七 群青

「もう、限界だな」

 父のその言葉を聞いた瞬間、頼時は体がびくりと震えた。

「父上……」

「お前にもわかっているだろう、泰時やすとき

 そうして。

 縋るように父を呼んだ頼時を、敢えて、父は新しい名で呼んだ。「泰時」、と。

 その名は父が敢えて変えさせた名であった。

「お前は、私の息子だ」

「父上……」

「お前はもう、『頼時』ではない。私の息子である、『泰時』だ」

 それは、頼時にーいや、泰時に請うようにも聞こえる口調だった。

「お前の気持ちもわかる。不思議なものだな、お前と御所様は、親しくないとは思っていたが、やはり血が「近い」と言うのか?」

「……あの方は、とても繊細な方なのです。本来ならば、鎌倉将軍と言うお立場に、立たれるべきではなかったのかもしれません」

 一見傲慢そうな気質にも見えるが、頼家の本質はそうではない。おそらくは、人並み以上に繊細な精神と、周りの人間を思いやる優しさを持っている。

 それを理解し、受け止めていたのが姉の大姫であり、その彼を勇気付けていたのが、妹の三幡だった。

 今でも、その存在はいる。

 頼家のことを理解し、受け止めているのは泉だ。

 弟の千幡の無邪気さは、彼を勇気付けているだろう。

 でも、それでも。

 失った者達への哀しみと。

 今在る者達の喪失の恐怖は、消えないのかもしれなかった。

「たとえそうだったとしても、今の鎌倉の現状を見過ごすことはできぬ」

 だが、父はにべもなくそう言った。父の言うことも、もっともなことではあった。

 建仁三年(一二〇三年)三月。

 頼家が将軍となって、はや四年が経とうとしていたが、建仁元年(一二〇一年)に後鳥羽上皇から蹴鞠の師匠を送ってもらったのを境に、頼家はますます蹴鞠にのめり込んで行った。

 後の時代に書かれることになる、鎌倉幕府の正式記録「吾妻鏡あづまかがみ」にも、頼家の記録はこれ以後蹴鞠のことばかりになる。

 蹴鞠に狂った頼家は、二年もその状態だ。 

 政治も返りみることもせず、「貴族」の遊びである蹴鞠に凝る将軍。

 そんな将軍に、御家人達が心を寄せるはずがない。

 もう既に、彼らの心は次の「将軍」に行っている。

 そうして、複数いる「将軍の子」。

 まずは、将軍の弟である千幡。

 そして、比企氏の娘を母とする、長男・一幡。

 母は源氏の一族で重臣の三浦氏を乳母に持つ次男・善哉。

 昌寛法橋の娘にも三男・四男がいる。

 それぞれが、それぞれの疑惑で、もう動き始めているのだ。

 今の鎌倉は、頼朝が生きていた頃だった一枚岩ではなく、誰もが己の一族の命運と野望を抱いて動いている。

 そして、それを常に鎌倉を狙う「京」が気付かぬはずがない。

「父上は……どうして、私を自分の子として育てようと思われたのですか?」

 ふいに。

 泰時は、そんなことを口にしていた。

 何故、今この瞬間に聞きたくなったのか。

 もしかしたら、これ以上、鎌倉のことを考えたくなかったのかもしれない。

 だが、父は苦笑した表情になった。

「お前の母は、私達の従姉妹だった。親父殿の妹の子でな。早くに二親を亡くしたから、私達と一緒に育った。一見大人しいから、優しい性格だと思われがちだったが、なんのなんの、負けん気が強くてなあ。はっきり言って、あれは二人目の姉上だった」

 自分を指す言葉が「私」から「俺」に変わった父は、確かに少年の目をしていた。

「その従姉妹だった伯母上を裏切って、お情けをもらって私を身篭りあげくの果てに、父上に私を押し付けた女ですよね? 我が母ながら褒められたものではないと思いますが」

「まあ、傍目から見れば、そういうことにも見えんこともないだろうが」

 父は苦笑をして、そう言った。

「理子と私と一つ違いだったからな。あちらが上とは言え、いつも一緒にいたら、理子のドジをあれやこれやと手助けするのは俺の役目でな、いやあもう、色々あった」

「なら、話さなくて良いです」

「話さぬよ。あの時の理子は私のものだ」

 呆れて言った泰時の言葉に、父はそう返した。

 その声音は、揺るぎのないものだった。

「理子は御所のお情けをもらって、自分も政子姉上のようになれる、と思ったのだ。だが、結局『思っただけ』になった。御所には、理子の他にも情けを受ける女性はいたからな」

 頼朝には、何人もの「側室」と言われる女性達がいた。

 結局、自分を生んだ母も、その中の一人にしかすぎなかったのだ。

「理子がそのことをわかったのは、お前を身ごもった頃だったのかもしれないな」

「だから、私を父上の子にして欲しい、と望んだと?」

「そんな単純なものではないよ。ただ、俺と理子は、望んで夫婦になった。傍からどう見えたかは知らぬが、互いを思い合っていたと、俺は信じている」

 そう言い切る父に泰時は何も言えなかった。

「お前にもいるのか? そのような相手が」

 そんな泰時に、問いかけるように父が聞いてくる。

 その瞬間、脳裏に浮かんだのは、『共に木曽に戻ってくださるならば』と

言った少女の笑顔だった。

 それは、有り得ないことだった。

 泰時にとって、生きる場所はこの鎌倉だった。

 あの少女はそれをわかって、あのようなことを言ったのだ。

 そして、泉にとってこの鎌倉は生きる場所ではないはずなのに、敢えてここにいるのは、頼家のためだった。

 あの少女にとって、「自分の生きる場所」も棄てて共にいることを選ばせる「何か」が、頼家にはあったのだ。

 自分は、この鎌倉を棄てることはできない。

 父を、裏切ることもできない。

 でも、あの二人のためにできることが、あるのであれば。

 それを知りたいと、泰時は思った。

          ★★★

「お加減が、悪いのですか?」

 食事にほとんど手を付けないで、下げてくれ、と言った頼家に泉はそう声をかけた。

「ちょっと疲れが溜まっているようだ」

 そう言いながらも、頼家は器に酒を注いだ。

「ダメですよ」

 それを見て、泉は慌てて酒が入った容器を頼家から取り上げた。

「お食事をほとんど召し上がっていないのに、お酒を飲むと、身体に毒です」

「少しぐらい、良いだろう?」

 それでもあきらめずに、頼家が拗ねたように言うと、泉の目がすっと細められた。

「もう、やめり止めなさい!」

 そうして、次の瞬間。泉はドスの効いた声で言った。

 そのあまりのドスの強さに、頼家は固まってしまう。

「い、泉……?」

「お酒は、楽しむために飲む物です。確かに少量であれば薬にもなります。ですが、体調の悪い時に無理して飲む物ではありません」

 背中に冷たい炎を背負った泉は、じっと頼家を見つめた。

 その迫力に、頼家は押される。

「お薬湯を用意しますから、今日はそれを飲んで、ゆっくり休まれてください」

 泉はそう言って、酒の入った器を持って立ち上がり、ぱたぱたと小走りで部屋を出た。

 台所に行くと、泉は手早く薬湯を準備して、また、頼家がいる客間へと戻った。

 ちせや作蔵はもう下がらせてある。

 深夜の暗い離れの縁を、しかし迷わずに泉は小走りで移動した。

「お待たせしました」

 泉がそう言いながら部屋の中に入ると、頼家は横になっていた。それを見て、泉は自分が着ていたうちかけを脱いで、頼家の身体にそっとかける。

 最近の頼家は、いつもこんな感じだった。

 疲れているのか、この離れに来ても、食事もせずに眠ってしまう。

 あまり、体調が良くないかもしれなかった。

 そんなことを思いながら泉が頼家を見ていると、

「泉。お前は、寒くないのか?」

 身体を横にしたまま、目をぱっちりと開けて、頼家が言った。

 確かに今は四月も半ば、春も盛りを過ぎようとしているが、夜は肌寒い日も多かった。

 けれど、泉は首を振って、大丈夫です、と頼家に答えた。

「起きていらっしゃったのですか?」

「ちょっと横になっていただけだ」

「なら、お薬湯をお飲みください」

 泉は床に置いた器を持ち上げ頼家に言った。

「それは苦いぞ」

「良薬は口に苦し、です」

 渋い顔をした頼家に、泉は厳しい口調言う。

「やれやれ。お前は、そういうところは変わらないな」

 降参したように言って、頼家は起き上がる。

「姉上にも、そう言って怒っていた」

「同じようなことを、言われるからですよ」

 それでも厳しい表情は崩さずに、泉は頼家に器を差し出した。

「さっきも、小走りで走っていただろう?暗いのに、よく走れるな」

「目が慣れれば、大丈夫です」

 誤魔化そうとしているのか、そんなことを言う頼家に、さらに薬湯の入った器を押し付ける。

 頼家はそんな泉に苦笑すると、器を受け取り、薬湯を飲み干した。

「苦いぞ、これ」

 泉に器を返して、渋い顔で頼家は言った。

「お酒を飲みすぎなければ、お薬を飲む必要もなくなりますよ」

 泉は器を受け取りながら、厳しく言う。

「お前ぐらいだな、そんなことを言うのは」

「そんなこと、ありませんよ」

 泉の言葉に、頼家は軽く笑った。

「なあ、泉。もし俺が将軍でなくなったらどうする?」

「何ですか? それ」

 そしていきなりそんなことを聞いてくる頼家に、泉はとまどった。

「仕えるのを止めるか?」

「将軍でなくても、頼家様は頼家様ですよ」

 だから。

 泉は、何を当たり前のことを聞いてくるのだろう、と思いながらそう答えた。

 泉にとって。

 それは、当たり前のことだった。

 頼家は、泉にとっては、将軍である前に大姫の弟で、三幡と千幡の兄だった。

「……お前は、本当に変わらないな」

 けれど頼家は泉の言葉に笑う。

「俺に何かをねだることもないしな。何か、俺に頼みたいことはないのか?」

「お酒を飲まないようにしてください」

「それは、『小言』だ」

 泉としては、それが一番の願い事なのだが、頼家的には違うらしい。

「他に何かないのか?」

 小言以外に、と言外に含めつつの頼家の言葉に、泉はどうしたもんだろう、と考えた。

 そうして、一つだけ思い付く。

「そうですね……いつか、頼家様を私が育った里に案内あないしたいです」

 泉の言葉に、頼家は目を見張った。

「この鎌倉も良い所ですが、私が育った木曽の里も良い所なのです」

 そう言いながら、泉は頼家に、自分が育った里も見てもらいたい、と改めて思った。

 それは難しいことだ。

 将軍である頼家が、たかが下位の御家人が治める里になど、行けるはずもない。

 もし行くとなると、お忍びがせいぜいだろう。それも今の鎌倉ではできない。

「そうだな……行ってみたいものだな、お前が育った場所に」

 頼家も、それはわかっているのだろう。

 だが、泉の言葉に、こくんと頷いた。

「もし……俺が生まれ変わって姉上と出会ったとしても、きっと姉上は義高殿を選ばれるのであろうな」

 そうして。

 ふいに、頼家はそう言った。

「何ですか、いきなり」

「そうしたら、泉は俺を慰めてくれるか?」

「振られていらっしゃったら、考えます」

 でも、泉はそんな頼家の言葉に、真面目に考えて答えた。

「そこは、『はい』じゃないのか!?」

「身代わりはごめんですから」

「泉、優しくないぞ!」

「それよりも、もうお休みください」

 泉は、冷静にそう言った。

「次の世のことよりも、今の世です」

「泉らしいな」

 その言葉を聞いて、頼家は小さく笑った。

「そうだな。泉、お前の膝を貸せ」

 それから、泉の膝にごろんと頭を載せる。

「褥なら、隣の部屋に敷いております」

「固いこと言うな」

 頼家は気持ち良さそうに泉の膝に頭を載せると、そのまま目を閉じた。

 その寝顔はとても幸せそうで。

 泉は、何も言えなくなってしまった。

 やれやれと思いながら、自分のうちかけを頼家の身体にかけ直す。

 やがて、泉も頼家の寝顔を見ながら、眠りへと落ちて行った。

 ―これが、頼家が離れで過ごした、最後の夜の出来事だった。

          ★

 人間五十年、外天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。

 最近、巷で持てはやされている「平家物語」なるものの一文に、そんなものがある。

「人の世の五十年の歳月は、下天の一日にしかあたらない。それぐらい、人の命は儚い」 

 そして、その文を読んだり聞いたりした者達は、そんな風に語り合うらしい。

 だがそれを耳にした時、自分は馬鹿馬鹿しい、と思った。

 あれは、お涙頂戴を欲する者達が作り上げた嘘八百の物語だ。

 それなのに、それがあたかも事実のように、世に津々浦々と広まっている。

 勝手なものだと思った。自分達が挙兵した頼朝に従って平氏と戦をしていた時、誰もが喝采を上げていた。

 だが平氏を倒し、「鎌倉」という武士の都を作り上げた今、気が付くと周りは敵だらけだった。

 誰もが、自分達を倒そうと狙っている。「京」はもちろんのこと、この「鎌倉」ですら、虎視眈々と自分達が取って代わろうと思う者達ばかりだ。

 少しの隙が、命取りになる。

 そこまで考えて、ため息が出た。

 自分とて、こんな立場になるとは考えもしなかったのだ。

 人の世の五十年は、天の一日にも過ぎない。

 その五十年とは、人の寿命にも値する。

 自分は、その五十近くになるまで、このまま地方の一役人の武士として終わって行くだろうと思っていた。

 それなのに、一番上の娘が事もあろうに流刑人の武士と恋に落ちて。

 夫婦となってしまった。

 正直、この時点で自分の人生は詰んだ、と思った。

 身分が低くても、順当に自分の役目をこなして行き、平氏の武将達にも覚えがめでたかった。

 後は長男に後を継がせて、自分はのんびりと隠居するだけだ、と思っていたのにと、本気で絶望していた。

 でも、長男は違った。

 娘の結婚を結局許す羽目になったのも、この長男のせいだった。

『あの方は、我々一族にとって、重要な方になるはずです。我々の運命も、きっと上がって行きますよ』

 何を馬鹿なことを、とその時は思った。

 けれど、結局はその言葉通りになったのだ。

 長男の言葉に発奮したわけではないが、長女が流浪人と夫婦になったこと、自分の決めた嫁ぎ先を抜け出したことは、嫌でも遠からず平家の耳に入る。

 ならば、一族を守る立場にいる者として、自分は覚悟を決めなければならなかった。

 一族の名誉と未来を守るために何ができるのか、と。

 長女は勘当扱いにしたが、それで言い訳できることはないとわかっていた。

 逡巡と熟慮をいくつ繰り返したかわからない。

 そうして、出した結論は。

 流刑人の武士にー源頼朝に、全てをかける、というものだった。

 結論から言えば、それは大当たりだった。

 娘婿になった頼朝は、全ての武士の棟梁として、征夷大将軍となり、この鎌倉に幕府を開いた。

 自分が率いる北条一族は、将軍家と繋がり、そうして続いて行くことになったのだ。

 でも、代償は大きかった。

 長男の宗時は、平氏との戦で亡くなった。

 頼朝の可能性を誰よりも早く見抜き、新しい時代を夢見ていた息子だった。

 だがそれは、自分だけではない。

 どの武将の家でも、誰かしら、犠牲になっている。

 戦とは、そういうものなのだ。

 なのに、自分の血を引くはずの将軍は、そのことを全然わかろうとしなかった。

 誰もかれもが信用できないと言うのに。娘達の婿として迎えた者達も、信用できない。

 信用できるのは、もはや「血」で繋がった者達のみだ。

 そのことが、どうしてあの孫にはわからないのか。どうして、自分を一番に信用しないのか。一番孫のことを思っているのは、自分なのに。

 自分なりに、孫に対しては心を砕いてきたつもりだった。けれど、その自分の気持ちを嘲笑うかのように、孫は反抗的な態度を取ってくる。母の政子を通して訴えても、なしのつぶてだった。ならば、もう自分は「鬼」になるしかない。孫が自分の「敵」になるのであれば。孫であろうと、排除するしかない。

 だから。

 自分はせめてもの情けとして、孫を自分の手で葬ることにしたのだ。

 我が血を引く孫だ。

 自分が祖父としてできる、最後の情けだ。

 そうして今、自分は孫の命を絶とうとして、ここにいる。

 孫は、眠っている。

 春の初めの頃から体調を崩していた孫は、夏になっても回復しなかった。

 小康状態は保っていたようだが、回復までにはいたっていない。

 そのことを自分に教えたのは、もう一人の孫だった。

 この孫は、自分のためによく動いてくれた。

 顔立ちは将軍である孫ともよく似ているのに、全く違う。

 どうしてこの孫が将軍ではないのか、正直そう思ってしまった。

 そうすれば、自分はこれからするように、孫の命をこの手で奪うことはなかったのだ。

 けれど、それも余計な感傷だった。

 せめて、良き夢を。

 そして、あの世で亡き父や兄弟達と共にいられるように、と。

 そう思いながら、刃をかざした時だった。

 ふいに。

 目の前に、真っ直ぐな黒髪が広がった。

 そう。

 自分には、それは最初「髪」に見えた。

 だが、それは「髪」などではなかった。

 それは、自分の身体から溢れ出す、血の色だった。

          ★★★

 泉に頼家が倒れた、と言う知らせが入ったのは夏も盛りを過ぎようとしている時だった。

「それは……まことですか?」

 目の前に座る由衣に、泉はそう問いかけた。

「本当はね、頼家三月に一度倒れているの」

 驚く泉に、言いにくそうに由衣が言った。

 その言葉に、泉は目を見張る。

 確かに、三月に頼家がこの離れに訪れる回数は少なかった。

 だが、倒れたという話は、泉のもとには入って来なかったのだ。

「それに関しては、私も謝らなければならないわ。身重だったとは言え、私の手落ちよ」

「そんなことはありません!」

 由衣の重々しい口調に、泉は首を振った。

「由衣様は、私によくしてくださっていました。この離れにいる私が、世間様程度のことを知ることができたのは、由衣様や作蔵、ちせのおかげです」

 だが由衣は厳しい表情をしたままだった。

「最近、じい様が里の者達を使いたがらないの。何て言うか……へたに動きたくないって感じがしてね。弟もどうやら里に引き取って、後継ぎとして仕込むことにしたらしいわ」

「それは、まことですか!?」

 泉の後ろに控えたちせが、声を上げた。

「仮にも、先のご将軍様の血を引くご子息ですよ!? 妾腹の子になるとは言え……」

「―だから、よ。あの子を、武士にするわけにはいかないの。巻き込まれてしまうから」

 何に、とは由衣は言わなかった。

「多分、じい様が里の者達を使いたがらないのは、それと同じ理由なんだと思うわ」

 由衣の言葉には、最近の鎌倉の現状がありありと反映していた。

 五月に、この鎌倉では大きな政争が一つ起きている。

 頼朝の異母弟だった全成ぜんせいが謀反ありとされ、謀反人として捕縛し所に押し込められたのだ。

 全成は常陸国に配流され、六月には、頼家の命で殺害されている。

 それは、はっきり言って、全成を「誅殺」することが目的だった。

 全成は、源氏の血を引いている。

 源義経と同母の兄弟だが、頼朝に従い、千幡の乳母である政子の妹を妻としていた。

 次に将軍の座に近いのは、全成であるとー誰が危機感を持ったのか。

「結局、梶原様の時と同じということです」

ちせがそう呟き、由衣が唇を噛み締めた。

だけど、泉には次の言葉が衝撃的だった。

「多分……頼家は、もう長くないわ」

 重い表情で、由衣は言った。

「由衣……様?」

「最近、頼家はここに来る?」

「いえ。忙しいから来れぬとおっしゃって、千幡さまが代わりによくいらっしゃいます」

 四月以降。

 頼家は、離れに訪れることがなかった。

 その代わり、千幡がよく訪れるようになっていた。

『兄上に、泉が寂しがらないように訪れてくれって頼まれたんです』

 そう言って、千幡は笑いながら泉に言った。

 年が明ければ、十二歳になる千幡は、最近は随分と少年らしくなってきていた。

 千幡は、この離れに来ると必ず歌を作った。

 そうして泉にそれを見せてくれて、泉も頼家が作った歌を、千幡に見せたりした。

 そうすることで、泉は頼家が訪れない寂しさを、紛らわすことができたのだ。

 泉も、全成のことは聞いていた。

 だから、頼家はその対応で忙しいのだと思っていた。

 でもそれだけではなかったのだ。

「腑の蔵が、少しずつ腐っていく病よ」

 由衣の言葉は、泉が認めたくない現実を突きつけてきた。

「それは……まことですか?」

 声が、震えるのがわかった。

「確かとは言えないけれど……泰時が知らせてくれた症状から、里の医術に長けたものがそう教えてくれたわ」

その瞬間。

 泉は、何かに打たれたような衝撃を感じた。

 頼家が、死ぬ。

 確かに、頼家は命を狙われている存在だった。

 そして、頼家もそれで命を落とすのも、覚悟していた。

 けれど。

 今、由衣が告げた事実は。

 避けようのない、「事実」だった。

 刺客が襲って来るのであれば、泉は「力」を使って阻止することもできる。

 泉は、そのつもりでこの離れにいるのだ。

 でも「病」は。

 泉の「力」では、どうしようもない。

「泉」

 気遣わしげに名を呼ばれ、泉は我に返った。

「……由衣様」

「これからどうする? 泉」

 由衣は、真っ直ぐに泉を見て言った。

「お前がこのままこの離れにいても、意味はないわ。頼家の看病にも、行けないでしょうしね。ヘタにここにいたら、お前の父親にもいらぬ災禍を招きかねないわよ?」

「由衣様、それは」

「ここから脱出するならば、手はずは整えておくわよ」

 泉は、由衣の言葉に首を振った。

「お父には……父には、いざという時は、私のことは『実の娘ではない』と言って、切捨てて欲しいと頼んであります」

 それは、頼家と共に由比ガ浜に行った時の帰りに、父の館により、その時に父に話した。

 景時のことがあって、泉は父にも同じようなことが起こりえるかもしれないと考えたのだ。

「私は、海野一族の者ではありませぬ。今は亡き、甲田那智が私の実の父です。海野の父は、幼き私を哀れんで育ててくれたのです」

由衣は大きく目を見開いて、泉を見つめた。

「お前は……それで良いの?」

「私が鎌倉に来たのは、尼御台様(政子のこと)に、大姫様に仕えるように頼まれてのことでしたが、私にとって、よくわからない場所でした。父は……海野の父は、鎌倉を『命をかけて守る武士の都だ』と言っていましたけど、正直よくわかっていませんでした」

 でも。大姫に仕えて、頼家や三幡、千幡、そして由衣やちせ、政子や阿古夜達と出会って。

 鎌倉は父の言葉通り、泉にとってもう一つの故郷になった。

 そして、泉が命をかけて守りたいと思う、頼家が生きる場所なのだ。

「でも、ここはもうお前が知る鎌倉ではなくなるわ。政争が起こり、血が流れ、誰も信じられなくなる場所になる」

「由衣様……」

「それでも、お前はここにいるの?」

「はい」と、由衣の言葉に、泉はこくんと頷いた。そこに、迷いはなかった。

「頼家の命が、短くても?」

 けれど。その言葉を聞いたとたん、泉は自分のお腹が、ヒヤリと冷えるのを感じた。

「由衣様……!」

 咎めるようにちせが由衣に声をかけるが、由衣は真っ直ぐに泉を見つめてきた。

 その眼差しを受け止めて、泉は気付いた。

 由衣とて、こんなことは言いたくないのだ。

 けど。

 泉のために、敢えてつらい事実を付き付けているのだ。

 泉が、正しい選択ができるようにと。

 ならば、自分もきちんと答えを出さないといけないのだろう。

 自分が、どうしたいのかを。

 一時の感情に流されずに。

 一番大切な物を見失わないように。

 泉は、握り締めていた両手を広げて見つめた。

 何ができるかなんて、わからない。

 ただ、泉は、決めていたことがあった。

 それは、自分の「力」で、頼家の命を守ること。

 そのことは、頼家の命がもう長くなくても、関係ないはずだった。

「―私は、ここにいます」

 本当は、信じたくなかった。

 頼家がいなくなってしまうなど。

 けれど、自分の「思い」は、そしてやれることは、変わらない。

「それで……いいのね?」

 ふっと眼差しを緩めて、由衣は言った。

「私は、何もできないかもしれません。けれど、許される限りはここにいたいです」

「……わかったわ。その言葉、阿古夜殿にも伝えるわ」

 阿古夜、と由衣が言ったことに泉は目を丸くした。

 由衣がその名を口にするとは、思ってもいなかったのだ。

「皆が、お前を心配しているのよ」

 そんな泉に微笑みながら、由衣は言った。

「もちろん、私もね。だから、馬鹿な真似はしないでよ。くれぐれも、約束よ」

 その言葉が、胸に刺さった。

 泉にとって、それは考えもしなかったことだった。

 阿古夜とは、頼家の側室としてこの離れに入ってからは、全く会っていなかった。

 そしてそれは、尼となってしまった政子も一緒だった。

 けれど。

 彼らも、泉のことを気にかけてくれたのだ。泉が気付かないところで、ずっと見守ってくれていたのだ。

 政子にとっても、頼家の病状は心痛の一途だろうに、由衣を通して何とか泉の力になろうとしてくれている。

「はい。お約束します」

 だから。

 泉は、由衣の言葉に頷いた。

 今は何をやって良いのか、どうすれば良いのか、何一つわからない。

 ただ、それでも。

 自分を案じてくれる人達を哀しませるようなことはすまいと、泉は思った。

 そうして、ずっとそれから考えている。

 どうすれば良いのか、と。

 泉の一番の望みは、頼家が生きていることだった。

 それさえ叶えられるならば、後はどんなことでも耐えられる。

 けれど、その一番の願いは、叶えられない。

 それならば、どうすれば良いのか。

 この離れにいて、いつもと変らない日々を過ごしながらも、泉はそのことを考え続けた。

 そうこうしている間にも、由衣からは頼家の病状が伝えられる。

 その知らせは、決して明るいものではなかった。

 頼家の意識は戻らず、体調も一進一退を繰り返していると言う。

 そんな日々の中、千幡が離れにやってきた。

 それはいつものことだったので、泉は部屋に千幡を通して、白湯の用意をちせに頼んだ。

 でも、千幡の様子がいつもと違うことに、泉は気付いた。

「今日は、泉に知らせることがあって来た」

そうして、床に座るなりそう言った。

「まあ、何ですか?」

 向かい合うようにして下座に座った泉を見つめる千幡の瞳は、もう幼い子どものものではなかった。

「泉は……兄上のことは聞いている?」

「……はい、聞いております」

 千幡の言葉に、泉は重い表情で頷いた。

「兄上は……重い病らしい」

 もう、千幡のところまで頼家のことは届いているのだ。

 もうそれは、隠しようのない事実として、皆が知っていることになってしまったのだろう。

「でも将軍のお勤めがあったら、ゆっくり休むこともできない。だから、それを私が引き受けることにした」

 自分を指す言葉が「私」になった千幡は、そう言って泉を見た。

「兄上は、私を恨まれるかもしれないが、私は兄上には元気になって頂きたいんだ」

 その「顔」は、覚悟を決めたものだった。

 千幡は、死に行く頼家のために何ができるのか、必死に考えたのだ。

 それは、頼家の狙い通りでもあるのだ。

 頼家は、千幡が政争に巻き込まれて殺されてしまうことを、何よりも恐れていた。

 千幡が将軍になるということは、彼の命は強固な楯で守られるということになる。

 だがそれは同時に次の将軍の座を巡って政争が起こるという、予兆でもあった。

「大丈夫ですよ」

 でも泉は余計なことは言わずに、そのことだけを千幡に言った。

「頼家様は、千幡様を恨んだりはしません。千幡様が頼家様のために将軍になることを、ちゃんとわかっていらっしゃいます」

「そうかなあ……?」

 けれど、千幡は自信なさげにそう呟く。

「まあもし、頼家様が千幡様をお恨みするような事態になったら、私が怒りますから」

「泉が? 怒るの?」

「はい、怒ります」

 それは、泉の本心からの言葉だった。

 有り得ないことだったが、頼家が千幡を恨むようになると言うならば、それは怒鳴りつけるつもりだった。

 一方、怒った時の泉の怖さを誰よりも知っている千幡は、顔面蒼白になった。

「た、たくさんは……怒らないでくれる? 泉……」

「怒りますよ、当たり前じゃないですか」

「えーと、ほどほどでいいから……」

「いえ、めちゃくちゃに怒ります」

「め、めちゃくちゃの半分でいいから」

「いいえ。力いっぱい怒ります」

「兄上を、殺さない程度にして……」

「何馬鹿な会話をしているんです」

 白湯を持ってきたちせに、あきれたように言われるまで、そんな会話をしていた。

 けれど。

 それはひとときの安らぎでしかない。

 千幡の身は、万全とは言わずとも、ひとまず守られることとなった。

 だが、その一方で。

 そのことを望んだ頼家の命は、きっともう誰も気にしていない。

 もう死に逝く者として見ていることは、まちがいなかった。

 そしてそれは、頼家も承知の上なのだ。

 そうなることを見通した上で、千幡を守る網を織り上げた。

 自分の存在と、自分の命をかけて。ただ唯一、残された弟を守るために。

 だから。

 その頼家を守る、と泉は決めた。

 千幡が頼家のために、将軍になることを決めたように。

 泉も、残り少ない時間しかない頼家を、命をかけて守ることにした。

 そのために「力」を使うことに、何のためらいもなかった。

―何故ここにいるの? 泉。

 ふいに。

 声をかけられた。

―三幡様……?

 泉は、そう呟く。

 何故か、目の前に三幡が立っていた。

―ここは現とあの世との境目。生き人のお前がいて良い場所ではないわ。

 その隣には、大姫もいた。

―私は、頼家様を守らなくてはいけません。

―……だからと言って、生き人が身体を離れるのは良くないわ。泉一人の身体ではないの。

 三幡の言葉に、泉は目を見張った。

―気付いていなかったの? 母御が無茶をしていては、子に負担がかかるわ。三幡の言う通り、子を守れるのは泉だけなのよ。

 泉は一瞬、自分のお腹を手で押さえた。

―現に戻りなさい。そして、体を厭いなさい。

 大姫は、淡々と、けれど泉を諭すように言う。

 でも、泉は静かに首を振った。

―頼家様を守るのが、先です。

―……それが頼家の望みでも?

―大姫様……。

―あの子は、自分の寿命を悟っているの。それゆえの「願い」よ。

―頼家様は、まだ生きておられます!たとえもう生きているお時間が短くても、今は、生きていらっしゃるんです!

 泉の瞳は、真っ直ぐに大姫を捉える。

―それが、泉の願い?

 そんな泉に、大姫はそう問い返してきた。

―たとえ短くても……頼家様には、生きていて欲しいんです。

―どんなふうに生きて欲しい?

 そうして。さらにそう問いかけて来る。

―頼家様ご自身のために生きて欲しいです。

 泉の答えに、大姫と三幡は小さく微笑んだ。

          ★★★

 その瞬間。

 泰時は、自分の目が信じられなかった。

 この場所にはいないはずの泉が現れ、頼家を切り殺そうとした祖父が、血だらけになり倒れたのだ。

 何が起こったのか、と思った。

 泰時は眠っている頼家の傍にいた。

 頼家が将軍を辞めさせられると決まってから、ずっと頼家の部屋で過ごしていたのだ。正確には、頼家の身を警護していた。

 頼家が将軍を退位させられることは、止められない。

 けれど、彼の命を守ることはできる。

 だから、そうすることにした。

 千幡が次の将軍に決まったとはいえ、それは内々でのことだった。

 そう……これから起こる騒動を考えれば。

 頼家を亡き者にしようと思うものは、自分の身内も含めて、必ずいるはずだった。

 そうして。

 その泰時の「読み」は、当たっていた。

 何者かが、殺気を出してこの部屋に入って来た。

 その「何者」かが誰であるのか、考えたくはなかった。けれど。

 それを思考に移す前に、事態は変わった。

 離れにいるはずの泉が現れ、祖父ー北条時政が、血を流しながら床に倒れたのだ。

「泉殿……」

 呆然となって、泰時は泉の名を呼んだ。

 祖父の血なのだろうか。

 頬に血を付けた泉は、床に座り込みながらも、泰時を真っ直ぐに見つめて来る。 

 「どうしてここに……あなたはずっと寝込んでいると、お聞きしていましたが……」

 何故か次に出て来た言葉は、そんなものだった。

 この状況で言うには、あまりにもにつかわしくない、

 まるで、小御所で泉に会った時にかける言葉のようだ、と泰時は思った。

 だが、事態は異常だった。

 泉は、ここ数日寝込んでいる、とちせからは聞いていたのだ。

「頼家様のふりを、してくださっていたのですね」

 だけど。

 泉は、泰時の言葉には答えず、そう言った。

「……泉殿」

 それは、泉の言うとおりだった。

 ここ数日、泰時は頼家の警護をしていた。

 昼間は、看病のために侍女や頼家に付き従う家臣達がこの部屋に出入りする。 

 だが、夜はそうはいかなかった。

 確かに、警護の者はいる。

 夜に待機する御家人達もいる。

 でも、彼らは「賊」に対しては有効でも、「身内」に対しては、意味がなかった。

  そう……今の頼家にとって、一番の敵は「身内」なのだ。

 それなのに、警護の者も、待機している御家人達も、「見舞いだから」と言えば、何も言えなくなる。

 まして、それが幕府の権力者であるのであれば、尚更だ。

 誰にも、止めることはできない。

 だから、泰時は真夜中に御所にある頼家の部屋に潜んで、頼家の身代わりとなって彼の寝所で横になっていた。

 けれど、横になっているふりだけだった。

 頼家はあまり動かしたくなかったが、几帳台の奥に隠れるようにして、眠ってもらっていた。

 否……頼家は、意識がないまま寝込んでいた。

 もう頼家は、長くない。

 そのことを、頼家自身も知っていた。

 だから、残された時間を使って、自分の唯一残された千幡を守る「網」を織り上げた。

 そうして、自分の「死」が、その網を完成させるのだと、知っている。

 そもそも、そうなるように頼家は動いていた。

 御家人達が望まぬ将軍を演じ、有力な御家人達の娘を側室に迎え、子を産ませた。

 人の心は離れ、各々の立場から将来の「将軍」を、担ぎ出そうとする。

 今は、その混乱の中だ。

 その中で、「北条」の網に千幡は守られるはずだと、頼家は確信していた。

 単純に考えれば、当たり前のことだった。

 千幡の母は、北条の姫・政子だ。北条一族が将軍家に一番近い。

 その一族に守られた千幡の身は、一番安全になる。千幡が成長し、自分の生き方を決めることができるようになるまでは、その「網」の中で守られるようにと、頼家は策を巡らせていたのだ。

 けれど。頼家自身のことは、何も考えていなかった。

 命をかけて、弟を守ることしか考えていなかった。

 まるで、自分のことは、どうでも良い、とでも言うように。

 祖父が自分を手にかけようとしても、きっと彼は「これで自分の願いは叶う」と思って、笑って受け入れそうだった。

 冗談ではない、と泰時は思った。

 頼家自身はそれで良いかもしれない。

 だが、彼に関わった者として、それだけは納得はできなかった。

 たとえ残り少ない命だったとしても、彼を亡くしたら、嘆く者達だっているのだ。

 それを知らないまま、逝くのは許せなかった。

「これは、あなたの仕業ですか?」

 そうして、今。

 泰時の目の前にいる泉は、きっと同じ思いで、ここにいる。

 それはわかっていた。

 だが、その泉がやったことは、自分の理解を超えていた。

「はい、そうです」

 一方の泉は、あっさりとそう認める。

「泉殿……」

 その静かな微笑みに、泰時は嫌な予感を覚えた。

 その微笑は、自分の命の時間を知って、千幡のためにその残りの時間を使おうと決めた頼家と同じだったのだ。

 でも、それには泉は何も言わなかった。

 ただ、静かに微笑んでいるだけだった。

「待て……泉……」

 と、その時だった。

 部屋の隅に置いていた几帳の影から、頼家の声が聞こえた。

「頼家様!」

 そして、そこから、頼家が這い出してくる。

「千幡は…千幡は、どうなる……?」

 必死の形相で、頼家はそう言った。

 それを見て、泰時は何とも言えない気持ちになる。

 自分は、頼家の残り少ない命をせめて守りたいと思って、彼の寝所に潜んでいた。

 けれど、彼の頭には、あいかわらず千幡のことしかないのだ。

 それは、わかってはいたことだけど、苦いものが一瞬、胸を過ぎった。

 でも。

 泉は、ふわっと笑って、頼家の下へと行く。

「大丈夫です、頼家様。千幡様は、もう大丈夫です」

「泉……」

「あなたが命をかけて、千幡様を守るために策を巡らしました。あの方の命は、大丈夫です。だから……これから先の事は、千幡様御自身にお任せしましょう」

 そうして、泉は優しく囁いた。

「あなたの心は、いりません。でも、あなたの「おもい」を、私にください」

「やっぱり……来世でも、俺にはお前が一番良さそうだな」

 その泉の言葉を聞いて、頼家は笑った。

「今の世を生き抜く方が先です」

 でも。

 その頼家に対する泉の返事は、やはり泉らしかった。

「行かれる……のですか」

 そんな泉達に、泰時は問いかける。

 どこに、とは聞かなかった。

 だが、彼らはここから去って行くのだ。

 この、鎌倉から。

 これも、わかってはいた。

 頼家が残り少ない時間を安らかに過ごすにはもうこの鎌倉では無理なのだ。

 でも、理不尽だと思った。自分を残して、自分が思う人達はこの鎌倉を去ろうとしている。

「すまない……泰時……」

 けれど。

 そんな自分に、頼家がそう言った。

「お前が、俺のために色々してくれたのに……でも、どんなにお前達が俺のことを思ってくれている、ということはわかっていても……俺には、千幡しか選べなかった」

 ―もし、この方が将軍家などに生まれなかったならば。

 兄弟姉妹を愛しく思われて、この鎌倉のために、勇猛な武勲を立てる武将となられただろう。

 そして、歌を愛する弟君と共に、家を守り立てて行かれたに違いない。

「次の世に生まれ変わることができたら……その時は、ましな人間になって来る……」

 頼家の言葉に、泰時は何も言えなかった。

「先の世より、今の世です」

 けれど、それを聞いた泉は、きっばりと言い切った。

 こんな時でも、泉は泉だった。

「あなたも共に来ますか?」

 次に、泉は泰時にそう問いかけてきた。

 だが、泰時はそれに首を振った。

 それは、考える間もなかった。

 自分にとって生きるべき場所はここだ。

 この鎌倉だ。

 自分を「息子だ」と言ってくれた父を裏切ることはできない。

「きっとこの子があなたを救ってくれます」

 そんな泰時に、泉はお腹に手を当てて、微笑みながら言った。

「あなたは……残酷な方だ」

 自分を置いて、ここを去って行くくせに。

 残酷な……そして、微かな希望を自分に与えようとする。

 責める言葉を口にする泰時に、それでも泉は微笑んだままだった。

「おのれ……わしを、わしを、こんな目に合わせおって!」

 と、その時だった。

 倒れていた祖父が這い上がり、そのまま、ずりずりと泉では泉の方に這って逝こうとする。

「じじ様!」

 泰時が止めようとした時、祖父の前に、ふわりと二つの人影が現れた。

 視界がぶれようとする瞬間。泰時は、祖父の前に立つ人影を見たような気がした。

「大姫様……三幡様……」

 でもそれもすぐに見えなくなって。

 泰時は、意識を失った。

―ありがとう、泰時殿。

 暗闇の中で、泉の声が小さく響いた。

          ★★★

 空を見上げると、それは群青色だった。

 どこまでも広がっている青に、泰時は目を細める。

 元久げんきゅう元年(一二〇四年)七月。

 伊豆に幽閉されていた先の征夷大将軍・源頼家の死を知らせが、この鎌倉に届いた。

「何を見ているのです? 泰時」

 縁側から、伯母の政子が声をかけてくる。

「空を、見ておりました」

「空を?」

「はい。とても、綺麗です」

 空を見上げたまま、泰時は頷いた。

「父上も、今頃はあそこにいるのかしらね」

 泰時の言葉に、伯母はー尼となった北条政子は、空を見つめながら言った。

「伯母上……」

「ごめんなさいね、泰時。でも、私はどうしてもそれを願ってしまうのよ」

 泰時は何も言えなかった。

「頼家と出会って、ケンカをしていないと良いのだけど」

「大丈夫ですよ、泉殿が止めます」

 けれど、次の言葉には、そう言葉を返すことができた。

「まあ、泉が?」

「ええ。泉殿は最強でしたから。そして、じじ様は、大姫様と三幡様が説教しています」

「じゃあ、頼家を説教しているのは泉ね」

 その姿を想像したのか、伯母は小さく笑った。

 あれから。頼家と泉の姿は、この鎌倉から消えていた。

 そうして、その代わりにとでも言うように、祖父ー北条時政が、自分のことを、頼家だと言い出したのだ。

 祖父は、泉が付けた傷の治療を受けて、意識を回復した時、もう自分を頼家だと思っていた。

 自分のことはー北条時政と言う名で、将軍の祖父で、源頼朝を支えた義父だということを、きれいに全て忘れ去っていた。

 何度説明しても、祖父は自分が「源頼家だ」と言って聞かなかった。

 幸いなことに、泉が祖父に付けた傷は深かった。

 だから、その傷が癒えるまではと、祖父は御所の頼家の部屋で静養させることにしたのだ。

 いなくなった頼家の身代わり、という意味もあった。

 でも。やはり、人の目は―特に、「権力」を望む者達の目は、鋭かった。

 も頼家の嫡男を擁する比企氏は、一番に言い出したのだ。

『頼家様は、どこにいる?』と。

 そう。「将軍」は、もうこの鎌倉のどこにもいなかった。

 この時、密かに都に向かわせた使者は、まだ戻っていなかった。

 この事態になる前から密かに進められていた計画ではあったが、祖父が狂ったのは、計算違いも良いところだった。

 ……時を、稼ぐしかなかった。鎌倉を、そして一族を守るためには。

 父の出した結論に、泰時は従った。

 それが、後に「比企の乱」と言われる、北条氏が比企氏に起こした「誅殺」だった。

 今までも、似たようなことはしてきた。

 でも、それは「将軍」や他の御家人達の名を借りたものだった。

 だが、父は「北条」の名を、全面に出してそれを行った。

 どんな思いでいるのかは、冷静な表情をした父からは、窺い知れることはできなかった。

 ただ、その表情に、泰時は並々ならぬ覚悟を感じた。

 そして、その「比企の乱」から数日後、自分を「頼家」だと信じている祖父の意識が戻った。

 比企氏の滅亡を知り、祖父は激怒した。


自分の妻を、そして子を殺したと、大きな声で看病をしていた伯母を罵った。あげく、自分を「将軍」として、北条氏を撃つように、「命令」を出そうとまでしたのだ。躊躇っている暇はなかった。

 父と伯母は、「頼家」と自分を信じている祖父を、伊豆の修禅寺しゅぜんじに送るしかなかった。

 でも、それで終わりではなかった。

 父や伯母達は、祖父の回復を祈っていた。

 けれど、祖父は変わらなかった。

 自分を「頼家」と信じて、気に入りの家臣達を送ってくれ、と伯母に手紙を送ったり、頼家の配下だった者達を、密かに伊豆に呼び寄せようとしたりしていた。

 だから。

 父と伯母は、決断を下すしかなかった。

 千幡が実朝さねともと名を変えて新しい鎌倉将軍となって、日も浅いこの時に、争いの火種を放置して置くわけにはいかなかった。

 それが、前鎌倉将軍・頼家の暗殺―。

 父と伯母は、祖父を「誅殺」したのだ。

 それが、苦渋の決断であったことは、伺い知ることはできた。

 泰時は、父を「誅殺」しようとは思わないし、したいとも思わない。

 それは、父もそして伯母も同じだっただろう。

 けれど、鎌倉を守るために、そして一族を守るために、そんな決断を父は出したのだ。

 そんな父を気遣う一方で、しかし泰時は、祖父の自業自得なのかもしれない、とも思っていた。

 結局。

 祖父が一番欲していたのは、「権力」だった。

 この鎌倉を守ることでもなく、一族を守ることでもなく。

 あのまま、祖父が権力の座にいたのならば、父や伯母達も「誅殺」されていたのかもしれないのだ。

 祖父が、自分を頼家だと思い込んだのは、泉の持つ「力」のせいなのかもしれない。

 でも、それ以上に。

 祖父は、きっと「頼家」の立場を欲していたのだ。

 「鎌倉将軍」という名の立場を。

 実の孫を、手にかけてまで。

 祖父は、自分が孫にしようとしたことを自分がされて死んで行ったのだ。

 だから。

 伯母が言うように、祖父が頼家や泉と同じ場所にいる、とは思えなかった。

 けれどそこに泉や大姫や三幡も一緒にいて、ケンカをしようとしている二人を説教していると想像したら、何だかそれも悪くないように思えた。

「お待たせして、申し訳ありません」

 と、その時だった。

 軒先から、低い男の声が聞こえた。

「小太郎。久しぶりですね」

「お久しぶりです、御台様」

 そう言って姿を現したのは、泉の養父である、海野小太郎だった。

 だが、泉は自分のことを名乗る時は、「海野小太郎の娘」と何時も言っていた。

 頼家の側室になった時でさえ、それは変わらなかった。

 武士の旅装姿のままの小太郎は、腕に何かを抱いていた。

 縁側に近付いてくる小太郎を見て、伯母は微笑んだ。

「その子が、泉の子ですか」

 縁側に座り込んだ伯母に、小太郎も見やすいようにと、腕に抱いた赤ん坊を掲げる。

「泉によく似ていますね」

「泉は、頼家様似だと申しておりました」

 その言葉に、伯母は微かに顔を曇らせた。

 頼家も、泉も。

 もう、この世にはいない。

 あれから三月も経たない内に、頼家は逝ったのだ。

 泉との子は、顔を見ることはできなかった。

 そうして、泉も。小太郎が抱く幼子を生んでしばらくした後、産後の肥立ちが悪く、逝ってしまった。

「この子の名は、何と申しますか?」

鞠子まりこと、泉は呼んでおりました」

「鞠子、ですか……」

 小太郎の言葉を聞いて、伯母はまじまじと赤子を見つめた。

 泉が生んだのは、男の子だった。

 それを、伯母と泰時は、内密にちせを通して知らされていた。

 だが今、小太郎の告げた名は、「姫」の名だった。

「それが……泉の望みなのですね」

 赤子の顔を見つめながら、伯母は言った。

 男の子であるこの赤ん坊を、「姫」として、育てること。

 それが、泉の遺した「意志」だった。

 最後の最後まで、彼女は「権力」に関わることを望まなかった。

「はい」と、伯母の言葉に、小太郎も頷く。

「本当に良いのですか? 私に託して」

「はい。それも、泉の望みでしたから」

 そうして、今。

「小太郎……」

 伯母は、赤子から小太郎に視線を向けた。

「私は結局、お前と鈴から、夫や主君だけではなく、娘まで奪ってしまいました」

「御台所様、それは違います」

 だが、小太郎は首を振った。

「鎌倉に来る前のあの子は、家の手伝いを良くして、弟達の面倒も良く見る子でした。でも、あの子は、あまり自分の望むことは口にしませんでした。私達は、本当のことをあの子が鎌倉に行くまで話しませんでしたが何か、感じるものはあったのでしょう」

 小太郎の言葉を聞きながら、もしかしたら、泉が持っていた「もの」が関係するのかもしれない、と泰時は思った。

 でも、それは口にしなかった。

 何故、頼家の姿がこの鎌倉から忽然と消えたのか。

 泉がどうやって、病床の頼家と木曽へと戻ったのか。

 そもそも、どうやって泉は、百戦錬磨の祖父をあそこまで傷つけることができたのか。

 思うことは、山ほどあった。

 だが、それは、伯母も自分も口にしなかった。

 父ですら、それを口にすることはなかった。

 口にしたところで、鎌倉のー北条氏の利になるわけではないからだ。

「けれど、この鎌倉に来て、あの子は変わりました。自分の望みを、はっきり言えるようになったのです。泉は、きっと頼家様や大姫様、三幡様や千幡様、由衣様にお仕えして、自分の望みを口にできるようになったのでしょう。あれは、まだこの鎌倉にいた時に、私に言いました。いざとなれば、自分の素性を世間にばらして、海野の一族とは無関係だと切捨てて欲しい、と」

 その時のことを思いだしたのか、一瞬、小太郎の目は遠くなった。

「泉がそのようなことを……」

「はい。泉は、この鎌倉をー頼家様を、とても大切に思っておりました。とても……愛おしく思っておったのでしょう」

 伯母は、目を閉じた。

「木曽では、泉達は、穏やかでしたか?」

 そうして、声を震わせながら聞いた。

「人目を避けておりましたから、あまり豊かではありませんでしたが……それでも、穏やかに過ごしておりました」

 二人がこの鎌倉御所の館とは比べ物にもならない古ぼけた小屋で、それでも穏やかに微笑んでいる姿が、見えるような気がした。

「お幸せだったのですね」

「ええ……泉も、そう申しておりました」

 小太郎の言葉に、伯母は涙を一筋流した

「泉の願い、しかと受け取りました」

 そして、赤子を受け取りながら、言った。

小太郎は、そんな政子に頭を下げる。

「それから、泰時殿にお願いがあるのです」

 小太郎は、泰時の方に向き直って言った。

「何でしょうか?」

「あの子の二つ名を、どうか付けてやってください。それが、泉の願いでした」

『この子があなたを救ってくれます』

 あの日最後に見た、泉の笑顔を思い出す。

 本当に、彼女は残酷な女だった。

 自分に、小さな救いを与えて。

 彼女自身は、さっさと頼家と同じ場所へと逝ってしまった。

「泰時、お前も抱いてあげなさい」

 伯母がそう言いながら泰時を促す。

 伯母の腕にいる小さな赤子は、泰時を見ると無邪気に笑った。

 その笑顔が泉と重なる。

 何時かまた、会えるだろうか。

 彼らに。

 この幼子を残して、逝ってしまった彼らに。

 泰時が抱くと、赤子は無邪気な声を上げて、空へと手を伸ばす。

 その先にあるのは、群青色の空だった。

―また、お会いしましょう。

 そんな声が、風に乗って聞こえてきたような気がした。

 それは、まるで風が囁くように、泰時には聞こえた。




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風の囁きが聞こえる~御家人田舎娘は鎌倉幕府次期将軍と共犯の恋に落ちる~ kaku @KAYA

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