第4話 渋谷塚先生は暴君

 さて、1年2組の担任は、浅黒い肌をした50過ぎの中年男性なのだが、見た目は控えめに言って好感を持てる部分が何一つとして見つけられなかった。

 腹が出ていたし、声はガラガラで歩き方にも品が無く、着ているスーツはいつもヨレヨレだった。


 とは言え入学当初。『高校生』と言う新しい生活に胸を躍らせた僕らは、教室に入ってきたその大人が何を話すのかと、期待の目で見つめていたのだ。

 だが、彼は見た目通り、口を開いても失望しか僕に与えてくれなかった。


「担任の渋谷塚しぶやづかだ。お前ら、高校生になったからっていい加減な気持ちでいるんじゃねぇぞ。俺が担任になったからには許さねぇからな」


 一番最初の挨拶からしてこれである。

 何を許さないと言うのかと、正直、みんな戸惑っていた。

 見た目で人を判断するのが良くないと言う言葉は、彼に関して言えば全く当てはまらない。

 だが、嫌な気分を抱えながらも僕たちは彼が担任であることを受け入れた。

 もちろん、拒否する権利が無いので受け入れざるを得なかった、と言うのが実情であるのだけれども。


 だが、たった数日で僕らのイライラは頂点に達した。

 そのくらい、この渋谷塚とか言う大人は不快な人間だった。

 科目は化学の担当なのだけれど、そもそも授業が滅茶苦茶下手くそだし、何かあるごとに意味もなく怒っていた。

 例えば授業の最中、元素記号の説明している最中に突然激高したりもする。


「話は変わるが、昨晩のテレビよ。俺の娘がファンらしくてキャーキャー言ってる、あの5人組のアイドルグループが、とにかく気に入らん! フマップだかスンゴ君だか知らねぇが、あんなのを支持しているお前らみたいな子供がいるからああ言うのがつけ上がるんだぞ! 分かっているのか!」


 意味が分からない。

 しかもその意味不明の説教が長い。

 度々挟まれるその説教のせいか、授業の内容もさっぱり頭に入って来ない。

 それでも僕たち生徒には、教師を拒否する権利がないのだ。


 そして、ガオちゃんと再会した日の、帰りのホームルームである。

 何か嫌なことでもあったのか、やたらイライラとしていた渋谷塚先生は、教室に入ってくるなり、こう言ったのだ。


「このクラスは読みにくい、変な名前の奴ばっかりだ! おい、伊藤巻いとうまき歌玉うただま! なんだその変な名字は!」


 やはり意味が分から無い。

 自分の名字に関して、僕らに何の責任があると言うのか。

 怒る姿を見せるなら、せめて正当性のある理由を持って欲しい。


「だいたい、二人とも3年の新郷禄しんごうろくと関わり合いがあるらしいが、裏でコソコソ何かしてたら許さねぇからな!」


 新郷禄? と、僕を含めてクラスの大半は、やはり意味が分から無いと言った様子で彼の言葉を聞いていた。

 それが誰の事なのか、ほとんどの人が分から無かったのだ。

 それよりも僕らが注目していたのは、名指しで呼ばれた伊藤巻と歌玉の二人である。

 出席番号順の座席で、並んで右前のほうにいる女子生徒二人組のことだ。

 出席番号1番の石母棚いしもだな――ガオちゃんが一番端で、その後ろが2番の伊藤巻さん。そのまた後ろが3番の歌玉さん。

 伊藤巻は、ギャルっぽい女子で、歌玉は細身で日焼けした肌の、いわゆる体育会系女子だった。

 確かに、制服は着崩しているし、カバンもアクセサリーだとかでオシャレしているしで、どちらかと言うと不良っぽい雰囲気はあるが、特別何かをしたとかいう分けではないのだろう。

 二人はムッとした態度を見せていた。


「なんで、あたしら、何もしてな……」


 言いかけた伊藤巻を睨みつけた渋谷塚は「口答えするな! 大体なんだその恰好は! 化粧なんかしてチャラチャラしやがって!」と叫び、その抗議を遮った。


 一万歩譲って、遮ったまではまだ黙っていられる。

 だが、渋谷塚はつかつかと歩くと、伊藤巻の頭を拳で叩いたのだ。

 ゴツッと言う音は、少し離れた僕の席からでもよく聞こえた。


「ッ……!」

「何もしてないんなら、勉強をしろ! この出来損ないが!」


 ――こいつ!


 この時、ついつい僕が立ち上がって声をあげてしまったのは、別に正義ぶっていたからでもなんでもない。

 女の子を殴った渋谷塚に腹が立ったからだ。

 もし、僕が特別な存在ならば、ここは声を上げなければならないシーンなのだと、そう思ったからでもある。


 さらに言うと……と言うか、実はこっちが本命だったりするけれど、伊藤巻の前に座っていた石母棚――ガオちゃんが、ブチ切れて暴れだしそうな気配を出したからだった。

 きっと、これはガオちゃんを良く知って理解している僕しか気づかない。

 彼女はブチ切れる寸前、肩を笑うように揺する癖があるのだ。

 それに、昔からガオちゃんは理不尽さに接した時、普段でさえあまり働かさない『理性』と言う歯止めが利かなくなる。


 今の彼女が本気で暴れたら、死人が出るかもしれない。

 そう思うと、いても立ってもいられなくなった。

 こうなれば、ガオちゃんがブチ切れる前に僕がブチ切れるしかない。


 しかし、「それは!」と、僕がそこまで言ったところで、僕の声よりもずっと大きな声で、その言葉を遮る人間がいた。


「それは酷いと思います!」

 

 僕の斜め前の席に座っていた、女子生徒。田中々彼方である。

 知り合ったばかりだけれど、田中々がそんな大きな声をあげられるとは思っていなかったし、教室の誰もがそう思っていただろう。

 と言うか、この状況で何かアクションを起こしそうな人間とは思えなかっただけに、その衝撃はすさまじかった。


「……なんだお前は。名前を言え!」


 渋谷塚は目をギョロリとさせながら田中々を見る。


「田中々です。これは体罰ですよ。渋谷塚先生」


 渋谷塚はフンと鼻を鳴らすと、邪悪さを象徴するようなガラガラの声で言った。


「ずいぶん生意気なこと言うじゃねぇか、田中々。……それと斜め後ろの宝田も何か言いかけてたよな。お前も何か言いたいことがあるのか?」


 宝田と言うのは、もちろん僕の名前である。

 名前を憶えられていたのが怖くて、泣きそうになった。

 田中々は覚えられてなかったのに、何で僕だけ?


「何かあるのかって聞いてんだぞ! 答えろ! 宝田ァ!」


 大人の怒鳴り声を聞いて、足が震える。

 そして、未来を想像するのが酷く辛くなっていた。

 表立って教師に反抗してしまったのだから、きっと、それ相応の罰が僕を待っているのだ。


「黙ってんじゃねぇぞ、宝田。お前、俺は担任なんだぞ? 逆えばどうなるか、分かってるんだろうな?」


 その時、丁度チャイムが鳴り、ホームルームの時間が終わった。

 何事かと、帰り支度が済んだ隣のクラスの生徒たちが教室を覗き、渋谷塚はジロリと廊下を睨み、舌打ちした。


「まぁ、良い。今日は終わりだ! 他の奴らは帰って良いぞ! 宝田と田中々はこの後、職員室に来い!」


 渋谷塚は怒りを露わにズカズカと歩いてくると、彼女の腕をつかんだ。

 横暴である。


「ほら! 来い! 宝田もだ!」


 僕らは逃げられず、渋谷塚に連れられて行く。

 教室を出る途中、ガオちゃんが渋谷塚を睨みつけているのが目に入った。

 今にも立ち上がりそうだったが、僕が慌てて両手を出し、「大丈夫。先帰ってて」と小声で合図を出す。


 ガオちゃんはそれを見ると、舌打ちして椅子に深く座りこみ、腕を組んだ。

 彼女が本気でイライラしているのが分かったが、どうやら行動に出さずに済んだようでホッとする。

 だが、僕はその時気づいた。

 ガオちゃんの後ろの席で心配そうな顔をして僕を見ている、伊藤巻と歌玉に。


 もちろん、渋谷塚に連れられて行くところなので足を止めるわけにもいかず、僕は歩いたのだけれど。


 そして。

 ……職員室に着いた後の、は割愛させていただく。

 ただ、説教は、怒号を交え始めたヒートアップぶりと、勢い余って僕をげんこつで殴りつけた理不尽ぶりに、他の先生から強制的にストップがかかった。

 僕と田中々は渋谷塚先生から引き離され、別室に移動させられた。


 僕らを空き教室に僕らを連れてきてくれたのは、外国語学科のクラスである1年6組の担任、田代場たしろば先生と、隣のクラスの担任、1年3組の竹川儀たけかわぎ先生だった。


 田代場先生は50歳手前と言った年齢を感じさせる女性で、やわらかい雰囲気を持った、優しい先生であった。それに対して、竹川儀先生は20代後半の、これまた優しそうな男性教師である。

 しかも、竹川儀先生はハンサムだった。


「まったく、渋谷塚先生には困ったものですね」


 竹川儀先生が僕らにウインクしながらこう言ったのは実に決まっていたし、田代場先生はヤレヤレと言った肩をすくめててのひらを上に向ける、アメリカ人みたいなリアクションをしていた。


 それを見た僕はこの二人が信用できる大人だと思うと同時に、どうして1年2組の担任が渋谷塚でこの二人じゃないのかと、残念に思う。

 でも、仕方ない。

 僕ら生徒には、担任の教師を解任させる権利もなければ、選択する権利もないのだ。


 とにかく、ホッとした僕はやっとまともに呼吸が出来た。

 今まで、渋谷塚の怒鳴り声が怖くかったので縮こまっていた僕は、まともに息も吸えなかったのである。

 そんな僕を見て、竹川儀先生が笑った。


「あの人、職員室でも厄介者だからさ」

「こらこら、竹川儀君。滅多なこと言わないの。……ま、私もそう思うけどね」


 渋谷塚先生は教師間でも人気が無いらしい。

 それが分かった瞬間は楽しくて仕方がなかったが、殴られた頭がキリキリと痛む。

 と、そんな僕を慰めるように、田代場先生は微笑ほほえみを浮かべながら言うのだ。


「ごめんなさいね、二人とも。渋谷塚先生、どうせろくでもない理由で怒り狂ってるんだろうけど、ああいう人だから。何かあったらいつでも私たちが相談に乗るからね」

「ありがとうござます」


 僕と田中々が頭を下げると、竹川儀先生はパンッと手を叩いた。


「ま、何だ。今日は終わりにしましょう。渋谷塚先生には二人が良く反省したってことで話しておきますんで。君たち、気を付けて帰ってね」


 僕と田中々は、解放されて空き教室を出る。

 出たとたん、黙ったままだった田中々が僕の目をじっと見て来た。


「田中々さん? 何か――」


 と、その時、僕らの前に歩いてきた人がいた。

 二人組の女子。

 伊藤巻と歌玉だった。


「宝田君! 田中々さんも。大丈夫だった?」


 伊藤巻が酷く心配そうな顔で言う。

 それに対して、田中々がピースサインで答えた。


「大した事、ないない」


 もちろんそうだろう。

 職員室で頭をげんこつされたのは僕だけだし、説教も僕に対してばかりだった。

 田中々は黙ってうつむいていたいただけである。


「そっか、良かった」


 伊藤巻と歌玉ホッと安心したように笑う。

 で、その後、二人は照れ臭そうに言うのだ。


「田中々さん、ありがとう。宝田君も。その、あたしらなんかのために言ってくれて、嬉しかった。カッコよかったよ。それだけ言いたくて」


 言った後、どうにも恥ずかしかったのか、伊藤巻と歌玉は「またね」と言い残し、走って行ってしまった。


「良かったですね、健太郎君。モテて」


 田中々が無表情で言ったが、悪い気はしない。

 この時、僕はあの二人とも友達になれるかなぁなんて、無邪気なことを考えていた。


 ――その幻想が間もなく、ぶち壊しになるとも知らずに。

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