六 暗黒色

「そこのあなた」

 庭の手入れをしていた時、ふいに泉はそう声をかけられた。

「はい、何でしょう」

 泉は振り返り、立ち上がった。

「私は迷いました。案内してください」

 泉のすぐ傍に立っていたのは、まだ幼さが残る少女だった。

 だがかなり口調は横柄だ。

「どちらに行かれたいのですか?」

 名門御家人の子どもなのだろうか、と泉は思いながらそう尋ねた。

「わかりませんが、将軍様がいらっしゃる場所です」

「頼家様の?」

 それならば御所の方に行きたいのだろうか、と泉が思った時だった。

「将軍様をお名前でお呼びするのですか!?」

 少女が、泉を糾弾するかのように言った。

「あなたごとき身分の者が……」

 そうして、少女が語気を強めた時だった。

「泉様、申し訳ありませんっ!」

 少女より少し年嵩の侍女が、あわてて近寄ってきた。

「姉上!?」

「申し訳ありません! この者は私の妹ですが、御所のことは何一つ知らず、無礼を致しました!!」

 必死に謝る姉の姿を見て、少女は呆気に取られていた。

「姉上、何で……」

「お前はお黙りなさいっ」

 言いすがって来る妹を怒鳴りつけて、侍女が頭を下げる。

「迷っていらっしゃったので良かったです」

 泉が笑いながらそう言うと、

「本当に申し訳ありませんでした」

 侍女はもう一度頭を下げて、まだ何か言いたげな妹の手を掴んで歩き出した。

「ちょっ、ちょっと待ってよ、姉上!」

 そうして、泉のいた離れが見えなくなった頃。

 妹は姉の手を振りほどいた。

「何でそんなに怒っているのよ、あの人は下女じゃないの?」

「違うわよ!」

 侍女はふーとため息を吐いた。

「あの方はね、確かに私達の侍女仲間だったけれど。将軍頼家様のご側室なのよ!」

 侍女の言葉に妹は素っ頓狂な表情になった。

「だって、あの人庭仕事していたわよ!?」

 彼女達にとって、庭仕事をするのは下男達の役目だった。

「そういう方なのよ」

 やれやれと言った感じで、侍女は言った。

「普通なら、侍女をお傍に置いておかれるんだけど、あの方が置かれているのは、下女と下男、それも一人ずつだけ。なまじご自身が何でもできる方だから、あの離れ一つをまるごと任されても、切り盛りできるのよね」

「えっ、それって……」

「そうよ。将軍様の他のご側室は、皆この小御所には住まわれていないわ。あの方が唯一、小御所に住まうことを許されたご側室よ」

「あの方が!?」

 妹は驚いたような表情で、侍女を見た。

 確かに、驚くだろう。

 顔を土で汚していても、気にせずに庭仕事をしているような者が、将軍の側室だとは、とても思えない。

 だが、泉のあの側室らしくない態度が、逆に頼家には愛されているのだろう、と侍女達は皆話していた。

 権力とか、栄華とか、そう言ったものには縁遠い泉の素朴さが、おそらくは救いにもなっているのではないか、と。

 そうして、それは。

 当たっていたのである。

          ★

「どなたでしたか?」

 ちせが汲んで来てくれた水で顔を洗っていると、そう尋ねられた。

あおい様の妹君だったわ」

 泉が顔を洗いながら答えると、

「泉様、侍女の方々を『様』付けすることは止められませ」

 と、ちせが言った。

 その表情は見えなかったが、おそらく渋い顔をしているのだろう。

「共に働いていた方々を侍女に使いたくないのは、わかりますけど。せめて『殿』と呼んで差し上げないと、あちらの方々にも気を使わせてしまいますよ」

「ちせ殿は手厳しいな」

 そんなちせに、泉と共に庭仕事をしていた作蔵が声をかける。

「我らしかおらぬのだから、そこまで目くじらを立てることはあるまいに」

「そういうわけにはいきません。このようなことは、日頃からの心がけが必要です。私は由衣様から泉様のことをくれぐれも頼む、と命じられております。ならば、多少厳しいことも言わねばならぬ、と心得ております」

 そんな作蔵に対しても、ちせはきっばりと言い切った。

「だが、そんな泉様の気質が将軍様には好まれているのは事実だろう?」

「それはそれ、です」

 作蔵はそれでもあがこうとするが、ちせは一刀両断する。

 これには、作蔵もぐうの音が出なかったらしい。

「作蔵、良いのです」

 ちせから渡された手拭で顔を拭きながら、泉は言った。

「ちせ殿は、由衣様から命じられて私に仕えてくれているのですから、ある意味、それが役目でもあるのですよ」

「私に『殿』は不要です、と何度も申し上げておりますよ?」

 しかし、そこにも厳しい指摘が入る。

「……ごめんなさい」

 泉が小さく、ちせに謝った時だった。

 くすくすくすと、軽い笑い声が聞こえた。

「あいかわらずだなあ」

 振り返ると、庭にすっかり少年らしくなった千幡が立っていた。

「まあ、千幡様」

 泉は、慌てて頭を下げた。

「また抜け出されて来たのですか?」

 ちせは、将軍の弟という立場でもある千幡にも、容赦がない。

「ちせ」

 慌てて泉が咎めるが、千幡は笑い出した。

「良いよ、泉。実際そうなんだし。でも、庭仕事を手伝いたいんだ。いいかな?」

「それはもちろん」

 千幡の言葉に、泉は頷いた。

 ちせはやれやれと言った表情になったが、千幡が庭仕事をするのに必要な道具を準備するために、裏手へと回って行く。

 それを作蔵が追って行った。

「ちせは、口は悪いところはあるけれど、とても優しい」

 ちせが何も言わなくても離れの裏手に回って行くのを見て、千幡は笑った。

―この場所は、姉上と三幡と千幡と、そしてお前とで過ごした場所だ。できるだけ、あの時のままの状態で遺しておきたいんだ。千幡のためにも。

 その笑顔を見て、泉は頼家の言葉を思い出した。

 泉が頼家の側室になる前に言った言葉が、その通りになったのだ。

「兄上はお元気?」

 そうして、千幡は必ず泉にこうやって頼家のことを聞く。

「ええ」

 その言葉に、泉は頷いた。

「兄上って、よく来る?」

「そうですね。毎日……ではないですけど」

「やっぱり夜が多い?」

 その質問に泉は一瞬どう答えようかと思ったが、

「なかなか兄上に会えないんだよな」

と、千幡は寂しそうに呟いた。

「頼家様も、千幡様のことばかり私に聞かれますよ」

 だから。

 泉は、微笑みながらそう言った。

 実際、頼家がこの離れを訪ねて来て、まず一番に泉に聞くのは、千幡のことだった。

『最近の千幡はどうしている?』

 それは、本当に心の底から弟を案じている口調だった。

「本当に?」

 泉の言葉に、千幡はバッと顔を輝かせた。

「じゃあ、何故にお会いしてくださらないんだろう」

 でもすぐにその表情は沈んだものになった。

「お忙しいからですよ」

 どう声をかけて良いかと泉が考えていると、庭仕事の道具を抱えて戻って来たちせが、地面にそれらを下ろしながら言った。

「ご自分のことばかり考えてないで、お相手のことも考えないといけませんよ。将軍様の弟君であられるのであれば、兄君を助けるために何ができるか、を考えるべきです」

「これ、ちせ!」

 あまりにも口出しが過ぎると思い、泉はさすがに咎めるようにちせを呼んだ。

「良いよ、泉。そんなことを言ってくれるのは、今じゃ、ちせぐらいだ」

 でも、千幡は笑いながら言った。

「泉も最近は厳しいこと言わないし」

「それは……」

「泉様は将軍様に頼まれていらっしゃるのです。『千幡には優しくしてやってくれ』、と」

「そうなの? 泉」

「ちせ……」

 泉は咎めるようにちせを見たが、千幡はうれしそうな表情になった。

 本当は頼家には内密にしておくように言われていたのだが、千幡のうれしそうな表情を見ていると、何も言えなくなってしまった。

「将軍様が一番案じておられるのは、千幡様のことですよ。少しはそれを泉様にも分けてもらいたいぐらいです」

 一方、ちせはそう言い切って、地面においた庭仕事の道具を一つ手に取った。

 そうして、泉達からは離れた、奥の方になる庭へと移動して行く。

「頭の良い女性にょしょうですなあ」

 と、その時だった。

 どこか野太い声が庭に響いた。

 泉が驚いて振り返ると、頑強な体を持つ、壮年の男が一人縁の所に立っていた。

「あれ、じい」

 その男を見た千幡が、そう呼ぶ。

「失礼しました。お声をかけたのですが、誰も出てこず、つい声のする方へと部屋を上がってしまいました」

 「じい」と千幡に呼ばれた男は、そう言って座り込み泉に頭を下げた。

「無作法をお詫びいたします。それがし、梶原景時かじわらかげときと申します」

「海野小太郎が娘・泉と申します」

 泉はそう言って地面に膝を付こうとしたが、

「止めてくだされ。将軍様のご側室に膝を付かせては、私が怒られます」

 そう言って、梶原景時は手を振りながら必死で泉を止めた。

 そう言われると、泉としても、それ以上のことはできず、立ったままもう一度、失礼しましたと、頭を下げた。

「いやいや。こちらこそ失礼しました。しかし泉様は、頼家様の言うとおりの方ですな」

 そんな泉を見て、景時は優しく微笑んだ。

「あまり側室らしくない方だと、笑いながら申しておりました」

 だが泉は、やはり自分が「側室」という意識はあまりなかった。

 確かに「側室」として頼家に仕えることにはなったが、肌を合わせることもなく、この離れで日々を過ごしている。

 やっていることは、侍女だった頃と同じーと言うよりは、木曽の時にやっていることと同じだった。

 部屋を清め、庭の手入れをし、食事の用意をする。

 木曽ではそこに畑の手入れやら、弟達の世話やら、里の子ども達の面倒等も付いてきた。

 だから、木曽にいた時と同じことをしていたけど、手間はあまりかかっていなかった。

 そして、そんな日々の合間には、こうやって千幡や頼家が訪れて来た。

 でも、彼ら以外の客が来たのは今日が始めてだった。

「時に無作法を承知でお願いしますが、こちらで頼家様と落ち合う約束がありましてな」

「そうなのですか?」

「お手間をとらせて申し訳ないが、待たせて頂けますかな?」

「それはもちろんです」

 泉はこくんと頷いた。

「それじゃあ、ちせ殿に戻るように言いましょう。千幡様はわしと一緒に庭仕事でもして、兄君様の用事が終わるのを待ちましょうか」

「兄上に会えるの?」

 千幡の方は、うれしそうな表情になる。

「千幡様は将軍様がお好きなのですな」

 そんな千幡を見て、また景時は目を細めた。

「うん。だって兄上だもん」

 千幡は景時の言葉に、笑顔で頷く。

「兄上とのお話が終わったら、教えてね」

 そのまま作蔵と一緒に、庭の奥の方へと歩いて行く。

「それでは、ご案内しますね」

 泉も頭を下げて、すぐに縁に近寄り、中へと上がった。

「どうぞこちらへ」

 と、離れでは客との面会に使われる部屋へと、景時を案内した。

「千幡様はよくこちらに来られるので?」

 すると、歩きながら景時がそんなことを聞いてきた。

「はい、そうです」

 景時の前を歩きながら、泉は頷いた。

「そうですか……」

 それに考え込むようにして、景時が呟いた時、部屋に着いた。

「こちらでお待ちください」

 泉がそう言うと、

「ありがとうございます」

 と、頭を下げて部屋の中へと入って行った。

 それから、泉は台所に行くと、ちょうど戻って来たちせに、白湯の用意を頼んで、自分は急いでもう一度水を張った桶の所に行き、手と顔と足を急いで洗った。

「近頃冷えるようになってきましたから、熱めでよろしいですか?」

 湧いたお湯を器に移しながら、ちせがそう聞いて来た。

「そうね。そうしましょうか」

 泉は手拭ですばやく手を拭きながらちせの言葉に頷いた。

「しかし、先触れもなくお客様と落ち合いになられるとは、何かよほどのご事情でもおありなのでしょうか?」

 けれど、ちせはそんな泉に顔をしかめながら言った。

「えっ?」

「いくら将軍様とは申せ、客人を伴う場合はやはり先触れの者を使わす者が当然です。泉様は将軍様のご側室なのですから、それなりの準備は必要でしょう?」

 本来ならば、と最後はそう強めにちせは言った。

「そうなの?」

「そうです」

 呆気に取られている泉に、ちせは頷く。

 ちせは目端が聞き、世知に長けている。

 泉はどちらかというとその手のことには疎く、ちせには幾度となく助けられていた。

「でも、問題なのはそこではありません。それなのに、先触れもなく景時様と将軍様が、何故ここで落ち合う必要があるのかーということです」

「……」

 ちせの言葉に、泉は考え込んだ。

 千幡が「じい」と呼んだ梶原景時のことを、泉はそこまでくわしくは知らない。 ただ、頼家が小御所を「正式」に訪れる時には、いつもお供に付いていたのを見かけたことがあるし、父にも景時については聞いたことがあった。

 父によれば、源頼朝が挙兵していた時、石橋山の戦いで敗れて、敗走した頼朝は山中に逃れたらしい。

 この時、景時は頼朝の山中の在所を知るも情をもってこの山には人跡なしと報じて、景親らを別の山へ導いたという。

 その恩を持って頼朝は景時を召し抱え、景時は頼家の守り役まで務めるようになった。

 言わば、北条氏と並ぶ重臣の一人なのだ。

 その重臣と将軍が、隠れるように密談をしている。

 そのことに、どんな意味があるのか。

「とりあえず、由衣様に近いうちにお尋ねしておきます」

 ちせはそう言いながら、湯が入った器を膳の上に載せて、泉の所に持ってきた。

「ありがとう、ちせ」

 泉はそれを受け取りながら、礼を言った。

「いいえ。作蔵殿が千幡様を客間の方には近づけないようにしてくださっているみたいですから、そこはご安心ください」

 ちせも作蔵も対応は万全である。

 ちせは、由衣に「つなぎ」をしてくれるのだろう。

―頼家の力になりたいのならば、お前は正しいことを知らなければならないはずよ。そうでないと、何が頼家のためになるのか、わからなくなるわ。

 泉は、この離れに来てから、幾度も由衣の言葉を思い出していた。

 どうしたら良いのか、何をすれば頼家のためになるのか。

 泉ができることは、ほとんどないのかもしれない。

 それでも、何かできることがあれば、頼家のためにやりたかった。

 この「離れ」を、毎日木戸を開け放ち、掃除をして清めることも、頼家がここでゆっくりと休めるようにしたいからだ。

 大姫が生きていた頃は、頼家は自分の部屋を「逃げ場所」としていた姉のために、両親さえも欺いて、兄弟達とは不仲だと思わせていた。

 だから。

 今度は泉が、頼家の「休む場所」を守りたかった。

 そんなことを考えながら客間の近くまで来ると、

「すまない、じい。それはできない」

 ふいに、客間からそんな声が聞こえた。

「千幡は、俺にとって最後に遺された兄弟だ。殺されるようになることは絶対に避けたい」

「このじいの言葉が信じられませんか?」

「いや。じいのことは信じている。千幡のことを、実の孫のように思ってくれていることもわかっている。だが、人は変わって行く」

「若……」

「俺は多大な恩顧をじいからは与えてもらった。だから、それ以外のことであったら何をするのも厭わぬ。頼む、今回は俺の顔を立てて堪えてくれぬか」

「それは、できませぬ」

「じい……」

「結局、同じことなのですよ。今やり過ごしても、は手を変え品を変えて、同じことをしてくるでしょう。ならば私は一族の棟梁として何をするべきか、大切なものを守れるのか、それを考えなければなりませぬ」

「大切なもの?」

「一族の未来と名誉です」

「……そうか」

 小さく、頼家がそう呟く声が聞こえた。

 泉はそっとその場を離れた。

 今は、声をかけるべきではない、と思ったのだ。

「まあ、泉様。どうされましたか?」

 白湯を載せた膳を持ったまま台所に戻った泉に、ちせは驚いたように言った。

「大切なお話をされていたみたい」

「将軍様は、もう来られたのですか」

 泉の言葉に、ちせは目を丸くする。

「もう少ししてから行った方が良いような気がするの」

「そうですか……。ならば、お酒の用意をして持って行きましょう」

 だがそう頷くと、すぐさまお酒とつまみの用意を始めた。

 泉はそれを手伝いながら、さっき聞いた頼家と景時の会話を思い出した。

 二人とも、「大切なものを守りたい」と言っていた。

 頼家は、「遺された弟」を。

 景時は「一族の名誉と未来」を。

 それは、いったい何を意味するのか。

 ただ、泉にはあの二人が袂を分かれさせようとしている、ということだけはわかった。

 己が「守ろう」としているもの達のために。

 そんなことを考えながら、酒の仕度をちせとすませて、酒とつまみを膳の上に置いて、ちせと二人でまた客間に向うと、今度は話し声は聞こえなかった。

「失礼します」

 泉は閉め切ってある戸に声をかけた。

「泉か?」

 その戸口越しに、頼家の声がする。

「はい。お酒の用意ができましたので、お持ち致しました」

「相変わらず、察しが良いな」

 戸を静かに開けると、そんな風に笑いながら頼家が言った。

「じい、泉特製の漬物だ」

 それぞれの前に、酒とつまみの載った膳を置くと、得意満面の表情で頼家が説明する。

「ほう、これはうまそうですな」

 景時の方も、目を細めながら言った。

「お口に合うかどうかはわかりませんが」

 景時に恐縮しつつも、泉は頭を下げた。

「兄上、お話終わったの?」

 すると、今度はうれしそうな千幡の声が、庭の方から聞こえた。

「来ておったのか、千幡」

 頼家は立ち上がり、縁の方へと近寄った。

「庭の手入れをしていたのか?」

 泥の付いた手を見て、頼家は微笑んだ。

「はい。もうすぐ冬が来ますから、それに備えて冬支度をしているのです」

「そうか。あいかわらず、花や木が好きなのだな。歌も詠んでいるか?」

「ここに来た時だけ。母上に見つかると、怒られるから」

 兄の問いかけに、千幡は笑いながら答えた。

「どれ、一つ詠んでみろ」

「ええっ。えーと、じゃあ、『風さわぐをちの外山に雲晴れて桜にくもる春の夜の月』」

「ほう……」

 頼家の後に付いて、立ち上がって縁の方に出てきた景時が、感心したように言った。

「『風が吹いて雲が晴れた山に、月が出るが、それを桜の花が霞ませる』か……」

 頼家は呟くようにそう言うと、うんうんと頷く仕草をして見せた。

「しかし、これは春の歌ですな」

「うん。でも、庭の手入れをしながら、春になったらこんな風景が見えるんだろうな、と思っていたから」

 景時の言葉に、千幡は笑いながら説明した。

「なるほど。こりゃ一本取られましたな」

「千幡、お前も馳走になろう。泉、千幡の分の食事の用意を頼んでも良いか?」

「はい。大丈夫です」

 千幡は兄の言葉に、うれしそうに笑った。

「でもその前に、千幡様は手足と顔を洗わなければなりませぬ」

 そこに、ちせが容赦のない一言を入れた。

「ちせ……」

「わかっているよ、ちせ」

 それにも笑顔で返し、千幡は作蔵と一緒に井戸の方へと歩いて行った。

「ちせの前では、千幡は素直だな」

「将軍様の前だからですよ」

 感心したように言う頼家にも、ちせは遠慮なく言った。

「千幡様は、将軍様が大好きですから」

 その言葉に小さく笑いながら頼家は頷くと、

「泉、手間をかけるがよろしく頼む」

 そう、泉に声をかけてきた。

「はい」

 泉は頷いてみせると、ちせと一緒に小走りで台所に戻って、食事の用意を始めた。

 一見すると、それは楽しい時間にも思えた。

 将軍の心許す家臣と、弟と。

 私的なでも心温まる宴。

 でも。

 泉は、そこに「哀しみ」が潜んでいるような気がしてならなかった。

 いや……実際、そうだったのだろう。

 頼家も。景時も。

 笑っているけれど、とても寂しそうだった。

 そして、哀しそうだった。

「すっかり長居をしてしまいましたな」

 そうして。

 夕闇が完全に闇に変わってしまった頃。

 景時がそう言って、泉に頭を下げた。

 頼家も千幡もすっかり寝入ってしまっている。

 頼家と千幡に衣をかけていた泉は、景時の言葉に、「泊まって行かれませんか?」

と言った。

 だが顔は少し赤らめつつも景時は、

「いや、そう言うわけにはいきませぬ」

 と首を振る。

「でも、もう暗いですし」

「ご心配には及びませぬ」

 さらにすすめてみたが、景時は首を振って譲らない。

 これ以上薦めるのは、返って失礼になるのかもしれなかった。

「お気を使わせて申し訳ありませぬ。ですが、それがし、まだこの後所用がありますので」

「ならば、これをお持ちくださいませ」

 そう言って、泉は景時が「帰る」と言った時に渡そうと用意していた物を、差し出した。

「これは……」

「私が作った漬物です。もしよろしければ、お持ちください」

 泉の言葉に、景時は微笑んだ。

「ならば、それはお言葉に甘えさせてもらうことにしましょう」

 そうして、泉から竹皮に包まれた物を両手で受け取る。

「泉様、それがしがこのようなことを申すのは筋が違うかもしれませんが、どうか、若のことをよろしくお願いします」

「景時様……」

「若は一見粗野で荒々しい方に見えますが、とても不器用な方でしてな。その心根は、繊細で優しい方なのです」

「はい。頼家様は、とてもお優しい方です」

 泉が景時の言葉に頷いてそう言うと、さらに破願した表情になった。

「それではこれで失礼させていただきます」

「また、是非お寄りください」

 泉は、立ち上がって帰ろうとする景時を見送るためには、立ち上がって歩き出した。

「ここで良いですよ」

 景時は遠慮したが、

「そうはいきません。小御所を出るまでは、家の者に案内させますので」

 それだけは譲れず、泉は首を振った。

「ご心配はいりませんよ」

 と、その時だった。

 庭の方から、そんな声が聞こえた。

 見ると、暗闇の中から、灯りを携えた頼時が現れた。

「頼時殿」

 泉が頼時と会うのは、本当に久しぶりだった。

 最後に会ったのは、まだ頼朝が生きていた時だったから、まる二年ぶりぐらいになる。

 すっかり少年らしさが抜けて、若武者の風体になった頼時は、ぺこりと泉に頭を下げた。

「千幡様をお迎えに参りました」

「千幡様は眠っていらっしゃいますが、大丈夫ですか?」

 泉がそう尋ねると、

「問題ありません」

 淡々と、頼時は言った。

 そうしてその頼時の言葉に従うように、頼時と同じ年頃のお付の者らしき男が、失礼します、と言って庭から縁へと上がって行く。

 男は寝ている千幡にぺこりと頭を下げると、千幡を背負った。

「梶原様もご一緒に」

「それがしもご一緒して良いのですか? 」

 景時は笑いながら言った。

「はい。将軍様からそのようにするように、命じられております」

「それでは、お言葉に甘えさせてもらいましょうかの」

 そう言うと、景時は頼時の共の者が表から持って来てくれたらしい草履を履いて、庭へと降りた。

 それに、千幡を背負った男が続く。

「では、泉殿。どうか将軍様をよろしくお願いします」

 くるりと泉の方に向き直ると、景時は頭を下げた。

 泉も縁に膝を付き、「景時様も、お体にお気をつけて」と言って、頭を下げた。

 そうして、頭を上げた時、景時が泉に微笑みながら、頼時達と歩き出したのが見えた。

 泉はしばらく彼らの姿を見送っていたが、体の震えに気付き、縁から部屋へと戻った。

そうして、内側から木戸を閉める。

でもそこから動けなかった。『また、是非お寄りください』と言ったのは、本心だった。

 泉はこの楽しかった時間を、また過ごすことができたら、と思った。

 けれど。

 景時は微笑むばかりで決して頷きはしなかった。

 おそらく、景時はもう再びここには来ないのだろう。

 今日行われたささやかな宴は、別れの宴だったのだ。

 景時と頼家の二人だけがわかるー。

「泉?」

 と、その時だった。

 ふいに、泉を呼ぶ頼家の声が聞こえた。

「頼家様。お目覚めですか?」

 泉は振り返りながら、振り返った。

 暗闇の中で、頼家が頭を手で押さえながら起き上がっていた。

「大丈夫ですか?」

 泉は、微笑みながら頼家に近付いた。

「皆はどうした?」

「千幡様のお迎えに頼時殿が来られましたので、景時様はご一緒に戻られました。ちせと作蔵はもう下がらせてあります」

「……そうか」

「お休みになられるのでしたら、褥を用意しましょう。こちらに用意した方がよろー」

 泉の言葉は、途中で途切れた。

 腕を引かれ、頼家の体に倒れこむ。

「頼家様?」

 まさぐる手と、吐息と、熱と。

 泉は、静かに目を閉じた。

 拒否するつもりはなかった。

 その理由もない。

 それは、泉が望んだものだった。

 だから。

 湧き上がって来る熱に逆らわず、身をまかせた。

 「寂しい」と言う、頼家の呟きが聞こえたような気がした。

        ★

 明けて正治二年(一二00年)正月。

 梶原景時は、一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。

 途中、在地の武士たちと戦闘になり、景時は西奈の山上にて自害。

 一族三十三人が討ち死にした。

           ★

 泉が、景時が「打たれた」と知ったのは、それからすぐ後のことだった。

 その事実を教えてくれたのは、頼時だった。

 そしてその事実を告げられた時、泉は絶句してしまった。

 「打たれた」とは、文字通り「鎌倉の敵」として、景時が打たれてしまったということだ。

「どうして……」

 泉には、信じられなかった。

 景時が「鎌倉の敵」になるとは、到底思えなかったのだ。

「景時様に対する、ご不満の声が御家人達から上がったのですよ」

 そもそものきっかけは、とある御家人の発言を、「謀反の疑いがある」と景時が言っている、という噂が立ったことだった。

 「噂」は「噂」だ。

 なのに、その噂は、まるで水面を揺るがす波紋のように、鎌倉中の御家人達に広がっていった。

 御家人六十六名による景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、将軍側近官僚大江広元に提出された。

 景時を惜しむ広元は躊躇して連判状をしばらく留めていたが、将軍頼家にその連判状を、提出した。

 頼家は景時に見せて弁明を求めたが、景時は何の抗弁もせず、一族を引き連れて所領に下向したのだ。

 そうして、京へと一族を連れて向い、その道中に討伐された。

「ようするに、誅殺ですか」

 最後まで話を聞いたちせが、はっきりとした口調でそう言った。

「厄介な方に無実のとがを着せて、誅殺されたわけですね。将軍様を、隠れ蓑にして」

「ちせ……」

 ちせの厳しい口調を、しかし、泉は咎めることができなかった。

 それがもし本当ならば、誰が裏を引いていたのかは、一目瞭然だ。

 それは、「執権」の立場にいる、頼家の祖父だ。

「……泉殿。私がここに来たのは、由衣様から泉殿の元に行く様に言われたからです」

 頼時がこの離れに来たのは、由衣に頼まれたからだとは、ちせから教えられて知っていた。

 ちせが由衣に「つないで」くれて、頼家と景時に何があったのかを、泉に伝えに来てくれたのだ。

「『もし小御所から脱け出したいのであれば、手筈は整えておく』、とのことでした」

「頼時殿……」

「私も、由衣様のお言葉に従った方が良いと思います。将軍様をお止めすることは、もう誰にもできません」

 何が、止められないと言うのか。

 けれど、頼時の言わんとすることは、わかるような気がした。

 頼家は、決めたのだ。

 たった一人遺された弟を守る、と。

 だから。

 それ以外のものは、もう彼にとっては意味がないのだ。

 痛みが、ないわけではないだろう。

 だがそれでも、頼時は千幡を守るためならば、どんな犠牲も厭わないつもりでいる。

 その瞬間。

 泉は、ふいに、ワカバの瞳を思い出した。

 ワカバは、もう自分の命が短いことをわかっていた。

 だから。

 目を閉じて、えさを食べなかった。

 自分の子をーアオを無事この世に送り出すことに、命をかけて、そして満足して逝ったのだ。

 頼家も、そうなのかもしれなかった。

 千幡を守るために、自分の命すら、使うつもりなのかもしれなかった。

 ならば、自分のできることは。

 そう、泉は思った。

 千幡を守るために、「覚悟」を決めた頼家に対して、自分は何ができるのか。

 自分の「力」は、いらないものだと思っていた泉に、「なんだ、お前を守ってくれるものじゃないか。怖がる必要なんて、全然ない」と言ってくれたのは頼家だった。

 その「力」を使って、自分ができることは。

「由衣様と頼時殿のお心使いは、ありがたいと思います」

 泉は、そう言って頼時に頭を下げた。

「ですが、私はここにいます」

「あなたが、お傍にいても同じです」

 そんな泉に、頼時はきっぱりと言い切った。

「頼家様をお止めしたりすることは、もう誰にもできません。頼家様にとって、あなたは思い出の場所を守る守人にしか過ぎません」

 そうして、必死な口調で言葉を続ける。

「頼家様のお気持ちは、関係ないのです」

 泉は、それに対して静かな口調で答えた。

「私が、そうしたいのです」

「泉殿……」

 どこかせつなそうに、頼時は目を細めた。

「一つ……お聞きしたいことがあるのです」

「何でしょうか?」

「もし私があなたを妻に迎えたいと言ったら、どうお返事なさりますか?」

 それは、思ってもいなかったことだった。

 泉は思わず、目を大きく見開いてしまう。

 れど、すぐに笑顔を浮かべながら言った。

「共に木曽に行ってくださるならば、喜んでお受けしたと思います」

「……そうですか」

 その言葉は、泉の本心だった。

 頼時が共に木曽のあの里に行ってくれるならば、泉は頷いたのかもしれない。

 だが、それは有り得ないことだった。

 北条氏の嫡男である義時の子である頼時が、あの小さな里に行けるわけがない。

 そして、彼もそれを望んではいないのだ。

 泉が、頼家の傍を離れることを望まないのと同じで。

 頼時は、小さく息を吐き、目を閉じた。

 だがすぐに目を開けて、こう言った。

「泉殿のお気持ちはわかりました。けれど、これだけはお約束ください。ここを出たくなった時は、必ずご相談くださると」

 その言葉に、泉は素直に頷いた。

 そんなことは有り得ないけれど、頼時の誠意には答えたいと思った。

          ★★★

 将軍様は、狂っておられる。

 それが、最近の御家人達の頼家への評価だ。

 将軍の座に着いたばかりの頃は、まだ良かったが、三幡の死、そして近臣だった梶原景時が征伐されて以降、その狂気が顕著になって来たのだ。

政治には無関心を貫くようになり、まるでその代わりのように、蹴鞠けまりに凝りだしたのだ。

 「蹴鞠」とは、数人が革靴をはき、革製の鞠を落すことなく蹴り上げ、その回数を競う球技である。

 昔から、貴族の嗜みの一つとされていた。

 頼家は建久六年(一一九五年)に家族と揃って上京した時に、この蹴鞠を知り、以来気に入ったようで、好んでこの蹴鞠をやっていたが、さらにその熱が増して行った。

 明けても蹴鞠、覚めても蹴鞠。近頃では、後鳥羽上皇へ直々に蹴鞠の師匠を寄越してくれと、頼む始末である。

「何を考えていらっしゃるのだ」

「武家の頂点に立つ征夷大将軍であろう方が、貴族の遊びにうつつを抜かすとは……」

 苦い表情で、御家人達はそう囁きあう。

 御家人のような武士達にとって、京にいる貴族達は、不倶戴天の敵であった。

 都の貴族達にとって、「武士」とは自分達より下の者―所謂、「地下じげの者」と呼ばれて、「使役」していた存在だった。

 そんな「地下の者」の存在だった武士達が「都」を作り、自分達と敵対するほど力をつけることは、都の貴族達にとって、屈辱以外の何物でもなかった。

 だからこそ、全力でその「武士」たる者達を潰そうとして来る。

 それなのに、「武士」の頂点に立ち、武士を庇護するべき立場にいる将軍が、貴族の「遊び」にうつつを抜かし、あまつさえ天皇に「師を派遣してくれ」とまで、頭を下げる。

 それは御家人達にとって、「武士」が「貴族」に頭を下げているのと同じだった。

 「武士」は「貴族」の下に付く存在ものではない。

 対等に渡り合って行くべきなのに、己の欲のために頼家は頭を下げる。

 挙げ句の果てに、評議の場でも、「俺がいなくてもできるだろう」と言わんばかりに、不在を貫く。

 それは、有り得ないことだった。

 確かに、今の幕府の実権は頼家にはない。

 十三人の重臣達が話し合って、評議した結果を決める体制を取っている。

 だが、それは当然のことだった。

 まだ若い頼家に政治を任せることは、できるはずがない。

 それは、どの武家でも言えることだった。

 年若い主人を支えるために、古参の重臣達が年若い主人を先導することは、よくあることだ。

 その家臣の教えを受けながら、年若い主人は学び、成長して行く。

 それなのに、頼家には全くそんな気はないようだった。

 重臣達も、一度、頼家のあまりにもやる気のなさに、評議をさせてみようとして、所領争いの件を出して来たのだ。

 だが、頼家はその所領争いの概要を聞くと、絵図に大きな線を真っ直ぐに引いて、

「これで良いだろう?」

 と言って、立ち上がって評議の場を出て行ってしまった。

 残され重臣達は、呆気にとられるしかなかった。

 実の祖父である北条時政ですら、絶句したままだった。

 あまりにも短気で浅慮な態度だった。

「これから、鎌倉はどうなってしまうのか」

 深いため息と共に御家人達はそう囁き合う。

         ★

「上々だな」

 頼時の報告を聞いて、頼家はそうほくそ笑んだ。

 自分の評判が地に落ちているというのに、頼家はうれしそうだ。

「御所様……」

 頼家のあの振る舞いは、全て計算されてやったことだった。

 頼家の狙いは、自分から御家人達の心が放れて行くようにすることだった。

 その一方で、有力な御家人達の娘達を側室に迎えて、子をもうけていた。

 比企氏の娘を母に持つ長男・一幡。

 そして一つ違いの次男・喜哉ぜんざいの母は、源為朝みなもとのためとも(頼朝の叔父)の孫娘であった。

 また亡き頼朝の書記官であった昌寛法橋しょうかんほっきょうの娘が身ごもっていて、子が生まれることになっている。

 それら側室全てが、北条氏に何ら縁のない女性達だった。

 頼りにならない将軍、そして、それぞれに北条氏と並ぶ有力な御家人達に与えられた、「将軍の子」。

 そこから生まれる政情は、人の心の揺らぎは、火を見るよりも明らかだった。

 さらにそうすることで、北条氏が千幡への庇護を強くして行くだろう。

 そうすれば、とりあえず、千幡の命は守れる。

 だが、それだけでは無意味なのだ。

 「千幡の命を守る」だけでは、何れ、千幡の心が死んでしまうだろう。

 だから。

 千幡の、命と心を守れるように。

 頼家は、策を練る。

「……宜しいのですか? それで」

 だが、頼時はそんな頼家に言った。

「どうした、いきなり」

「将軍様が……頼家様が千幡様を案じられる気持ちはわかります。ですが、ご自身の何もかもを削られてやられることは千幡様ご自身が、追い詰められる結果になりませんか?」

「何を今さら」

「泉殿が、言われるのです。『私は、頼家様のお傍にいます』と」

 頼家は、頼時の言葉に笑っていたが、この言葉を聞いたとたん、その笑みを消した。

「あの方は、頼家様が望まれていらっしゃることを、きちんとわかっていらっしゃいます。それ以上のことは、望まれてもいません」

 泉の気質から言えば、当然のことなのだろう。

 だが、その根底にあるのは、まちがいなく頼家への思いだ。

「景時殿のことは……確かに、無念でした。ですが、頼家様はご自身ができることは、きちんとやられたではないですか。景時殿も、それはわかっていらっしゃると思います」

 確かに、梶原景時一族は、討ち死にや自害で死んで行った。

だが、その裏で。

 彼の幼い孫達は、それぞれに、落ち延びて行ったのである。

 梶原景時が一族を率いて上洛したのは、孫達を確実に逃がすためだった。

 つまり。

 梶原景時達は、自分達を囮にしていたのである。

「そのことに関しては、異母姉上あねうえに感謝だな。異母姉上あねうえの里の者達が先導してくれたおかげで、何とか彼らを逃がすことができた」

 それでも、できたのはそれぐらいのことだった。

 逃亡する彼らがどの道を通るのか、どの辺りの場所を通り過ぎるのか。

 蛇の道は蛇とは言うが、やはりそう言った者達には、共通して通る場所、というのがあるらしい。

 そこを先読みして待ち伏せ、逃亡に必要な水や食料を差し入れて、途中までの案内などをした程度だった。

 さすがに、それ以上のことはできなかった。

 へたをすれば、逃げている彼らを捕えることになってしまうし、由衣の里の者達にも、それ以上のことはさせられなかった。

 それから後の彼らが、無事に落ち延びて行けたのか、頼家達には知る由もない。後は、彼らの運次第だ。

「姉上は、どんなお気持ちで、生きておられたのかな」

 やがて、ぽつりと頼家は呟いた。

「義高殿を失って、生きることもおつらかったはずなのに、どうやって生きようとなさっていたのか」

 だが、そう呟きながらも、頼家はすぐ傍にいる頼時を見てはいなかった。

 今、彼の眼差しの中にいるのは、亡き姉の大姫だ。

 生きて、傍にいる頼時や泉ではない。

 頼時にとって、頼家は従兄とは言え、親しい感情を持つ相手ではなかった。

 頼家は、あくまでも「主君」として仕える立場にいる者だったし、よく似た面差しを持っているから、複雑な感情も抱いていた。

 今も彼に従っているのは、「泉をやろう」と言われたからだ。

 ただ、それでも。

 傍にいるはずなのに、こうやって意識の外から追いやられると、苦い感情が湧き上がって来る。

 たとえ親しい感情は持てなくても、傍にいて、言葉を交わしていけば、育ってくる思いはある。

「異母姉上にも礼を言わないといけないな」

 けれど。

 時々、風に揺れた水面のように、頼家はその気持ちを、向けて来る。

 一番欲しい形で、救い上げてくれる。  

 由衣が、泉だけではなく頼家も気にかけるのは、大姫が亡くなった後、誰もが由衣を見ないようにしていた小御所で、唯一「異母姉」として意識を向けていたからだった。

 それは「親しさ」があるわけではなかったが、それでも頼家は由衣を「異母姉」として認めている。

 そのことは、由衣にとって「救い」になっていたのだ。

「お前も、無理はするな。叔父上を裏切ることはできないだろう?」

 そうして、自分にもそんな意識を向けて来る。

 だから。

 だから自分は、この人から離れられないのかもしれなかった。

 泉が欲しいのも本当だった。

 あんなふうに言われてしまったが、今でもあきらめてはいない。

 でもその一方で。頼家の内面を知るうちに、彼に惹かれて行く自分がいる。

 それでも、父は裏切れない。

 頼時にとって、父は「絶対」だった。

 それすらも、頼家は見透かしている。

「もう、後戻りはできぬ」

 そうして、頼家は頼時に言った。

「残された時間は、あまりないからな」と。

          ★★★

「由比ガ浜に行かないか?」

と、頼家に言われた。

 その言葉に、泉は目を丸くした。

 頼家の側室となって一年あまり経とうとしているが、その間、泉が小御所の外に出たことはなかった。

 その代わり、ちせや作蔵が小御所から出かけて行って、必要な物を手に入れてくれたり、父からの手紙を持って来てくれたりしていた。

「よろしいんですか?」

 泉は、頼家にそう聞き返す。

「良いも何も、俺が一緒に来いと言っているんだ。それに泉、お前だってもっと小御所の外に出て良いんだぞ」

 そんな泉に、あきれたように頼家は言った。

「本当に、将軍様の言うとおりですよ泉様」

 その言葉が聞こえたのか、白湯を持って部屋に入って来たちせが言った。

「このままでは、ここの裏庭が全て畑になってしまいます」

 最近、泉は庭の手入れに加えて、裏の方で畑を作ることに凝っていた。

 畑仕事は、木曽でもやっていたことだ。庭の手入れや部屋の掃除を済ませても、まだ時間が余るようになってしまったので、畑を作って、作物を育てることにしたのだ。

「泉は、畑まで作っているのか」

 さすがにちせの言葉には驚いたようで、頼家がちせにそう問い返す。

「ご存知なかったのですか? 将軍様のお食事の野菜は全てそうですよ」

「これ、ちせ」

 どこか頼家を咎めるような口調のちせに、泉はあわてて止めた。

「たまには、休んでも罰は当たらないと思いますよ、泉様」

 それには構わず、ちせはそう言葉を続けた。

 そうして立ち上がって、部屋を出て行く。

「ちせは、異母姉上に似ているな」

 それを笑いながら見送り、頼家は言った。

「申し訳ありません」

 泉は頭を下げて詫びを言った。

 ちせはどうも、時々、嫌味のようなことを頼家に言う。

「別にちせは、何も言ってないだろう? ただ、泉が畑を作っていることと、食事にも泉が作った野菜が出たと言っていただけだ」

 けれど、頼家は気にしていないようだった。

「それに、ちせは泉に感謝しているからな。庇うようなことを言ってしまうんだろう」

 それどころか、泉が思ってもいないことを言った。

「ちせが……ですか?」

「異母姉上に身代わりで入内の話があった時、それはそれはもう、ちせ達里の者達と家族のことを見下していたらしい。正直、もう二度と会いたくないと思っていたそうだ」

 けれど、由衣の嫁入り先が決まった頃に会った時には、前の由衣に戻っていて、ちせは驚いた。

 そうして、『私を救ってくれた者の力になりたいの。そのためにも、是非、お前には協力してもらいたいのよ』と、由衣が泉と一緒に小御所に行ってくれと頭を下げたことに、さらに驚いたらしい。

 ちせ達里の者達にとって、由衣は主家の長の孫娘になる。

 その由衣がちせに何のためらいもなく頭を下げたことは、ちせにとっては、驚愕の出来事だったのだ。

 その由衣の頼みごとを引き受けて、泉と共に小御所に入ったちせは、泉の人柄を知って、どうして由衣が「助けられた」と言ったのか、わかったと、頼家に語っていたらしい。

「ちせがそんなことを……」

 でも泉は、由衣を「救った」とは思っていなかった。

 泉はただ由衣に仕えていただけだ。

「思ってもいなかった、という感じだな」

 そんな泉に、笑いながら頼家が言う。

「だが、ちせはお前に感謝している。そのことは、知っておいてやれ」

「はい……」

 頼家にそう言われて、泉はこくんと頷いた。

 それを見てから、頼家は泉の手を引き寄せる。

 それは、もう最近では決まりきった仕草だった。

 最近は、こうやって頼家が訪れる度に、抱かれている。

 寂しいのだろうか、とふと泉は思った。

―頂点に立つ方は、常に孤独です。

 ふいに。前に聞いた、頼時の言葉を思い出した。

 大姫と三幡が死んで一番の家臣だった景時も死んで。

 一人残された弟を守ると決めても。

 思い出を共有する泉にすがるしか、頼家には心を癒す術がないのかもしれなかった。

             ★

 海は、群青色をしていた。

「良い天気だな」

 握り飯をほおばりながら、頼家は言った。

「はい」と、自分も同じく握り飯を食べながら、泉は頷く。

 葉月(八月)も過ぎようとしているこの季節は、陽射しが強いながらも、海から吹く風は、どこか優しげで涼しい。

 泉は早朝から、頼家と連れ立って、由比ガ浜へと来ていた。

 あいかわらず、供は付けずに、二人だけの遠出だった。

 馬を浜辺近くの木に繋ぐと、ちせが作ってくれた握り飯を竹皮から出して、座って食べ始めた。

 とくに話すこともなく、泉は握り飯を食べながら、海を見つめる。

 と、その時遠くの方で、小船が幾つか浮いているのが見えた。

「船が出ていますね」

 泉は、船を指差しながら言った。

「あれは、漁をしているんだ」

「漁?」

「魚を捕っているんだ」

 その言葉に、泉は頷いた。

「あのようにして海では魚を捕るのですね」

 木曽の山里では、魚を捕る場所は川だった。

 あのように小船などを出して、漁はしない。

 川の岩を渡り、釣竿や網を使って魚を捕る。子ども達が岩の影に隠れた鮎やフナを手で捕ることもあった。

「世の中は 常にもがもな なぎさ漕ぐ 海人あま小舟をぶねの 綱手かなしも」

 泉が海を見つめる後ろで頼家がそう呟いた。

「歌を作られたのですか?」

 泉は、頼家を振り返りながら尋ねた。

「世の中の様子が、こんな風にいつまでも変わらずあってほしいものだ。波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟が、舳先にくくった綱で陸から引かれている、ごく普通の情景が切なくいとしい。……まあ、まんまだな」

 頼家は笑いながらそう言うが、それは、この光景と、太平の世を願う心情とが混ざり合って、とても良い歌になっていた。

「良い歌だと思います」 

 だから。

 素直に、泉はそう言った。

「漁師達は、皆で協力して漁を行う。そうして、捕れた恵みに感謝をして、また明日も漁をする。彼らにとっては、漁ができて、一日分の糧と恵みがあれば、それで十分なんだ。それは、農民達とて同じだ。豊かな実りがあるからこそ、日々の作業を耐えて行う。彼らにとっては、秋の恵みが豊かなものであれば、それ以上の喜びはない」

 そこまで言って、頼家はため息を吐いた。

「でも、武士は違う。常に、争うことを求める。それが最大の幸福だとでも言うように」

「頼家様……」

 言葉を紡ぐ頼家の瞳は、暗かった。

 それは、鮮やかな群青色をした空と海が眩しい分だけ、暗く濃く見えた。

「お前は、木曽に戻りたいか?」

 その暗闇を宿した眼差しを、泉に向ける。

「お父達には、会えますから」

 そんな頼家に、泉は微笑んでみせた。

「弟達も元服しましたし、鎌倉で会えます」

「母親はどうする?」

「お母は、弟達が連れてきてくれます。それに、手紙のやり取りはしていますし」

 泉が笑いながら言うと、頼家は目を細めた。

「木曽に帰りたくはないのか?」

「いつかは、帰ります。でも、それは今ではありません」

 その言葉を聞いて、くいっと頼家が泉の腕を引っ張ろうとしたが、「握り飯が落ちます」と、泉は慌ててそれを止めた。

「せっかく、ちせが作ってくれたのですから、ちゃんと頂きましょう」

 頼家は複雑な顔をしていたが、やがて泉の言葉に笑い出した。

「あいかわらずだな、泉は」

「……いけませんか?」

 でも、泉はちせが作ってくれた握り飯を無駄にはしたくなかった。

 お米も、頼家が言うとおり丹精込めて、農民達が作ってくれたものだ。

 握りに使う塩だって、塩田で塩を作る者達が汗水たらして作ったものだ。

「いや。お前らしくて良いよ」

 泉の問いかけに、頼家は笑いながら首を振り、手に握ったままの握り飯を口に運ぶ。

「これを食べたらお前の父の屋敷に行くぞ。お前の父は、鎌倉に来ているらしい。久しぶりに、会って行け」

 頼家の言葉に、泉は目を丸くした。

「よろしいんですか?」

「他の側室達は毎日のように父親に会って、いかにして俺の気持ちを引き寄せるべきか、言われているらしい。なのに、お前は俺の側室になってから、全く会っていない。少しぐらい会うのに、どうして俺の許可がいる?」

 ぶっきらぼうな口調で言われる言葉は、どこか優しかった。

「ありがとうございます」

 昔。

 大姫にも、こんな口調で頼家は言っていた。

 頼家の口調は愛想も優しさもなかったけれど、相手を思いやる気持ちに溢れていた。

 公の頼家の評判は、泉の耳にも届いていた。

 けれど、泉の目の前にいる頼家は、あの頃のままだ。

だからこそ、彼は遺された弟を守ろうとしているのだ。

 彼がそのために、何をしようとしているのか。

 どんなことを考え、策を練っているのか。

 ただの侍女上がりの側室である泉には、伺い知ることはできない。

 その思いを、想像するしかない。

 そして、できことも限られている。

 政(まつりごと)のことは何一つわからないし、そんな人間が頼家のために何かしようとしても、返って頼家を困らせることになるのは、目に見えていた。

 結局。

 泉のできることは、頼家の望んでいること以外では、一つしかなかった。

 でも。

 その一つのことは、泉にとってはとても大切だった。

 そのために、自分には「力」が授けられたのだと、そう思えることさえできた。

 だから。

 泉は、自分のやるべきことを決めていた。

「良い天気だな」

 空を見上げて、頼家が言う。

「はい」

 その言葉に、泉も頷いた。

 頼家が将軍であろうとなかろうと。

 泉のやるべきことは、一つだった。

 それが、暗黒色の道になろうとも。



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