは、あの人と一緒にいるのは嫌いじゃなかったんでしょう?」

「…………ああ」


 瞳をさまよわせた後、ユーサーは頷く。なら、とセシルと一層力強く言葉を続けた。


「あの人がどう思ってたかなんて、どうでもいいじゃないですか。ユーサーさんは、あの人のことを嫌いじゃなかった。一緒にいるのも悪くはなかった。それだけ覚えてたら、いいと思います」


 マクシミリアンがユーサーのことをどう思っていたのかはわからない。最初から最後まで敵国の人間でしかなかったのかもしれないし、少しは何かしらの情を覚えるようになっていたのかもしれない。どちらにせよ、セシルたちはもう彼の真意を聞くことはできない。


 ならば、楽しかったこと、嬉しかったことを優先的に覚えているほうがきっといい。怒りや苦しみ、憎しみで幸せな記憶を塗り潰しながら生きていくのは、誰にだってしんどいことに違いないのだから。ご都合主義と言われようと、楽しかったことをまず先に覚えているほうがいいに決まっている。――――幼かったからとはいえ惨劇に耐えられず、心を殺すという形でしか己を守れなかったセシルが言えた義理ではないかもしれないけど。


 どうかそんなに悩まないでほしいというセシルの思いが伝わったのかどうか。ユーサーの表情が緩んだ。


「…………ありがとう」


 表情に相応しい、穏やかな声。そこに、はっきりとした微笑が加わる。


「この騒動は私にとって、けして心地よく終えることができるものではなかったが……貴女の言葉に救われた。確かに、マクシミリアンと過ごした時間は、厭うべきものではなかった」

「……!」

「それに、少々型破りではあるが、貴女を守ることができた。それも忘れてはならないな」

「…………ありがとうございます」


 先ほどとは違う意味で、ユーサーの顔を見ていられない。セシルは頬が紅潮するのを自覚せざるをえなかった。

 ユーサーの一番の武器は剣技ではなく、この誠実さと無自覚な女たらしではないだろうかとセシルは思えてならない。シガはからかっているのだとわかるから怒ればいいが、彼の場合は社交辞令ではなく本気だろうから、どうにも対応に困る。たちが悪いとも言える。


 けれど、セシルも今回の騒動を通して、ユーサーと少しだけ親しくなれたことはよかったと思っているのだ。女優業に忙しく、実家の店番も熱心でないセシルがユーサーと出会ったのは本当に偶然で、あのときで縁が切れていてもおかしくない。それが、この騒動のおかげでずるずると引き延ばされ、こうして帰り道を共にしている。なんと不思議なことだろうか。


 シガの正体を知ることができたのも、結果的にはよかったかもしれない。人を傷つけ殺めることを躊躇わない冷酷さを恐ろしく思うけれど、彼が叡洛の間者であろうと、セシルの困った後輩であることには変わりないのだ。彼がセシルを守ろうとしてくれたこともわかっている。それさえ揺るぎないのなら、他のことで深く悩まなくてもいいはずだ。――――多分。


 小路が終わり、通りへ出ると、セシルはユーサーを振り返った。


「ユーサーさん、あたしはそこの道へ行くんですけど……この辺りはわかりますか?」

「ああ。確かに、ここを通ればあそこまで遠回りせずに済むな。……勉強になった」

「どういたしまして。このくらい、お安いご用ですよ」


 そう笑い、じゃあ、とセシルは別れを告げることにした。


「今はちょっと無理だと思いますけど、暇になったらシエラ劇場へ気分転換にでも来てくださいね。もうすぐ新しい演目が始まるんです。小説が原作の冒険もので……あたしとシガは主演なんですよ。あ、これ切符です」

「ああ。……また貴女の舞台を見に行こう」


 セシルが切符を鞄から取り出して渡すと、ほんのわずかに頬を緩め、ユーサーはそう確約してくれる。そこに暗い影はなく、ただ穏やかな感情があるばかりだ。


「セシル殿。その……」

「? なんですか?」


 不意にユーサーが視線をさまよわせたので、セシルは首を傾ける。一体何を言いあぐねているのだろうか。

 しばらくセシルが待っていると、意を決したようにユーサーは口を開いた。


「……公演の後、また、貴女の楽屋へ寄ってもいいだろうか」

「はい、もちろんですよ。公演の後に舞台裏の中へ入るのは大変だと思いますけど、是非寄ってください。お茶くらいは出しますから」


 セシルはほっと息をつき、顔をほころばせた。


「じゃあユーサーさん、また今度」

「ああ。……また会おう」


 そう挨拶を交わし、セシルはユーサーに背を向ける。雑踏の中に紛れ、我が家へ帰る前にと商店街へ足を運ぶ。


 セシルの足取りは、軽かった。

 黒龍とシガが語ったことのすべてを理解し、当たり前のものとして受け入れたわけではない。シガの酷薄な一面は怖いし、国々の上層部の思惑なんて物語を聞いているかのようだし、異界だって御伽噺じみている。自分の力は特別なものなのだとも思えない。変わった舞台を演じているみたいだと感じる思考の一片すらある。


 だが、これは間違いなく現実なのだ。セシル・カロンは何も知らないだけで、こんな世界で生きていたのだ。


 セシルが見つめる世界は、もう今までとは違う。様々な国の思惑や異界がそば近くに息づき、いつその姿が表に飛び出してくるかわからない。不安と不気味な影がいたるところにひそんでいる。

 けれど、少しだけ色を変えた世界で生きていく自信が、今のセシルにはあった。


『セシルはセシルだよ』

『貴女はリヴィイールの女優、この国の民だ』


 セシル・カロンという形を認めてくれた男たちの声が聞こえる。カイルや養父母、近所の住民たち――――八年前からセシルを支えてくれた人たちの姿が脳裏に浮かぶ。


 自分は何者であるのか。それを決めるのは、誰よりもまず自分だ。けれど人間は弱い。セシルは弱い。誰かに認めてもらえて、初めて自分でも認められる。

 大丈夫だ。揺らぎ崩れた足元は代わりのもので固められて、もう崩れない。

 セシル・カロンというリヴィイール劇団の女優の人生を、これからも生きていくのだ。

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