7 英雄はペンと薬にて

 寒い部屋に戻るのが嫌だったから、僕らはそのままグランダッドへ足を伸ばした。昨日に引き続き大盛況。ミックさんは忙しそうに立ち回っていて、とても話せる感じではなかった。

 僕らは地下の半個室でオムレツとパイ――今日は臓物ハギスパイだった――にかぶりついた。今日はキャシーがチーズオムレツを作ったみたいで、いつもよりブルーチーズが多めに入っていた。


「それで、君は一体何を調べてきたんですか」


 ウルフはまだ本調子でないようで、普段よりゆっくりとフォークを動かしていた。僕はそれに合わせるようにして、メモ帳を片手にゆっくりと昨日の話をした。警備会社、花壇のチューインガム、新品の扉、マチルダの行方――(もちろん、彼が酔って口走ったことは伏せておいた)。


「というわけで、要するにほとんど何も分からなかった、ってこと。マチルダの目撃情報もなかったし」

「猫の目撃情報ってどうやって集めるんです?」

「近所の奥様方に聞いたり、猫の集会所に行ってみたり、いろいろだよ」

「へぇ……」


 ウルフは不可解そうに眉を顰めながら、最後の一口を詰め込んだ。


「だからさ、あの男――」


 ブレット・ロビンソンのことだ。さすがにグランダッドの中で、直接彼の名前を出すのははばかられた。


「――が、権利書を盗み出したって証拠さえあればどうにかなると思うんだけど……どうすればいいと思う?」


 ウルフはゆっくりと咀嚼した。わずかに伏せられた瞼の奥で、ぐるぐると考えが渦を巻いているのが見えるようだった。彼の目はいつだってブラックホールみたいに、情報を吸い込んで決して離さない。

 角張った喉仏が大きく上下した。

 そしてブラックホールが僕を捉えて、口を開く。


「気になっていることがいくつか」

「なに?」

「まず権利書ですが、そもそもどうして誰もその存在を知らなかったんでしょう。知っていれば、それを盗まれたと証言できたはずです。グランマには先に寿命の件をお伝えしてあったのに」


 昨日ミックさんから聞いたそうだが、グランマはきちんと病院へ行ったらしい。そして医者が宣告した通り、数日後に亡くなったのだという。


「あのしっかりした方が、自分の先を分かっていて何もしないなんていうことがあるでしょうか」

「確かに」

「それともう一つ。ミスター・サムのことが気になります」


 僕は意外に思って眉を上げた。どうしてここで彼が出てくるんだろう。


「昨日、あの男が来た時に彼が言ったことを覚えていますか」

「ええと……なんだっけ。確か……」


 脳内のボイスレコーダーはかろうじてそれを記録していた。


「『開かない箱を買ってくれる物好きなんかいない』……だっけ」

「そうです。権利書を売り払う、という話に対する反応でしたが、この“開かない箱”とは何のことを言っていたのでしょうか」

「……権利書を収めた箱?」

「おそらく。たとえば彼がそのことをグランマから聞いていたとしたら、彼から箱の話を聞くのは重要なことだと思います」


 なるほど。頷きながら僕は思い出す。そういえばミスター・サムはあの男のことを知っているようだった。『息子さんが帰ってきたと聞いた』云々と話していた。僕のボイスレコーダーは言うほど性能が悪いわけじゃないらしい。一ヶ月前のことを思い出せるくらいなのだから。


「それがあの男の盗みを証明することに繋がるかは分かりませんが……あー……」


 ウルフは何か考え込むように言葉を濁らせた。


「……場合によっては、事はもっと複雑かもしれません」

「複雑、って?」

「それが三つ目です。チューインガムと防犯センサーの故障。グレムリンの好物はチューインガムです。誰かがわざとチューインガムを置いて、グレムリンを誘導したのかもしれません。ですがそれをするためには、グレムリンについて相応の知識がなくてはなりませんから……」

「それじゃあ、魔法使いが関わってるかも、ってこと?」

「一般人でも知ってさえいれば充分に扱える生物ですけどね。可能性がゼロとは言い切れません。グレムリンが捕まったら、届けがてら少し聞いてきます」

「じゃ、僕はミスター・サムについてちょっと探ってみるよ」


 ウルフは一瞬だけ何かを言いたそうな目になった。けれど結局「よろしくお願いします」とだけ言って、口の中をハギスパイでいっぱいにした。



 帰ると、寮はまだ真っ暗なままだった。修理の人が来てくれなかったらしい。日曜日だから仕方ないけどね。玄関で緊急時用の懐中電灯を受け取って、寒い廊下に震えあがりながら部屋まで戻った。ウルフは罠の様子を見に行った。

 暗くて寒くて一人。懐中電灯の灯りは闇を丸く切り取ってくれるが、その範囲には限りがある。というか切り取られた周りに何かいるような気がしてきて、かえって怖いくらいだ。


(……駄目だ、寝よう!)


 こういう時は寝るに限る。どうせシャワーも浴びられないんだし。寝てしまえば何も分からないからね。

 僕はさっさとベッドに寝転び毛布にくるまった。

 瞼をぎゅっと瞑って、布団の中が温まるのを待つ。待っている間、考えることは一つだけ。ミスター・サムについてだ。

 彼について調べると言ったはいいけれど、何をしたらいいのかはさっぱり分からなかった。僕は彼のことを何も知らないのだ。知っているのは八十代後半ぐらいの紳士ってことだけで、名前も分からない。“サム”というのはパブの中でのみ通じるあだ名だ。僕が赤毛、ウルフが赤コートと呼ばれるのと同じことで、その人を一番よく表す特徴がそのままニックネームになるのだが。


(サム。親指か)


 親指に何かあったっけか。そう思ったときに、僕は彼の手元をほとんど見ていなかったと気が付いた。


(参ったな、見ておけばよかった)


 あとでウルフに聞いてみよう、と決めて、寝返りを打つ。

 その瞬間に扉が開いたものだから、僕は悲鳴を上げて飛び退いた。


「あ、失礼。驚かせましたね」

「う、ウルフ?」


 慌てて懐中電灯を手で探ると「すみません、光はやめてください」という声が暗闇から聞こえてきた。その声に何やらギャイギャイ、ギャイギャイと耳障りな音が被さっている。鳴き声のように聞こえるけれど、僕が知っているどんな生き物の声とも似ていなかった。

 ごくり。唾を飲む。


「ねぇ、まさか……」

「はい。グレムリンを捕まえました。これで明日には直ると思います」

「……まさかとは思うけどさ」

「今晩は我慢してください。明日の朝一番で連れていくので」

「逃げない?」

「たぶん」

「たぶんって!」


 僕の悲鳴を彼はさっぱり無視した。

 そういうわけで、僕は一晩中奇声を聞く羽目になった。当然なかなか寝付けず、うとうとしながら見た夢は最悪だった。吹雪の中、白目まで黄色いおばさんが、フォークで皿を引っ掻きながら追いかけてくるのだ。それもめちゃくちゃ速い。怖くて怖くて仕方がなくて、僕は何もしていないのに大声で謝りながら全速力で走って逃げた。

 疲労困憊の状態で起きた時には、部屋には誰もいなかった。白い光がカーテンの隙間から射し込んできていて、セントラルヒーティングが優しく部屋を暖めていた。

 僕はベッドの上で溜め息をついた。こういうことがあると、部屋を変えてもらわなかった数ヶ月前の自分を絞め殺したくなるね。まったく。



 翌日、講義が終わってから、僕はまたグランダッドへ行った。そこへ行くほか、ミスター・サムのことを探る方法が思いつかなかったからだ。ミックさんに聞けば分かるだろうか。場合によっては常連さんに聞き込みをしなくちゃいけないだろうか。なんて考えながら店に入る。

 店内は昨日までとは打って変わって穏やかだった。カウンター席をざっと見ると、ミスター・サムの姿があった。いつも通り隅っこに一人。残念でも好都合でもある。

 ミックさんが愛想よく片手を挙げた。


「よ、赤毛くん。今日は一人か? 赤コートは?」

「コートはクリーニング中だよ」


 僕はいつも通り注文して、それからちょっと声を落とした。


「ねぇミックさん。一昨日、赤コートは何杯飲んでった?」


 ミックさんは少し引き攣った笑みを浮かべて「ああ、そりゃあすげぇ量だったよ」と言った。


「棚が空っぽになるかと思った。あのあと、平気だったか? 同室なんだろう?」

「僕が戻ったらベッドで伸びてたよ。コートも靴も濡れたままそのままでさ」

「ははっ。そりゃあそりゃあ」

「あんなバシッと決めたやつとは思えない醜態だったよ」

「あんだけ飲めば誰だってそうなるさ。きちんと帰っただけ偉いと思うぜ」

「確かに、そうかも」


 ガシャン。皿の割れる音。


「またキャシーか。ったく、アイツにも困ったもんだな」


 ミックさんが厨房に戻っていく。その大きな背中を見送ってから、僕はふと気が付きましたという体を装って、ミスター・サムの方を向いた。


「あ、こんばんは、ミスター。この間はどうも」


 音のした方をじっと見ていた老人は、どこか緩慢な動きで僕に目を向けた。ワンテンポ遅れて目に光が戻ってくる。そしてたっぷりとした頬をほんのり緩ませた。


「ああ、赤コートくんのお連れくんか」


 素晴らしい記憶力だ。僕はこっそり舌を巻きながら、脳内に用意していた自己紹介の原稿を破り捨てた。


「赤コートくんは今日は来ないのかね」

「ええ、たぶん」

「そうか」

「お礼を言っていましたよ。あなたにもご馳走になったから」

「余計な一杯でなかったなら何よりだ」


 そう言ったミスター・サムの手の中でグラスの氷がカランと鳴る。なんだか普通と違う、奇妙な持ち方をしているなぁと思った瞬間、気が付いた。

 右の親指がない。


「遠いところに置いてきてしまってね」


 僕はハッとして目を上げた。注視しすぎたようだった。けれど彼に気分を害した様子はなかった。左手で欠けた部分をねぎらうように撫でる。


「それでも指一本で済んだのだから、幸せ者だ」


 あだ名の由来はそれだったのだ。失われた親指。なんで失ったのか少し気になったけれど、さすがに聞けなかった。それに比べたら箱のことなど、なんて軽い話か。どうやって切り出そうか悩んでいたのがあほらしくなって、僕は直接的に尋ねた。


「ところで、ミスター」

「なんだい」

「先日言っていた、開けられない箱、というのは、何のことでしょう?」


 ミスター・サムはぴたりと動きを止めた。くすんだ茶色の目が急速に色を失う。


「箱? 何のことかね?」


 僕は「すみません、僕の記憶違いだったようです」と話を切り上げた。ちょうどそのタイミングでミックさんがオムレツを持ってきてくれたから、それを受け取って適当なテーブル席に行く。

 さっき僕のことをすぐに思い出せた人が、自分の発言を忘れてしまったとは思えない。それにあの目も気になった。

 彼は確実に、何かを隠している。

 だが、それを暴くのはもう少し先のことになってしまった。


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