霧雨

「……空也。あーんして」

「いや、自分で食えるから」

「……あーんが嫌なら、あいーんでもいい」

「かなり違うだろそれっ?」

「……口開けないなら頬に当てる」

「わかったから、おでん芸みたいなことをしようとするな」


 ひと眠りしたら、身体は少し楽になっていた。

 起きた後で霧雨から事情を聞けば、早退した俺が心配で部活は休んだとのこと。アパートのインターホンを押しても反応がなかったため、事務所でチサトさんから合い鍵を貰ってきたらしい。


「……早く」


 手作りの卵粥をスプーンで掬った少女は、ジーっとこちらを見つめてくる。

 何とも照れ臭い。

 少し躊躇った後で、俺は諦めて口を開けた。


「……どう?」

「………………美味い」

「……良かった」


 再びスプーンで粥を掬った霧雨が、息をフーフーと吹きかける。

 艶やかな唇の動きを見ていると、熱とは別の意味で顔が熱くなってきた。


「……あーん」

「…………」


 恥ずかしさなど微塵も感じさせない、いつも通りの霧雨に再び食べさせてもらう。

 逆に俺はと言えば散らかっていた部屋や放置していた流しというこれ以上ない醜態を見られてしまった上、追い討ちをかけるようなこの仕打ちに悶絶しそうなくらいだ。


「その……悪いな」

「……何が?」

「何ていうか……何から何までやってもらって……さ……」


 そんな惨状を見た霧雨は呆れることもなく、それどころか俺が寝ている間に一通り片付けてくれていたらしい。

 更には食事まで作ってもらう始末と、最早至れり尽くせりで頭が上がらない。


「……気にしなくていい。好きでやってるだけ」


 俺の口へお粥を運ぶ少女は、その瞳で何を見ているのか。

 彼女にとって、俺は一体どう映っているのか。

 そんなことを考えているうちに、いつしかお椀の中身は空になっていた。


「ごちそうさまでした」

「……空也、汗掻いてる」

「まあ、食後だしな」

「……拭くから脱いで」

「ちょっ、待てっ! 流石にそれはいいっ!」


 同学年の異性……ましてや幼馴染の少女に裸を見せるのは抵抗がある。

 すると霧雨は少し悩んだ後で、閃いたように手をポンと打ち付けた。


「……じゃあお風呂、沸かしてくる」

「いや大丈夫だから……っておいっ!」


 言うが早いか、少女は部屋から出ていく。

 呆れるように溜息を吐きながらも、二人だけの空間は何だか懐かしかった。


「……ただいま」


 少しして浴槽を洗い終えた霧雨が、湯を張っている間に戻ってくる。

 ブレザーを脱ぎブラウス姿となった幼馴染だが、その白い生地の下では水色のブラがうっすらと透けて見えていた。


「……私も入りたい」

「………………え? な、何がだ?」

「……お風呂」

「あ、ああ……もう身体も楽になったから大丈夫だ。ありがとうな」

「……駄目。ぶり返したら困る」

「薬も飲んだし、何かあったらチサトさんに頼むって」

「……偉い人は言いました。油断大物と」

「油断大敵と油断禁物を混ぜるなよ」


 それだと油断してる人間=大物みたいに聞こえるじゃん……あれ、大体合ってるな。

 今日の部活は休んだとは言え、霧雨だって毎日の疲れが溜まっているだろう。それにも拘わらず心配してくれる少女に、改めてありがたみを感じた。


「……お風呂、借りていい?」

「はい?」


 そんな矢先、突拍子もない質問をされ思わず聞き返す。

 まあ元はと言えば霧雨が沸かした風呂だし、入る分には何の問題もない。本人は納得しないかもしれないが、仮に着替えが必要なら一葉と双葉の服もある。


「べ、別にいいけど、それなら霧雨が先に入ってきてくれ」

「……駄目。家主より先に入るなんて言語道断」

「別に俺の家じゃないっての。それに風邪が移ったら悪いだろ?」

「……馬鹿は風邪引かないから、私は後でいい」


 こういう妙なところで霧雨が譲らないのは、長い付き合いだけあってよく知っている。見た目によらず意外に頑固なんだよなコイツ。

 仕方ないので少女の言葉に甘んじた俺は、ベッドから立ち上がり脱衣所へ。風邪の風呂は良くないと言われているが、実際は特別な場合を除けば問題ないらしい。


「…………」


 シャワーを浴び、ベトついた身体を洗い流してから湯船へ浸かる。そしてゆっくりと息を吸った後で、身体を抱きかかえるように丸めつつ湯の中に潜った。

 感じるのは微かな低音。

 浮力によって支えられる身体。

 そんな不思議な感覚の中で、先程見た夢のことを考える。

 随分と懐かしい思い出だった。

 思えばあの頃から、霧雨には世話になりっぱなしだったのかもしれない。


「ぷはっ……ふー」

「……何してるの?」

「いや、ちょっと考え事……を……っ!?」


 髪から滴る湯を拭いつつ一葉や双葉に聞かれた時と同じノリで答えている途中、二人がいないことを思い出した俺は慌てて首を横に向ける。

 これが曇りガラス越しで声を掛けられていたなら問題ない。

 しかし霧雨はシルエットではなく、しっかりと俺の目の前にいた。


「……………………」


 思考停止。

 裸体にタオル一枚という、あられもない恰好。

 それもバスタオルを巻いているのではなく、フェイスタオルを身体の前にかざしているだけ。少し動けば色々と大切な部分が見えてしまいそうな状態である。


「……………………何ヲシテルンデスカ?」

「……入浴?」

「先に入れって言いましたよね?」

「……言った」

「今、俺が入ってますよね?」

「……入ってる」

「何で入ってきてるんですか?」

「……身体を早く流したかった」

「じゃあ先に入れば良かったじゃないですか」

「……家主より先に入るのは言語道断。だから少し遅らせてから入った」

「…………」

「……? 空也、顔が赤い。風邪ぶり返した?」

「違ぇよっ!」


 小学四年生の一葉や双葉と一緒に入るならともかく、同じような幼児体型とはいっても霧雨は俺と同学年の女子校生。その刺激は比べ物にならない。

 身体つきだって完全なまな板ではなく、タオルの脇から見える胸の辺りには小さな膨らみがあるし、付け根まで見えている細い太腿は目を奪われるくらいに艶めかしい。

 まじまじと眺める訳にいかない。

 そうわかっていながらも、目は釘付けになっている。

 当の本人は何一つ気にしていないらしく、シャワーを浴びるため蛇口へ手を伸ばした。


「!」


 めくれかけるタオル。

 水を吸えばその布切れは透け、はっきりと身体のラインが浮かび上がるだろう。

 流石にそれを見てはいけないと思い、反射的に背を向けた。

 脈拍が速くなる。

 一旦落ち着こうと、深呼吸を繰り返した。


「……どうしたの?」


 シャンプーの泡音を立てながら、霧雨が不思議そうに尋ねる。

 人が必死に興奮を抑えているというのに、本当に呑気というかよくわからない奴だ。


「はあ……お前が何考えてるのかわからないだけだ」

「……太腿太郎の第三話」

「んなこと考えてたのかよっ? そうじゃなくて……その……恥ずかしくないのか?」

「……空也なら別に構わない」

「………………何でだよ?」

「……空也は巨乳好きだから」

「どういう意味だっ?」


 一瞬勘違いした俺のトキメキを返してほしい。

 シャワーで髪を洗い流しながら、霧雨は淡々と答える。


「……この前も、藤木のおっぱい見てた」

「木が少ない。そんな卑怯な真似を俺はしないぞ」

「……藤森?」

「多過ぎだっ! 林だよ林」


 コイツ、絶対わざと間違えてるよな。

 巨乳嫌いな貧乳少女は、リンスを髪になじませながら話を続けた。


「……それに空也はいつも、お風呂は二人と一緒だって聞いた」

「二人って一葉と双葉のことか? そりゃ確かに一緒に入ってはいたけど、あれは不可抗力みたいなもんだし、アイツらは俺と入るのを気にしてなかったからであってだな」

「……それと同じ」

「何でそうなるんだよ? 一葉や双葉は小学生だけど、霧雨は……その……困るだろ」

「……別に困らない」


 要するに霧雨の言い分としては、幼児体型の自分も一葉や双葉と大して変わりないから問題ないだろうということらしい。

 こちらとしては後ろから聞こえるシャワーの音だけで既に理性は崩壊寸前。少女が身体を洗い終えるまで雑念を払い、風呂場から出て行くのを待つばかりだ。


『チャポン』

「…………………………は?」


 そんな考えとは裏腹に、湯の弾ける音がした。

 壁のタイルをあみだくじに見立て気を紛らわせていた俺の隣に人影が迫る。


「……詰めて」

「ちょ――――っ? 霧雨さんっ?」


 制止をよそに、身体をぐいっと押しのけられた。

 狭い湯船の中に小柄な少女が入ると、柔らかい二の腕が触れ合う。


(○×▼■☆※~?)


 脳内大混乱。

 慌てて霧雨に背を向けるように身体を回転させた。

 心臓がヤバイ。

 高鳴りとかいうレベルじゃなく、飛び出て壊れそうなくらい爆音を鳴らしている。


「……狭い」


 なら今すぐ出ていってほしい。

 そうでもしないと、俺の中の狼が暴走してしまいそうだ。


「……空也、何で後ろを向いたの?」

「お前を見ないためだよ!」

「……どうして?」

「見たら色々とマズイからだよっ!」


 まるで赤頭巾のようなやり取りだが、狼役は赤頭巾を食べないために必死である。

 …………いや、待てよ?

 落ち着いてみれば、今なら霧雨の裸体を見ずに脱出可能じゃないか。

 自分の裸を見られるのは癪だが、最早そんなことを言ってはいられない。思い立ったが吉日とばかりに、俺はこの生殺しの湯から脱出しようとした。


「……確保」

「ほわっ?」


 思わず声が裏返る。

 逃げようとした矢先、一体何を思ったのか霧雨が突然俺の胴に腕を巻きつけてきた。


「ちょちょっ、霧雨さんっ? 何してはるんですかっ!?」


 背後から抱き締められていると言っても過言じゃない。

 柔らかい二の腕の感触に包まれているのは勿論、背中にぷにゅっとしたものが当たる。


「……空也、凄くドキドキしてる」

「ああああ当たり前だろ! さっさと放せっ! そして離れろっ!」

「……どうして?」

「どうしてって……ちょ、腕を動かすなっ!」

「……こちょこちょ」

「ストップ! ストーップ! …………OK?」

「……おーけー」


 完全な逆セクハラを受ける中、身体のあちこちを触ってきた霧雨の腕を抑える。プニプニとした女の子特有の柔肌を掌で感じつつも、俺は呼吸を落ち着かせた。


「ふう…………ん?」


 捕まえていた腕を見てふと気付く。

 霧雨の両腕には、擦り傷や小さな痣の痕が残っていた。

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