第6話 店長 江尻克巳



 高見澤神那から「相談があります」と言われた時、江尻克巳は間の抜けた顔をしてしまった。とりあえず「勤務が終わった時点でスタッフルームで」と伝えたが、伏し目がちな彼女の様子を見ると何だか良くない話のようで、江尻は少し動揺していた。

(まさか、やめたいと言い出すのでは)

 江尻の危惧はそれに尽きる。彼女は週に五日もシフトに入っていた看板娘だったから、その離脱は店にとって大きな損失であるばかりか、代わりの人間を探す必要に迫られるからだ。一応、夏休み前の募集で応募してきた人間で、採用に至らなかった子についても何人か、スペアが必要なときに連絡をすると伝えている子はいる。その子達に片っ端から連絡をしていけば、いずれ代わりは確保されるだろう。しかし一からトレーニングをしなければならず、そこが頭を痛めるところだった。そうなるとまた柚木璃瀬に頭を下げなければならない。

 璃瀬とは相性が悪かった。いやそもそも彼女をはじめ本社の人間は自分を誤解していると江尻は思った。彼らには、自分が店のクルーに手を出した汚点のあるマネージャーという解き難い思い込みがあるのだ。それは固く結び合わされた糸を解くより難しいだろう。

 江尻は思い出す。二十代半ばでSWマネージャーをしていた頃、自分はアルバイトクルーの高校生が好きになり、深い仲になってしまったのだ。あれは純粋に恋愛だった。あの頃の江尻は、二年ほど付き合っていた彼女と別れたばかりで、生活がすさみつつあった。それを正してくれたのが高校生の彼女だった。彼女はその年にしてすでに母性愛に溢れた女性だったので、八つも年上の男のぐちを嫌がることなく聞いてくれた。江尻は彼女の前でだけ誰にもいえない悩みを語ることができた。外へドライブに出て話をするうち、自然と二人の仲ができあがったのだった。

 彼女にとっては江尻が初めての交際相手だったが、秘密にしていてもいつかは白日の下にさらされていくものである。二人の仲は店の中で公認となり、やがて彼女の親に知れ渡った。彼女の親は激怒して店長のところへ怒鳴り込み、本社にまで知れる事態となった。幸い、彼女の訴えで二人の仲がいい加減なものではないことが両親と店に伝わることとなったが、彼女はクルーをやめることとなり、さらに両親は転勤を唐突に決めて、彼女は泣く泣く九州にわたった。遠距離恋愛もままならず二人は別れ、あとには、江尻は店のアルバイトに手を出した男という経歴だけが残った。江尻はその後店をてんてんと回ることになった。

 交際相手を店の中で見つけると手を出したことになると悟った江尻は、さびしい思いを紛らわせるために、仕事のない日はできるだけ外へ出た。お見合いパーティーのようなところに顔を出したこともある。しかしなかなか適当な相手は見つからなかった。何より江尻は低賃金の労働者というレッテルに悩まされた。

 契約しているとはいえ、本社の人間でない江尻はアルバイトのような身分だった。一応賞与も貰えるところまでスキルアップしていたが、それもすずめの涙程度のものである。クイーンズサンドに勤めているというと、みなアルバイトか、という顔をした。

 そういう日常に苦しんでいる時に、江尻は常連客の女性と親しくなった。夜遅い時間帯は江尻もレジカウンターに出ていたので客の相手をすることがあった。女性は閉店間際の十時頃に顔を出した。一人暮らしのOL。顔は十人並みで常に疲れた表情をしていて、彼氏どころでないといった彼女を、江尻は店の客としてさわやかに対応し、時にはコーヒーをサービスするなどして力づけた。それが功を奏したのか、夕食に誘われ、あれよあれよと言う間につきあうようになったのだ。

 江尻にとって、いや彼女にとっても幸せな一年が続いた。そして江尻の明葉ビル店マネージャー就任が内定した時、江尻は勇んで彼女に結婚を申し込んだのだ。つい半年前、江尻三十歳、彼女は三十二歳だった。

 プロポーズを受けてくれると信じていた江尻は、彼女の惚けた顔に唖然とさせられた。彼女は江尻に聞いた。

「マネージャーって、どのくらいの収入になるの?」

 江尻が聞いていた額を口にすると、彼女は溜息をついた。

「ごめんね、それでもまだ私のほうが多いわ。昇給だって高が知れているのでしょう?」

 彼女は結婚できないと言った。いや彼女にははじめから誰かと結婚するという意志がなかったのかもしれない。しかし男は家庭をもちたい動物なのだ。

 二人は何度も話し合ったが、結局折り合いがつかず、お互いが悲しい思いをして別れることになった。

 今江尻は交際相手もなく、勝ち得たマネージャーという肩書きにしがみついている。ささやかな楽しみはレジカウンターに可愛い女の子をずらりと並べること。性欲は落ちていないが、今や美少女を鑑賞するだけの毎日だ。

 それだけに店の子に手を出す男には注意を向けている。松原やアルバイトの学生には、ふたりっきりになった機会があれば口を酸っぱくして言っている。

「店の子が好きになっても決して手を出すな。本気で恋したのなら、店をやめてからやってくれ」

 おそらく彼らは、どこの店舗の店長も同じことを言うのだろう、くらいにしか感じていないのかもしれない。その証拠に江尻の目の届かないところで、ちらほら動きのある様子が窺われた。だから江尻は、逆に女の子たちを呼んで注意を促した。

「もし店の男性スタッフがセクハラをしたり、つきまとったり、君たちに迷惑をかけるような行為をしたとしたら、遠慮なく私か、宮本マネージャーに相談すること。決して自分たちで抱え込まないようにね」

 彼女たちがどの程度本気で聞いてくれたかはわからない。しかし現在のところ自分にも、宮本遥のところにも相談に来た者はなかった。

 そんなある日に、高見澤神那から相談のアピールである。

 やめるのか、男なのか、それともその両方か。江尻は覚悟を決めた。



 高校生と締め切った部屋で二人きりになることは良くないと判断して、江尻は客席の奥にあるキッズルームに高見澤神那を連れて行った。そこはちょっとしたパーティーなどを行ったりする時に使用する一画で、ガラスの壁と扉で他の客席から隔離されていた。客の方からは丸見えになるが、ドアを閉めれば中の会話は聞こえない。

 腰掛けるよう神那を促すと、彼女は相変わらず優等生のような所作で小さな椅子に腰掛けた。

 すでに夜間の時間帯に入っており、客席にはドリンクやシェイクで一時間以上も潰す若者が数人いただけだ。俯いた神那と江尻。客には神那が店長の叱責を受けているように見えるかもしれない。

「それで、相談というのはどんなことなのかなあ」

 江尻は努めて明るく、リラックスできる雰囲気を作ろうとした。

「あの、ですね」と神那は言いにくそうにしている。それはようやく口を開くためにここへ来たのだが、やはり口には出しづらいという内心が明らかに見て取れた。

「……視線が気になるんです」

「は?」

 思わず聞き間違いかと江尻は思った。

 視線? メンタルな問題を抱えている人間は他人の視線が気になるという。ある種の被害妄想だ。別に誰も見てはいないのだが、ついつい見られているという意識に苛まれ、追い込まれていく。

 しかし高見澤神那の場合はどうだろう。彼女ほどの美少女なら通りすがりの男は振り返ってでも見たくなるに違いない。彼女自身もそういう視線を浴び続けているはずだ。今さら気になるというのもおかしな話だった。

「男の人の視線が気になるんです、私」

「ううん、まあ、君は可愛いから、ついつい純情な少年どもは君を見てしまうかもしれないなあ。しかし、そういうのに君も慣れていると思うんだけど」

 そうは言ったものの、江尻は神那が栴檀女学院の生徒であることを思い出しはっとなった。少なくとも女子校の生徒であれば学校内で男の視線を気にする必要はない。こういうファーストフードの店で接客をするようになって、初めてさまざまな人の目に触れることになるのだ。

「すべての男性の視線が気になるわけではありません」

 神那は顔を上げた。気のせいかその瞳は潤んでいるように見えた。

「というと? 客の中にしつこく君を見ていく人がいるのかな」

「ええ、何人か……」

 そう言われてまず思い浮かんだのは、ブラックリストの顔ぶれだった。アメ車を乗り回す地元の御曹司。粘着質のクレーマー。

「何かいやなことを言われたの?」

「いいえ、全然」

「そうか、こんなことを言って気分を害したりしたら悪いとは思うけれど、敢えて言わせて貰うとね、お客様が見つめるのはきっと君が輝いているからだろう。それはむしろ誇りに思うことだと思うよ。君みたいな可愛い子は、これからも社会に出て、いろいろな人に見られることになる。だからそういうのには少しずつでも慣れていかないとね。誰にも見られない人間より、誰かに見られている人間の方が幸せなんだよ」

 歯が浮くようなコメントだと思ったが、他に浮かんでこないのだから仕方がない。それでも神那は真面目に耳を傾けていたようだった。

「はい、蒲田さんにも相談したんですけれど、同じようなことを言われました。私も人間として成長していく上で、これは避けることのできない試練だとも思います」

 何だ、ちゃんと片付いているではないかと江尻は思った。蒲田美香に相談するのは一つの方法だろう。宮本遥や柚木璃瀬より年が近いし、何より同じクルーだ。それに美香は信頼にこたえるだけの器だった。

「お客様については、どうにか慣れて行こうと思いました。でも……」

「でも、どうしたの? もしや店の中の視線も気になると言うのかい?」

「ええ」

 まさか俺の視線だというのではないだろうな、と江尻は自虐的な考えが浮かんだ。

 確かに面接の時から高見澤神那の顔は江尻の目を捉えて放さなかった。清楚な雰囲気の中に何か神秘的なものを抱えている。同じような気分を味わった経験を江尻は思い出したのだった。

 それはかつて交際した高校生のクルー。両親の逆鱗に触れて九州に連れて行かれ、店の子に手を出したという噂にまでなったまさにその相手。今でも江尻の心に残る最愛の女性だった。

 顔こそ似ていないが、纏っているムードはそっくりだったのだ。

 自分だと言われたらどうしようかと思いつつ、埒が明かないので江尻は覚悟を決めて先を促した。

「誰の視線かな?」

「それは」と神那は顔をあげ江尻の目を見据えた。

「まさか、ぼくってことはないよね?」

 あまりに見つめられるものだから、江尻はつい本心をちらつかせた。

「いいえ、違います」と神那は少し微笑む。

 江尻はほっとした。

「西さんと田丸君です」

 神那はようやくそう言い切って、また俯いてしまった。

「え、西と田丸?」

 思わず聞き返し、江尻はその二人を思い浮かべた。今の時間帯、その二人はキッチンにいない。おそらくそれを確認して今回の相談に来たのだろう。

 西章則というのは、大学一年生。お世辞にも全国区とはいえない大学に通っている。身長は百六十五とやや小柄、少し小太りで、若い女の子にもてる体格ではなかった。だがなかなか陽気な奴で、だれに対してもさわやかな挨拶をし、何かにつけ声をかけ、相手を気遣うことができる男だった。

 江尻としてはお調子者にも見える小野田晃一よりは買っていただけに、神那のことばはショックだった。

「西がどんな目で見てくるの?」

「注文品をカウンターまで持ってくるんです」

「そりゃ、キッチンの中の誰かがそれをしているわけだが……」

「私、まわりに聞いてみたんです、富貴恵ちゃんとかに。そしたら私がレジにいる時に何度も顔を出すのは西さんと田丸君だけだって……。他の人はあれほど頻繁に顔を出さないというのです」

「ううん、それだけだとちょっと根拠が薄いかな……」

「でも、視線が違うのです」

「どんな風に?」

「その、なんていうか、はじめは顔をあわせてにっこり微笑んで、品物の受け渡しなどをし、その後必ず私の体を上から下までゆっくりと見ていくんです。それに私が客席のごみをまとめたり、テーブルを拭いていたりすると、ふと姿を現していることがあるんです。私と目が合うとトイレに入るんです。おかしくないですか? キッチンの人ですよ」

「それは、まあ、たまにスタッフルームのトイレがふさがっている時に客席のトイレを使用することもあるが……」

「おかしいですよ、身を乗り出してテーブルを拭いている私を後ろからじっと見ているのですよ。気味が悪くなって、私、最近キュロットしか穿いていません」

 クルーの制服にはミニスカートとミニキュロットがあって、どちらを着用しても良いことになっているが、神那はキュロットの方ばかり穿いているようだった。それは江尻も気づいていた。

 ご丁寧なことに、お客様アンケートの自由記入欄に「高見澤さん、スカートを穿いてください」と書き込む彼女のファンもいるくらいだった。

 しかし西がそのような真似をするとは正直意外だった。彼には爽やかな印象しか抱いていなかったのだ。神那のいうことが事実なら、西も相当助平な神那ファンということになる。

「で、田丸もそうなのか?」

「いいえ、彼の場合はもっと凄いです」

 神那はそう言い切った。ゆるやかな流れが、水量を増したために急流になっていくように、神那は徐々になめらかに話すようになっていった。

「彼の目は、思いつめている人間の目です」

「思いつめている?」

「あれは思い通りにならないと何をするかわからない人の目なんです」

 まるで君の目のようだなと江尻は逆説的な考え方にとらわれた。

「誰かに焦がれることって、誰にでもあるとは思います。でもそれは相手あってのことだと思います。相手にその気がないなら、あきらめるべきなんです」

「田丸は、君に、その、告白でもしたのか?」

「いいえ。でもいくら私が女子校で男性に縁のないところにいる人間だとしても、それくらいはわかります」

 少し自意識過剰なところも否定できないが、こればかりは彼女の立場になってみないとわからないだろう。彼女がそう感じるくらい田丸は思いつめた目で彼女を見ているということになる。

「だから、西さんと田丸君が同時に勤務に入っている時は大変です。お互いにレジに出て来ようとして。今はその、西さんの方が田丸君より三つも年上になりますから、田丸君もおとなしくしていますが、それでもいつ爆発するかわからないくらい怖い目で西さんを見ています。あれはきっとそのうち何か起こす目です」

「じゃあ、どうしたらいいかな、西と田丸を呼んで話を聞こうか?」

「やめて下さい。私がマネージャーに相談したことがわかってしまいます。そんなことをしたらどんな目にあうか」

 この子には被害妄想の気があるのかと江尻は思った。そう考えるとすべてが妄想ではないかとさえ思えてくる。

「じゃあ、僕がときどき様子を見ているよ」

「それは、その、江尻マネージャーがいらっしゃる時はそれでも構いません。現に江尻マネージャーは今でもときどき女子クルーのことを気にかけていらっしゃいますので」

(なんだ、俺がちょいちょい顔を出していることを気づいていたのか)

「ですので、問題はマネージャーがいらっしゃらない時です」

「じゃあ、こうしよう、僕がいない時は松原チーフに頼んで、キッチンクルーはむやみやたらと持ち場を離れないよう注意してもらおう。そして宮本マネージャーがいる時は、後方に控えてもらって、オーダー品の受け渡しをしてもらうことにする。もちろん二人には何か適当な理由をつけてだ。君のことは二人には内緒にしておくよ、それで、どうかな?」

「はあ」と神那は煮えきれない返事をした。「私はいっそのこと辞めてしまおうかとも思ったんですが」

「せっかくここまでやって来たんだし、あとひと月もないじゃないか。もう少し頑張ろうよ。アルバイトで人と接してみたかったんだろう?」

 江尻は面接で神那が口にしたことばをここで挙げた。その効果があったのか、彼女もどうやら少し落ち着いて、考えを改めたようだった。

「わかりました、私ももう少し頑張ってみます」

 江尻はほっと安堵した。



 神那から相談を受けた日の夜、店の片づけを追え、スタッフが帰っていく中で、江尻はチーフの松原を呼び止めた。早いうちに手を打っておく必要があると考えたからだ。

 二人だけになり、売り上げの確認をしながら、江尻は松原に話しかけた。

「店の中に、女子クルーに熱を上げる男がいたりしないか?」

 特に誰と名前を特定せずに切り出した。

「女子クルーに熱、ですか?」

 松原は暫しの間、言葉を途切らせた。すべてを知っていてそれを言うべきかどうか逡巡しているようにも見えるし、ただ単にそういう事例がないか探しているようにも見えた。

「まあ、よくある話だとは思うんだがな」

 自分もそういうことをしたことがあるだけに、江尻は感慨深げに言った。

 松原は本社の人間ではないので、江尻の過去の経緯を知っているかどうかはわからない。もし知っていたとしてもそれを口にすることは控えただろう。

「そうですねえ、目立っていたのは、前沢が瀧本に何度も告白して振られているということくらい、ですかね」

「なんだ、そんな話があったのか?」

 江尻にとっては初耳である。こういう行為は上の人間に知られないようになされるから、江尻の目の届かないところで起こっていたとしても不思議ではない。

「ありゃりゃ、ご存じなかったですか? ここだけの話にしてくださいよ。今はもう、峠を越えて落ち着きかかったところですから。それに高校生同士のことですからね」

「あれほど、店を辞めてからやってくれと言っているのにな」

「しかたないですよ、こればっかりは。若い男女が一つところに顔をつき合わせていると、こういう事態はどうしても生じてしまいます」

「いやに達観した意見だね」

 江尻は松原に嫌味を言った。この男は自分より若いくせに妙に世間慣れしていて要領もよく、それだけに油断がならなかった。過去に若いクルーを食った経験があるのかもしれない。柚木璃瀬に聞けば教えてくれるだろう。もし聞くことができればの話だが。

「名前は出せないが、ある女子クルーから相談を受けた。キッチンの男子からいやらしい視線を感じるそうだ」

「高見澤神那、ですね?」

「なぜ知っている?」

「だって、今日店長のところに相談に行ったじゃないですか」

「そうだったな、これは迂闊だった」

 相変わらず自分は抜けていると江尻は思った。こういうところが甘いのだ。世の中から立ち遅れるわけだった。

「彼女に惹かれているとしたら、西、田丸、あとはせいぜい小野田あたりですかね、あいつは誰でも良いっていう感じですから」

「よく把握しているなあ、さすがはキッチンのチーフだ」

 変なところを褒めても仕方がないが、松原の指摘は図星だった。ということはやはり神那の感じることは被害妄想でもないということか。

「キッチンを抜け出して、ときどき彼女を見に行っていると言うのだが、本当なのか?」

「どうですかね。抜け出すことは可能ですが、ほんのちょっとの間ですよ、話もできやしない」

「だから、見ていくのかもな」

 江尻はわかったような気がした。純情で告白もできない男が、そっと恋の対象を遠目に見る。その視線が熱すぎて神那は脅威を感じたのだ。

「それとなく様子を見ておきますよ」と松原は言った。

 とりあえずキッチン内でのことは彼に任せるしかない。江尻は松原に委ねた。



 翌日江尻は、休憩中の蒲田美香をキッズルームへ呼んだ。アルバイトに対する面接はたまにしているので、堂々と声をかけても何の不思議もないだろうと思ってのことだった。しかし内容は昨日の続きである。

 本来なら、常勤の宮本遥に事情を話して備えるのが筋なのかもしれないが、江尻は遥をそれほど評価していなかった。第一、遥は江尻が集めたクルーを気に入っていない。そういう人物に神那が打ち明けたことを包み隠さず話しても逆効果のように思われたのだ。そこで江尻が白羽の矢を立てたのが蒲田美香だった。

 神那自身も美香に相談したと言っていたではないか。神那の話の真偽を問うには美香と話をするのが最善の策のように思えた。

「昨日高見澤の方から相談があったのだが」と江尻は切り出した。「お客様やクルーの視線が気になるという話に始まって、キッチンクルーの特定の人物の名前を挙げて、その彼の視線が怖いと言い出したんだが、どうなんだろう? 本当なんだろうか?」

「はあ」と美香は当惑の表情を隠さず答えた。「私も彼女からそのような話を聞きました。言われて見ればそうなのかもしれません。彼女あの通り可愛いですし、彼女目当てで来られるお客様もいらっしゃいますから、注目を浴びているのは事実です。店のクルーについては、そうですね、やはり彼女と話がしたいとか、その姿を見ていたいとか考えているかもしれない人がいるかもしれませんね。しかし、彼女が思っているほど、それは深刻なことでもないような気もします」

「それは、ちょっと彼女の方も過敏に反応しているということかな?」

「私がその場に居合わせたわけでもないので、わからないんです。ただ他のクルー、とくに森沢富貴恵ちゃんあたりの話だと、特定の人物が彼女の顔を見に頻繁にやって来るというのですね。富貴恵ちゃんにも話を聞くとわかるかもしれません。ただ富貴恵ちゃんもちょっと早とちりなところがありますから、勘違いってことも考慮した方がいいですね」

 意外に美香の見方は冷静だった。それだけに却ってわかりにくい。神那の妄想という可能性も出て来たのだ。

 江尻は西と田丸に直接話を聞いてみたい衝動に駆られた。しかし神那がそれはやめて欲しいと言っていたし、もし仮に直接問い質したとして、彼らが本当のことをいう保証もなく、江尻は打つ手が見つからず頭を悩ませた。

「あまりひどいようなら、辞めたいとまで彼女は言うんだよな」

 江尻は困惑の表情を浮かべ、美香の様子を窺った。

「そうですよねー。神那ちゃん、今までよくやって来たと思います。でも最近は少々思いつめたところもあって、ミスも若干増えているようです。宮本さんも神那ちゃんの様子がおかしいことに気づいていて、どうしてなのかと訝っていますよ。宮本さんにはまだ相談していませんからね。それに、今度柚木さんが来られた時に、神那ちゃんがどうなるかちょっと心配ですね」

 神那が本社の柚木璃瀬に相談する可能性はゼロではない。できればそのような事態をさけるよう手を打っておきたいところだった。

「やはり僕が目を光らせておくしかないようだな」

 江尻は溜息混じりにいったが、それを聞いて美香は逆に初めて頼もしそうに江尻を見た。


 江尻は美香を持ち場に帰すと、その足でキッチンに入った。中に件の西章則と田丸誠が二人揃って勤務に入っている。西がサンド担当、田丸がフライ担当だったので、二人は互いに離れたところにいた。もちろん仕事中なので私語は聞かれない。彼らが暇な時間帯に言葉を交し合う仲なのかどうかも江尻は把握していなかった。

 正直なところキッチンはチーフをしている松原に完全に委ねていた。たまたま今の時間帯、松原が勤務に入っていなかったから、こうして江尻が顔を出しているわけだが、こういう機会においても江尻の注目はいかにミスなくスムーズにハンバーガーが作られるかにあった。クルー同士の関係など眼中になかったのだ。ただ個人的にひとりひとり面接をおこなうことがたまにあったので、彼らのパーソナリティについて江尻なりの解釈はある。

 西章則はひとことで言うと、陽気な男だ。顔が丸く少しずんぐりとした体格なので、爽やかなイケメンという訳にはいかないが、小さなこどもの扱いなどに慣れているように見える。彼の履歴書に、かつてボーイスカウトをしていたという記載があったのを思い出し、妙に納得した。きちんと相手の目を見て挨拶し、間が持たない事態を避けるべく世間話をすることができる。それが西の特長だ。

 彼のプライバシーに踏み込んだことがないのでわからないが、交際相手はいるのだろうか。格好がよくなくても、あのくらい喋ることができればそれなりに女性の相手はできるはずだと江尻は思っている。世の中にはお笑い芸人が好きな女性がたくさんいるのだから、西がもててもおかしくはない。しかし彼が持ち出す話題が、時に現場にそぐわないと感じることも事実だった。そして唐突に出現するひとり笑い。何かギャグを言ったのかもしれないが、周りの無反応も気にせずにひとりで受けている。しらーっとした空気が流れても気がつかないようなのだ。

 今まで何気なく見ていた光景を思い出し、頭の中で何度か再生して、その中から法則のごときものを見い出してみると、西の言ったことに対して素直に笑いを返してあげるような女子クルーは、蒲田美香と森沢富貴恵くらいだった。

 あとのメンバーは、西のセンスが理解できないとでもいいたげな無反応を示し、その空気を察しない西をさらに珍獣を見るような顔を向けることで貶めていた。

 こうしてよくよく彼を観察してみると、何とも哀れな道化師の姿が浮かび上がってくるのだった。

 その彼が神那をいやらしい目つきで舐めるように見る。そういう光景は実際に目にして見なければピンと来ないものがある。西も男のひとりだ。女性の体に興味を覚えても不思議でないだろう。

陽気で話し好きという姿が、薄っぺらい仮面によるものなのか確かめたいという気持ちと、仮面の下に隠された醜い姿を見たくないという気持ちが交互に訪れて、江尻は不快なめまいに襲われそうになった。

 ちょうど西が休憩をとる時間になったので、スタッフルームへ西とともに入った。中には泊留美佳がいたが、ふたりの姿を見ると、軽く会釈して出て行った。女子クルーは更衣室で休憩をとることも多く、やはり男子スタッフと顔をあわせることに抵抗を覚えているようだった。

 その部屋で江尻は西とふたりになった。

「毎日ご苦労さん」と江尻は話のきっかけを掴むかのように西に声をかけた。

「こちらこそお世話になっています」と如才ない返事が返ってきた。

「君は大学のサークルとか入ってないんだっけ?」

「ええ、ブラバンをちょこっと覗いたことがありましたが、あわないのでやめました」

 彼が通う大学は、どこにあるのかさえ知らない名もない大学だった。自分も二流大学の出身だが、彼の大学はそれ以下かもしれない。このところどこの大学も経営が苦しいと聞いていたから、廃校になったりしないかと余計な心配までしてしまう。だがそれは口にしなかった。

「バイトの金は何に使うの?」

 余計な質問だと思ったが、西なら気にしないだろうと思った。

「このところ景気が悪くて、親も『自分』の生活費を出すのが負担になってきたようで、家に帰ってきて自宅から通えと言うようになったんですね。せっかく一人暮らしを始められて羽を伸ばしていたのに、また自宅から遠くまで通うのも何ですから、バイトで生活費を捻出すると言っちゃったんです。今アパート代だけ出してもらってます」

「それは見上げたものだな」

「ええ、ですから夏休みが終わったあとも、通える時間にひきつづきお世話になりたいんですけど」

 それは君次第だと言いたかったがどうにか堪えた。もし女子クルーに対して何か問題を起こすような存在であるなら、もちろん契約は夏休み限りとなる。しかし努めて内心を隠し、江尻は答えた。

「君は仕事熱心だから、それは構わないよ。しかしそんなにバイトばかりしていては遊びにいく時間がなくなるだろう。彼女とかいないの?」

「そっちの方は、まるっきりだめですね」

「そうなのか? 誰とでも気軽に話ができるタイプだから、ガールフレンドの一人や二人いてもよさそうなものなんだがなあ」

 まるでオヤジの台詞だ。三十の独身男の言うことではない。現在交際相手がいなくてこれといった励みのない江尻自身が言われてもおかしくないことだった。

 しかし西のことを知るには必要な会話だと江尻は自分に言い聞かせた。

「君の大学には女子学生は少ないのか?」

「そうですね、四割くらいは女子学生でしょうか」

「なら、よりどりみどりじゃないか。ブラスバンドでなくて何か女性のたくさんいそうなサークルに入ったりしたら、ガールフレンドもそこそこできるんじゃないだろうか」

「かもしれません」と西は、いつになく歯切れが悪かった。何となく迷惑しているような雰囲気だった。

「君はどういうタイプの女性がいいんだろうな。たとえば、ここの女子クルーで言うと誰がそれに近いんだろう?」

「はあ、そういうことを言うのはいかがなものかと……」

 やはり西は答える気がなさそうだ。少なくとも江尻に対して自分をさらけ出すつもりはないらしい。もっと端的に言うなら、彼は女性に関する話題を好まないのではないかと江尻は思った。

「いやあ、たとえが悪かったな。すまない。まあ、店長としては、お客さまや店のクルーを好きになられても困るからな。店の外でやってくれとふだん言っておいて、それと矛盾したことを聞いて悪かったよ」

 江尻は、はははと笑いで誤魔化して部屋を出た。

 少しは釘になったかなと思うが、西がどう思うかだった。

 次は田丸誠だった。同じように彼が休憩をとるときにスタッフルームに入った。

 彼は最年少の高校一年生だったから、ときどき面接をするような形で声をかけているから、彼の方も江尻と二人きりになっても何も不自然を感じないだろう。しかし口数の少ない田丸誠は、西より話を引き出すのに苦労した。

「どうだい? ひと月近くもしていると少しは慣れてくるだろう? また冬休みや、春休みなどもバイトに来る気になったかな?」

 前にも聞いたことだが、同じ話で始める。とにかく取っ掛かりが重要だった。

「はい、ぜひ」と誠は最小限の返答だ。

「松原チーフは厳しいか?」

「いえ、あのくらいでちょうど良いです」

 履歴書の情報とこれまでの面接で、彼が体育会系の部活に属したことがないことはわかっていた。体育会系の部活に入っていれば、少々厳しい指導も苦にならないと思うが、彼の場合はどうなのだろうと思う。

 松原は冗談ばかり言っている軽い男だったが、こと仕事になるとシビアになる。必然的に指導はきっちりしている。もし誠がいつまでも成長しない男だったら、格好の叱責の的となっただろう。

「君はクルーの中で一番年下になるわけだけれども、まわりの連中とはうまくやっているか? いじめるような奴はいないのか?」

 江尻はふだんからこの手の質問をアルバイトクルーにしていたので、特に違和感のある声かけにはあたらないだろうと目論んだ。

「大丈夫です」

「キッチンの森沢や泊と同じ高校の同じ学年になるけれど、彼女らとよく遊んだりもするのか?」

「いいえ、クラスも違いますし、ここへ来るまで話したこともありませんでした」

「じゃあ、ここで一緒になってから話をすることもあるんだ」

「森沢さんが一方的に話をしてくるだけです」

「はあ、なるほど、彼女は変わっているからなあ」

 森沢富貴恵なら誰に対しても、気軽に話しかけるし、おどけた調子で場の空気を明るくするから、誠に話しかけるのは当然ともいえる。

 その後江尻は誠にとりとめもないことをいくつか訊いたが、彼はのらりくらりとかわすだけに終わった。

 彼が思いつめる人間かどうかはわからない。しかし何か思い切ったことをする芽を秘めていると江尻は感じた。

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