第十九話 震える体。

 夢の中、私は白い世界でたゆたう。天地もなく、自分が上を向いているのか下を見ているのかわからない。不安定で、それでいて心地良くて。


『貴女には、あの部屋での過去を見せてあげる』

 優しく笑う女性の声がしたと思った時、私は夜空の部屋に浮かんでいた。


 部屋の中央では、長く波打つ金髪の女性が透ける布を織っている。布は天窓から差し込む月の光を受けて七色に輝く。


 ――『夫を愛しているのに、あの人も愛している。それは許されないことなのに』

 不思議な布を織っている女性の思念らしきものが心に響く。


 ――『あの人に会ってから自分の心が理解できない。これが運命の愛の力だというのだろうか。それなら、出会いたくはなかった。ただ穏やかに夫と子供たちと幸せになるだけで、私は満足だった』


 ――『夫と寄り添いながら、心は夫とあの人の両方を求めている。それは酷い裏切りだと、わかっていても心が苦しい』

 人は、二人を同時に愛することができるのだろうか。それとも、運命の愛で結ばれるという〝竜の番〟特有の気持ちなのか。


 ――『私の心がどちらかを選ぶ前に、あの人は去ってしまった。これでよかったのだと毎日繰り返しても、いつかまた迎えに来るのではないかと期待してしまう。……この〝時戻りの衣〟を織るのは、若く美しいままで夫に寄り添い、あの人の迎えを待つ為でもある』


 ――『もしかしたらあの人はもう迎えに来ないかもしれない。それでも構わない。この焦がれる想いを糸にして織ってしまえば、この愛を忘れることができるかもしれない。夫への愛をこの心に残し、あの人への想いを紡いで手放したい』


 この女性が織っているのは、焦がれる想い。愛を手放す為に愛を織る。二人を同時に想う苦しさが伝わってきて心が痛い。


 私は何の為に〝時戻りの衣〟を織りたいのだろう。……ロブとの果たせなかった約束を終わらせて、気持ちを整理して……長い間、心の支えだったロブとの思い出を手放したいと思っているのかもしれない。


 女性が布を織りあげ〝時戻りの衣〟を完成させると同時に、私は夢から覚めた。


 起き上がると以前見た夢も思い出した。『月の光は愛で出来ている』と私を導いてくれたあの女性は創世の女神なのではないかと思う。


 昔は人々が深く信仰していた女神も、私の祖国では存在が薄くなっている。今では女神の神殿は、子が生まれた時と婚姻式で訪れるのみ。届を出す役所のような場所として認識されていた。


 女神の声が導くのなら、私は〝時戻りの衣〟を織らなければいけないのかもしれない。不思議な決意が、私の心の中に生まれた。


      ◆


 夕方、館に戻ってきた王子に白い月の扉のことを話し、一緒に夜空の部屋へと向かった。

「隠し扉か。一応確認したんだが」

 王子が白い月を押しても、何も起きない。私が白い月を押すと扉が開いた。


「女性だけが開けられるということかな」

 それなら仕方ないと王子が肩をすくめ、糸巻きに巻かれた糸にそっと触れた。


「これは何だろうな……蜘蛛の糸のように見えるが……王城へ持って行けば、誰か判る者がいるかもしれない……おっと、運ぶのは無理か」

 一つの糸巻きを扉の外に出すと、糸はすべて粉になって消えてしまった。


「困ったな。この館に誰かを招くのは難しい」

 非常に限られた人物にしか教えていないと王子が言う。


「マリーが来たら、残っている糸を見てもらいましょう。何かわかるかもしれません」

 その可能性は小さいと思いながらも、私は王子に提案した。


      ◆


 夕食の後、王子と私は長椅子に腰かけて話をしていた。王子は王城で何をしていたのか、私は館で何をしていたのかを報告し合う。就寝前の花茶を飲み、離れていた時間を埋めるような会話は、毎日の習慣になりつつある。


「そういえば、イヴェットと踊り損ねていたな。私がドレスを贈るから、もう少し体調が良くなったら踊ってくれるか?」

「体調は大丈夫ですが、ドレスは……」

 あの舞踏会の夜を思い出した。ダグラスと踊って、抱き上げられて運ばれて。……一人寂しく取り残された。すっと心が冷えて体が震えると、王子がそっと肩を抱く。


「私としては、まだ心配だな。先にドレスを仕立ててもらおう。何色のドレスが着たい? 好きな色は?」

「色、ですか?」

 何色が好きと問われると、真っ先に思い浮かんだのはロブの青い瞳の色。


「青色が好きです」

「わかった。まずはデザイン画を取り寄せよう。館の管理人への新年の贈物だ。遠慮なく受け取ってくれると嬉しい」

「それは……ありがとうございます」

 選ばせてもらえることがとても嬉しい。これまでのドレスは、仕立て屋が選んだ物ばかりだった。


「あの……私、何をお返ししたらいいのでしょうか」

 助けられて、優しくされて。与えられるばかりで、まだ何も返せていない。布を織って作る物ではつり合わない。


「笑顔が欲しい。……イヴェット、君はここにいても時々笑わなくなる。私がいつも欲しいのは作り笑顔じゃない。本物の君の笑顔だ」

「それだけなのですか?」

 微笑む王子の声は優しい。見上げても、仮面に隠された目は見えなくて物足りない。


「今はそれだけでいい。君が笑うようになったら、次は怒る顔を見せてもらうから」

「怒る顔? どうしてですか? 見ても楽しい物ではないと思います」

 何故だろう。理由が全くわからない。首をかしげると王子が笑う。


「イヴェットが怒っても、きっと可愛いと思う」

 その言葉にどう返せはいいのかわからない。頬に羞恥が集まって熱くなっていく。


「そ、それは迫力がないと言う事でしょうか」

「見たことがないから、どうかな。実は怖かったりするのか?」

 熱くなった私の頬を王子が優しく撫でる。恥ずかしくて、何故か触れられることが嬉しくて、胸がどきどきしてしまう。


「きっと怖いと思います。頑張って怒りますから」

「そうか。楽しみにしてる」

 笑う王子にからかわれているのだと思う。そうは思っても、怒る気持ちにはなれない。


 最後に怒ったのは、ロブに悪戯をされた時。森の中でいきなり姿が消え、一生懸命探す私の後ろから現れて驚かされた。


「……アルテュール……急にいなくなるのはやめて下さい」

 あの時の気持ちを思い出すと、きゅっと胸が痛くなった。


「大丈夫。私はいなくなったりしない。イヴェットが嫌と言わない限り、そばにいると約束する」

「嫌なんて言いません」


「……そうだといいんだが」

 王子の口の中での小さな小さな呟きを耳が拾った。

「え?」


「もし君が望むなら、いつでも館から出れるように支援をする。だから……私に嘘は吐かなくていい」 

「アルテュール、何を恐れているのですか?」

 仮面の下、王子が寂し気な表情をしているとわかる。


「……正直に言えば、私は……イヴェットに嫌と言われないか、いつも恐れている。君に嫌われることが一番怖い」 

「嫌いなんて思っていません」

 それでも、好きとは言えない。王子の愛人になる覚悟はまだ出来ていない。


「……すまない。何もしないから、しばらく抱きしめてもいいだろうか」

「はい」

 王子の胸に頬を寄せ、腕の中で目を閉じる。王子が微かに震えているような気がして、私はその背を温める為に腕を回した。

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