少年

『チュン……チュチュチュン……チュン……チュチュチュン――――』


 一葉と双葉がチサトさんの元へ預けられて約二週間。昨日でテストも終わったが、二人がいないことで勉強に集中できたかといえばそうでもなかった。

 目覚ましを止めた後で着替え、脱いだ洋服などで脚の踏み場がなくなっている部屋を抜けてキッチンへ。炊飯器の中で冷たくなった御飯をレンジで温めつつ顔を洗う。


「…………」


 例え二人が落ち着いても、部屋がこんな状態では呼ぶに呼べない。片付けなければと頭ではわかっているが、何をするにもやる気が出なかった。

 賞味期限を僅かに過ぎてしまった卵を溶いて掛けるだけの簡素な朝食を済ませ、洗わないまま溜まってしまった食器達の上に皿を積み上げると家を出る。

 六月が近づき暑くなってきたせいか、何だか妙に身体が重い。

 学校に到着し教室へ入ると、俺を見て裏真が挨拶を交わす。


「おはよう。心なしか顔色が良くないね」

「ああ……ちょっと寝不足でな」


 欠伸をしながら応えた後で席へ着くと、そのまま机に突っ伏した。

 霧雨は朝練に行っているらしく、今日も姿は見当たらない。

 普通の部活はテスト二週間前に活動停止期間へ入るが、RAC部は三日前まで練習を続行。幼馴染の少女も毎日しっかり参加して精を出しているようだった。

 対する俺は、ラックに関わることは一切していない。

 テスト期間にバイトも入れておらず、真っ直ぐ家に帰るだけ。

 藤林の奴が付き纏ってくることもなく、本当に静かで退屈な毎日を過ごしていた。


「――――斐、甲斐」

「…………」

「甲斐、聞いているのか?」

「…………え……?」


 黒山が名前を呼ぶ声に、ボーっとしていた意識が戻る。

 黒板にはいくつか問題が書かれており、どうやら解答者の指名をしているようだった。


「あ……すいません……」

「先生。甲斐君、ちょっと体調が悪いみたいです」

「何? そうなのか?」

「え……あ、はい……」


 ボーっとしたまま返事をする。

 助け船を出してくれた裏真の進言に合わせた訳ではなく、本当に身体の調子が悪い。最初は軽くダルさがある程度だったが、徐々に頭が熱くなってきていた。


「体調が悪いなら保健室へ行け。このクラスの保健委員は――――」

「――――熱が――――」

「――――早退――――迎えは――――」


 授業を抜け出した俺は保健室へ向かう。話は頭に入ってこなかったが熱があるため早退することになり、迎えは必要ないと答え教室へ鞄を取りに戻った。


「甲斐君。大丈夫かい?」

「ああ……ありがとうな……」


 俺の様子を見て裏真が心配するが、適当に答えつつ学校を後にする。

 ただ症状は徐々に重くなっているのか、家に帰るまでの道のりが妙に長い。頭を揺さぶられるような錯覚に、視界が歪み歩行がふらついた。


「…………」


 重い身体を引きずりつつ何とかアパートまで戻り、倒れるようにベッドへ寝転ぶ。

 そして目を閉じると、俺の意識はあっという間に闇へと落ちていった。








「――――――」


 暗い世界だった。

 目を瞑っているからか。

 違う…………電気がついていない…………。

 雨戸の閉められた暗いリビングで、ソファの上に少年が座っている。

 その虚ろな瞳は、テレビをボーっと眺めていた。


『それでは宜しくぅーっ! スライパァァァージョォォォォジッ!』


 朝に放送されている子供向けのバラエティ番組。やたらテンションの高い、派手なカラーリングの服を着たコスプレ男がポーズを決めると画面が切り替わる。

 オープニング映像が流れ出すと、華麗に障害物を避ける若々しい男が現れた。

 毎日朝早くから家を出て夜遅くに帰ってくる、少年の父親だ。


「全国のチビッ子軍団っ! 今日のスキルはノーマルレベル1、Iターンだぜっ!」


 普段から聞き慣れている荒々しい口調。

 実演が始まると、少年の父親は様々な技術を駆使して障害物を抜けていく。

 少しするとテレビの下に『ACTION!』というテロップが映し出された。

 障害を抜け、角を曲がった先は行き止まり。

 それを見た少年の父親はスライプギアの左足にのみブレーキを掛け、右足を軸として半円を描くように身体の向きを反対方向へと切り変えた。


『分かったかな? ここでもう一度リプレイだ!』


 Iターンの瞬間がスローで再生される。

 ナレーションによるコツの説明がテロップと共に入るが、少年はそれを知っていた。

 朝起きた時に枕元に置かれていた紙。

 そこには放送時間とチャンネルは勿論、今回のテクニックであるIターンについて手書きのサイン付きで詳細がまとめられていたのだから。


『大事なのは軸足の固定。習得のコツはベーシックレベル8のLターンやレベル9のVターンと同じで、毎日コツコツ踵歩きをしてみよう! 来週のWターンを覚えれば君もターンマスターだ。それでは今日も一日、グッドラック!』


「…………」


 コーナーが終わった後も、少年はボーっとテレビを眺め続ける。

 父親が出ている番組を見ても、以前のように目を輝かせることはなかった。

 その瞳が映し出しているのは、テレビの横にある一枚の写真。

 今は亡き母親の写真を見つめる少年の頬を、溢れた涙が伝っていった。


「…………うあああ……ああああああああああああああ――――」


 驚いた祖母が起きてくる。

 優しく声を掛けられるが、少年が泣き止むことはなかった。


『ピンポーン』


 暫くした後でインターホンのチャイムが鳴り、祖母は玄関へと向かう。

 扉の向こうで交わされている会話は、少年の耳に微かに届いていた。


「ごめんね霧雨ちゃん。空也、今日も無理みたいで……いつもありがとうね」








「………………」


 ゆっくりと瞼を開ける。

 見えるのは天井……夢と現実の境界が曖昧になりそうな薄暗い部屋だった。


「…………?」


 徐々に意識も覚醒していく。

 額に違和感を覚え、頭を横にすると何かが落ちた。

 一体何かと思い手を伸ばすと、感触で濡れタオルだと気付く。

 天井を照らしていた僅かな光は、キッチンから差し込んでいた。


「!」


 ようやく頭が回り始める。

 感じたのは人の気配。

 誰かがキッチンにいるのか?


『カタッ』


 扉の向こうで物音がした。

 状況がわからず混乱する中で、ゆっくりと扉が開かれる。

 姿を見せたのは、よく知る幼馴染だった。


「霧……雨……?」

「……起きた?」


 部屋の明かりが点けられる。

 眩しい。

 照らされた光の中で、俺の視界に霧雨が近づく。


「……空也、泣いてる」

「え……?」


 言われて初めて、自分が泣いていたことに気付いた。

 慌てて目を擦り、涙を拭う。


「あれ……何だこれ…………?」

「……寂しかった?」

「ば、馬鹿野郎。これは違くて……それより何で霧雨がいるんだよ?」

「……お見舞い」

「お見舞いって、鍵は? そもそも部活だって――――」

「……いいから」


 霧雨は手にしていた新たな濡れタオルを俺の額に当てる。

 気持ち良い。

 色々と渦巻いていた頭の中が、冷気によって全て飛んでいった。


「……今は休んで」

「………………………………悪い」


 少女の姿を見て安心したのだろうか。

 まるで魔法でも掛けられたかの如く、気付けば俺は再び眠りへとついていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る