8 乱暴者の尻尾を切った

 僕が店を後にしようとしたときも、ミスター・サムはまだカウンターの隅に座っていた。他の客はほとんどいない。今日はそろそろ閉めるつもりだろう。ミックさんもすっかりリラックスモードだ。ミスター・サムの向かいに座ってグラスを持っている。

 僕が近付くと、グランマ仕込みの目敏さでピッと目を上げて、グラスをちょいと掲げた。


「じゃ、また」

「おう、いつでも来てくれよ」


 店を出ようとする。ちょうどそのときに外から扉が開かれた。いつかと同じように、いや、いつかよりもさらに荒々しく、乱暴な音を立てて。


「おい! おいこら!」


 飛び込んできたのは当然、あの男――ブレット・ロビンソンだ。相変わらず小汚い格好で、髪も髭もぼっさぼさ。なぜだか知らないがひどく慌てふためいていて、服や仕草の乱れが余計に汚らしさを助長していた。包帯を巻いた両手が頭を掻きむしるとフケが胞子のように舞った。

 ロビンソンは血走った眼でミックさんを見て、僕を見て、


「あっ、てめぇっ!」

「はいっ?!」


 なぜか僕の方に掴みかかってきた。くっさ、何日シャワーを浴びていないんだろう。黄ばんだ臭いが押し寄せてきて、僕は涙目になった。


「この間の赤コートはどこだ!」

「は?」

「あっ、アイツ、あの野郎、魔法使いなんだろ?! こっ、こっ、この間、この間俺を呪いやがった!」


 何を言っているんだろうコイツは。僕は反論する気にもなれなくて、ぽかんと口を開けた。

 ロビンソンは僕を突き飛ばすように放すと、手の包帯を引き剥がした。


「コイツを見ろ!」


 僕は思わず口を手で覆った。ひどい。その両手は真っ赤に腫れ上がっていた。よく見るとそれはすべて、細かな引っ掻き傷だった。傷痕の一本一本が、焼けただれたように引き攣れ、膨れ上がっている。


「呪いだ、間違いない、呪いだ! あの魔法使いが呪ったんだ!」

「うわっ!」

「アイツを出せ! 殺してやる! ぶっ殺してやる!」

「わ、あ、あ」


 肩を掴まれ思い切り揺さぶられる。ものすごい勢いだ。頭がぐわんぐわんしてきて、何も聞こえないし見えないし、気持ち悪くなってくる。これ、そのうち、首がすっぽ抜けてしまうのではないか?


「やめろ!」


 ミックさんの太い腕が割り込んできた。僕からロビンソンを引き剥がし、そしてそのままもみ合いになる。解放された僕はその場にへたり込んだ。まだ頭の中がぐらぐらと揺れている気がする。幼児だったら後遺症が残るか最悪死んでしまうのではないだろうか。何ていうんだっけ、揺さぶられ症候群? 僕が幼児じゃなくてよかった。

 なんて、そんなことを考えている場合じゃない。僕の意識がまともになったときには、ミックさんがロビンソンを組み伏せていた。マウントを取って拳を振り下ろす。一回。二回。三回――


「ちょ、ちょっとミックさん、落ち着いて!」


 僕は慌てて彼の腕に飛び付いた。やりすぎたら死んでしまう! 殺してしまったら全部がおしまいだ!

 ミックさんは息を荒らげながら、しかしどうにか止まってくれた。ロビンソンは呆然と横たわっている。口からも鼻からも血が出ていて、意識は朦朧としているようだったが、生きてはいる。

 思わず溜め息が漏れる。良かった、止まってくれた。

 ミックさんは少し後ろめたそうに立ち上がった。ミックさんがどいても、ロビンソンは動かなかった。ああ、とか、うう、とか、言葉にならない呻き声を上げながら、床の上でうねっている。

 どうしようか、これ。持て余した空気が気まずく沈殿していく。

 それを眺めていたら、また扉が開いた。入ってきたのはどこかで見た覚えのある男性だった。


「あ、いたいた。どうもー、魔法庁の人間でーす」


 軽薄な声音と、もさもさしたポニーテール。思い出した。グランマの家で会った人だ。今日は一人らしい。電灯の下で見ても、その青い瞳の不思議な輝きは変わらなかった。

 彼は僕を見てニッコリ笑い、それから床に転がっているロビンソンの傍らにしゃがみ込んだ。


「強い猫の呪いが観測されてね。早めに解かないといろいろマズいことになるからさぁ、来たんだけど……わぁ、これはひどいや。あっはっは。早々に死んじゃうね、間違いないや」


 不吉なことを平然と言い放ちながら、彼はけらけらと笑った。


「今は腕だけだけど、この傷はやがて全身に広がるぞ。そんでだんだん深くなっていく。最終的には細切れになるんだ、生きたままね。そういう呪いだよ。あぁあ、ひどいひどい」


 淡々とした口調がかえって説得力を生み出していた。傍から聞いていた僕まで肌を粟立たせたくらいだ。ロビンソンの荒い息遣い。がくがくと震えているのが遠目にも分かる。

 魔法使いの男はずいっと顔を寄せた。星雲のような不可思議な揺らぎを纏った瞳がロビンソンを捉える。魔法使いの目というやつはみんなこうなのだろうか。底なしに神秘的で、問答無用に魅力的。恐ろしいくらいに。

 それに呑まれたロビンソンは、ちょっと可哀想に思ってしまうほど青ざめていた。


「あんたさぁ、猫を殺しただろ? 心当たりある?」

「っ……」


 ロビンソンは分かりやすく硬直した。心当たりがあるらしい。


「あんたを呪ってんのはその猫だ。この呪いは解けないぞぉ。猫がかける中でも最上級のやつ。人間にはかけられないなぁ、こんな高度な呪い。いやぁ、すごいすごい」

「とっ、解けないって……解けないって、お前、魔法使いだろ? なんとか、なんとかしろよ……!」

「うーん、僕じゃあ無理だな、無理。あんた自身が歪めた流れなんだから、あんた自身が元に戻さないと」

「はぁ?」

「どっかから勝手に奪ったものがないか? それを元の場所に返せ。そうしたら、まぁ、少なくとも死にはしない。傷はその内治る」

「ほ、本当か? 本当なんだろうな!」

「ああ、本当だとも」


 軽薄な頷き。けれど藁にも縋りたい気分の奴にとっては充分すぎる肯定だったらしい。ロビンソンはふらふらと立ち上がって、慌ただしくグランダッドを出ていった。あんまり慌てたものだから、扉を開け損ねて肩をぶつけて、よろけながら駆けていったくらい。

 それを指差して笑いながら、魔法使いは立ち上がった。


「いやぁ、見た? 今の慌てぶり! あっははっははっ、最高だったな!」

「は、はぁ……」


 話しかけられたが、僕はとてもじゃないが笑う気分になれなかった。ウルフ以外の魔法使いに会ったのはこれが初めてだ。そしてこの手の悪趣味なことで笑える奴が魔法使いなのだとしたら、魔法使いが敬遠されるのも分かるかもしれない、なんて思ってしまった。

 男はへらりとした笑みを崩さなかった。


「まぁ詳しいことはウルフから聞いてくれよ」

「ウルフから?」

「そうそう。寮で待ってるってさ。それにしても、さすが魔法アンブローズ学校・カレッジ史上最高の問題児だよな! こんなこと考え出すなんて。よーし、これでアイツに貸しが一つ出来たぞ! 何やってもらおうかなぁ」


 半ばスキップするような足取りでその人は出ていった。呆然とする僕らのことなんて置き去りに。

 僕に分かったのは、これがウルフの仕組んだことであるということと、どうやらすべてが解決に向かっているらしい、ということだけ。

 ミックさんも何が起きたのかよく分かっていない様子だった。ミスター・サムも、どこか不安そうな顔でじっと椅子に座っている。

 僕は誰にともなく断りを入れて、その場を離れると、寮に向けて走り出した。


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