第29話 彼の望みは叶わない

 黒龍と少し話をしたいからと言ってセシルとユーサーを玄関まで見送ったシガが居間へ戻ると、その黒龍はティーカップに顔を突っ込んで、器用に紅茶を飲んでいた。よく見てみると、もう少しで飲み干しそうだ。

 皇帝の象徴として東大陸の多くの国で崇められている神獣とは到底思えない、みっともないことこの上ない様子を見下ろし、シガは呆れ顔で両腕を組んだ。


「……黒龍、何をやってるんだい」

「喉が渇いたから飲んでおるに決まっとるだろう。まだ足りん。小僧、もう一杯用意しろ」

「嫌だね。どうせ明日セシルのところに戻るんだから、異界へ戻らせてもらってから、向こうの水を飲めばいいじゃないか」


 我が儘極まりない異界の獣の要求を、シガは即座に却下した。この我が儘な蛇もどきは、昔からシガを雑用係か何かだと思っている節があるのだ。一々聞いてられない。

 けちくさい奴じゃと文句を言う黒龍を無視し、シガはソファに腰を下ろした。


「で、黒龍。……君が奪ったセシルの記憶の中に、父の生死についてわかるものはなかったのかい?」


 シガは前置きもせず、単刀直入に本題へと入った。


 そう、希代の術者であり、鍵石を世に生み出した黎鵬はシガの唯一の肉親なのだ。国費を使って研究に明け暮れ、その研究成果を国に献上する前に行方をくらました姜黎鵬の一人息子、姜子牙。それが、シガ・キョウと西大陸で呼ばれているシガの素性なのである。


 父の失踪後、隠密の人材として用いられていたシガに父の行方を探し、またラディスタの魔術研究所が手に入れた鍵石を奪還する任務が与えられたのも、その身に流れる血ゆえ。国家機密を持って逃亡したかもしれない男の一人息子であるにもかかわらず庇護し、後ろ盾となってくれていた組織のとある幹部、そして皇帝の厳命に、シガは従うしかなかった。


 鍵石を回収する任務は、達成とは到底言えないがひとまずの区切りがついた。後は父の行方を追うだけ。そしてそれは、セシルの記憶を奪った黒龍から聞くしかない。他者の記憶を奪い、宝玉に封じる力を有する黒龍は、宝玉に封じた記憶を自由に見ることができるのだ。


 黒龍は宝玉に封じたセシルの記憶を垣間見たはずだというシガの推測は正しく、黒龍は隠すことなく頷いた。


「ああ。……あの子の前で殺された。彼女の両親や、他の者たち共々な。そのためにあの子の心は壊れ……世界の狭間に迷いこんで倒れたのだ」

「…………そう」


 重々しく告げられた事実に、シガはそっと瞑目した。


 それは、シガも予想していたことだった。セシルは、血の海に沈む死体のそばで鍵石を拾ったと言っていたのだ。血の海に沈む死体の中に東大陸人のものがあったかなんて聞けなかったが、そうだったとしても不思議ではない。


 だが正直なところ、シガは父の死を知ってもさして悲しくはない。父が失踪したときからずっと、父はもういないものと自分に言い聞かせてきたのだ。西大陸に鍵石があるのなら、何らかの形で死んでいるのだろうと考えてもいた。やっと知ることができた事実を淡々と受け入れるだけだ。


「あの村をほろぼしたのはラディスタの敗残兵だと聞いたけど、父を殺したのも彼らかい?」

「ああ、そうだ。自警団はいたようだが、あの男と田舎の自警団に頼るのでは多勢に無勢、生き延びることはできず、背後の子供を庇うのがせいいっぱいだったようだ。村に入るとき、村人と揉めて怪我をしていたようだしな」

「なるほど。……最期まで運のない人だったわけだ」


 あの人らしい。幼いシガが不注意から怪我をしてしまったとき、大慌てで治癒の術を唱えだした情けない父親の顔を思い出し、シガは小さく笑った。


 良くも悪くも無邪気で優しい人だった。我が子を隠密組織の一員とすることを躊躇い、異界の獣たちを兵器として利用することもよしとせず、異界への侵略をもくろむ上層部からの圧力を受けて苦しんでいた。こんなはずではなかったと苦悩する背中を、シガは何度見たことか。失踪する前日も、シガが手を振り払わなければ父はきっと親子で西大陸へ渡っていただろう。


「黒龍。セシルに、八年前より昔のことをどのくらい話した?」

「大したことは話しておらんよ。せがまれて仕方なく、どうやってわしらが出会ったのか、昔のあの子はどうだったか……そういうことを少しだけじゃ。……両親や他の村の者たちの死を見た仔細はさすがに言えんかったし…………他のことも告げておらん」

「……そうかい」


 もっとも知りたかったことを先に告げられ、シガは観念したとばかり、瞑目した。

 黒龍は目を細めた。


「……お前は、打ち明けるつもりはないのか?」

「ない。言う必要もないだろう? 彼女はセシル・カロンで、エステルじゃない。セシルも、昔の自分のことは知りたがっても、記憶をすべて取り戻したいとは言わなかったんじゃないのかい?」

「……」

「まさか、僕に同情してる?」


 シガが言ってみると、馬鹿なことをと黒龍は鼻で笑って一蹴する。そうだろう。シガは肩をすくめた。


 まだ少年だった頃、シガは父が鍵石の試作品の出来を確かめるのに同行して、異界をしばしば訪れていた。魔力に満ち溢れた空気、虹色に煌めく花が咲く平原、巨人をそのまま石化させたような形の崖、空に浮く島々。絵物語の中にしか存在しないような地形や植物が当たり前に存在し、巨大な異形たちが我が物顔で闊歩する、まさしく異界としか思えない世界のありように受けた衝撃は、今でもよく覚えている。

 だがある日シガは、それに匹敵する衝撃を受けることになった。


『貴方、誰? 貴方も幻獣なの?』


 父に言われるまま訪れた、七色の宝石でできた花弁が風に揺れて舞い散る花畑で、そう不思議そうな顔をして首を傾ける異国の顔立ちの少女に出会ったのだ。


 エステル・ティトルーズ。ラディスタの最東端にあるラダンという村の、漁師の娘。彼女はそう自分の素性を紹介し、無邪気にシガたちの名前と出身を尋ねてきた。その次には、現れた黒龍の背に乗り異界の空を駆けてはしゃぎ、異界に慣れた様子を見せる。巷で見る子供と近所の御隠居のような、性別も年齢も種族も越えた親しみを互いに感じている少女と黒龍の様子に、シガは父と共に唖然とするしかなかった。


 信じがたいことは、それだけではなかった。エステルは生まれながらに異能を持ち、この世と異界の接点に干渉するその力で異界へ足を踏み入れていたのだ。当然のことながら黎鵬は彼女に関心を持ち、その異能を解明して研究に活かそうと躍起になった。それが過ぎて黒龍の怒りを買うと、今度はシガに彼女の相手をさせ、懐かせて研究の助けになってもらおうと画策するのだから、馬鹿げている。また十代の少年にすぎなかったシガも、普段の温厚を忘れた、研究者としての父のいささか非道な考えに呆れたものだった。


 さいわい、エステルはお転婆であっても扱いやすい少女だった。問われるままに東大陸の文化を語るだけで、あっという間に‘シガお兄ちゃん’と呼び懐いてくれたのだ。文字、書物、服飾品、行事、置物。そうした東大陸の事物の現物を教え、さらに見せてやると大層目を輝かせた。代わりに西大陸の文字を教えてほしいと頼めば、家にある数少ない子供向けの書物をこっそり拝借してまで真剣に教えてくれた。もちろんシガとてたまには彼女の無邪気さに苛ついたし、逆に彼女を怒らせてしまうこともあったが、それはささいなこと。シガは父のもくろみどおり、異国の異能の少女を懐かせることに成功していた。


 だから、派遣されたブリギットの街角でセシルと出会ったとき、シガは心底驚いた。鍵石の喪失によってもう二度と会うことはないと思っていた、異国の少女の面影を彼女は宿していたのだから。だというのに、彼女はあの頃と大して外見が変わらないシガを‘シガお兄ちゃん’と認識せず、ただ役者経験がある東大陸人ということにのみ反応し、熱心に舞台の代役を頼んでくるのだ。エステルが‘シガお兄ちゃん’だと気づいてくれていないのか、瓜二つのまったくの別人なのか。シガは大いに戸惑ったものだった。


 リヴィイールでセシルと共に時間を重ねるようになって、シガは痛感した。記憶を失ったエステルだろうとそうでなかろうと、彼女はセシル・カロン以外の何者でもない。鍛冶屋の娘で、リヴィイールの期待の新鋭。まっすぐで情が深く、からかうと面白い十七歳の少女だ。


 シガがわずかでも心を許した幼いエステル・ティトルーズは、八年前に戦争で死んだのだ。ならば、あの頃のことをセシル・カロンに話す必要はない。

 ――――――――たとえ、一度だけエステルに見せた翡翠に、セシルが関心を見せたとしても。


 その理解は黒龍も同じだったようで、わかっている、と身を解いてシガの顔を見上げた。


「だから私は八年前のあの日、振り返るなとあの子にきつく言い渡したのだ。過去も力も振り捨てて生きていけと。そしてあの子は、先日までよく言いつけを守ってくれた。年頃の娘らしくはないが、立派に育ててくれた養父母にも感謝せねばな」


 そう、黒龍はブリギットの閑静な住宅が見える窓へと視線を向ける。そこににじみ出る感慨や哀惜の情を感じ、シガは納得した。


 異能を再び使いこなせるようになり、鍵石を破壊した今、セシルはもはやただの女優ではない。この世界でおそらくは唯一の、異界への生きた扉であり、異界の住人たる黒龍を従わせることができる存在なのだ。西大陸の魔術師や各国上層部のみならず、叡洛の一部の貴族や術者たちもその存在を知れば、目の色を変えて手に入れようとするだろう。シガも黒龍も、それを何よりも恐れていた。


 異界や黒龍の存在をほのめかすもの、それらにセシルが関与していると示すようなものは何もない。だが、本当に大切であるなら、黒龍はセシルのそばにいてはならないのである。黒龍は、誰よりもそれを理解しているはずだ。


「まあ、永遠の別れってわけじゃないしね。セシルが力を使えば、いつでも会えるんだから」

「ああ。だから、お前がろくでもないことをしてきたならすぐ私に言うよう、セシルには伝えておく。小僧、そのときはこの爪牙で成敗してやろう」

「黒龍、俺はセシルにひどいことなんてしないよ。彼女のことは、俺だって気に入ってるんだから。大体、なんで俺だけなんだい。副団長殿はいいのかい」

「あの騎士はお前と違って、清廉で誠実だからの。戦を厭い、セシルの味方をしたし……セシルも信用しているようだしな。不埒な真似はすまいよ」

「……」


 好色男呼ばわりにシガが抗議するが、爪と牙を見せつけ脅してくる黒龍は鼻で笑い飛ばす。八年ぶりの旧交を温めている異界の知己に、なんという言い草だろうか。シガは、目の前の蛇もどきの身体を引き千切りたくなった。――――この大きさでも返り討ちにされるだけだろうから、やらないが。

 シガはこめかみを指で叩き、苛立ちを抑えた。


「……ともかく、セシルのことは任せてよ。鍵石の欠片は部下に本国へ届けさせるけど、この国の監視を在住の間者から引き継ぐよう命じられてるし。俺も、彼女を誰かに利用させるつもりはない。彼女が自由でいられるよう、力を尽くすよ」

「当たり前だ。力及ばなかったときも、覚悟するがいい」


 シガがセシルの身の安全を保証すれば、そんな脅し文句が返ってくる。シガはもう笑う気にもなれず、生温かい目でこの疑似親父を放置するしかなかった。


 シガは色々なものに対して、なんでそうなるんだいと言いたい気持ちでいっぱいだった。皇帝の象徴たる幻獣は親馬鹿と化しているし、お気に入りであるセシルには鍵石を無効化どころか破壊されてしまったし、共犯者にしたくそ真面目な騎士は彼女を気にかけている節がある。セシルの決断は許すとしても、男たちには不愉快しかない。


 大体、ここまで騒動が長引きセシルを危険にさらしてしまったのも、シガの本意ではないのだ。鍵石奪還計画は、エルデバランの間者たちに乱されたもののすぐ修正し、途中までは上手く事は進んでいた。だが現状は、この結果である。想定外にもほどがある。


「…………やっぱり、無理やりにでもさらっとけばよかった」


 できるはずもない未来の楽しさとろくでもない現実を比較し、シガは長いため息しか出なかった。

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