9 天使の旅路は九番目の雲
ウルフは澄ました顔で、ワインを片手に待っていた。
「君も飲みますか?」
僕は息を整えながら頷いた。
「貰うよ。ありがとう」
グラスを受け取って注いでもらう。質の良さそうな香りを嗅いで、僕は喉の渇きを思い出す。たった十分の距離とはいえ全力疾走したのだから当然だ。
軽く打ち鳴らしてから、一口。一口のつもりが、軽い味わいのワインはするんと喉を滑り落ちていって、あっという間に半分が消えてしまった。
一息ついてから、今さっき起きたことを話す。
聞き終えると、ウルフは満足げに「上手くいったようですね」と微笑んだ。話し終えた僕の方はさっぱり分からないでいるのに。
「君は一体何をやったの?」
「権利書をブレット・ロビンソン自身が手放すように仕向けてしまえば、それですべて収まるのではないかと思いまして」
「……呪ったの?」
ウルフは“心外だ”と言わんばかりに「まさか」と顔をしかめた。
「ただの魔法薬ですよ」
彼はデスクの上に置いてあった小瓶を手にして、軽く振ってみせた。残り少ないオレンジ色の液体がたぷんと揺れる。
「悪戯用の傷付け薬です。お湯で洗えばすぐに元通りになりますし、痛みもありません」
「何のために使うの、それ」
「傷を偽装して授業をサボったり、嫌いな奴に振りかけてびびらせたり、そんなようなことのためですね。肌につけてしまえば魔法の反応が消えるので、証拠が残らないんです。便利でいいですよ。先生にばれて校則で禁止されて、それきり使ってなかったのですが、余りがあって良かったです」
自慢げに笑うウルフは、実年齢より一回り小さい悪戯っ子のようだった。
「アンブローズ・カレッジ史上最高の問題児」
聞いたばかりの言葉を繰り返すと、ウルフはふっと笑顔を消した。
「誰から聞いたんですかそれ」
「グランダッドに来た魔法使いの人が言ってたよ」
「ああ……」
ウルフは少し唇を尖らせた。
アンブローズ・カレッジは、魔法使いの素質を認められた子どもたちが通う専門の寄宿学校だ。当然、ウルフもそこの出身である。
「問題児だったんだ?」
「周りからの評価としてはそういうことになっていますね」
私は別に、やりたいことをやっていただけですが。と彼は不服そうに続けた。その顔を見て僕は追及をやめる。もう少し聞いてみたかったけれど、へそを曲げてしまいそうだからね。
「あの人は誰だったの?」
「魔法学校にいた頃の先輩です。四つ上ですが、同じ寮だったので、なにかとお世話になったんです。グレムリンを引き渡しに行ったらちょうどいらっしゃったので、一芝居お願いしました。私が行くより説得力が出て、スムーズに進むだろうと思いまして」
それはその通りかもしれない。ロビンソンは赤コートに呪われたんだと主張していた。そこにウルフが出ていったら、火に油を注ぐ結果になっていただろう。
「猫の呪いっていうのは?」
「半分は事実です。あの男――ブレット・ロビンソンは、マチルダを殺しました」
「えっ」
「正確に言うと“殺そうとした”と言うべきですが」
驚く僕を無視して、ウルフは平然と続けた。
いわく、殺された猫は残りの魂もすべて失うのだそうだ。ただし、金属製のもの、つまりナイフとか金槌とか、そういうもので殺された場合のみ。
マチルダはロビンソンが権利書の入った箱を盗んでいったことを知って、捜しに行き、そこで反対に刺された。が、その後テムズ川に落とされたために、刃物の傷より先に水が原因で死んだ。だから蘇ることが出来たのだという。
「出国の手続きに少し手間がかかったようで。もっと早く来るつもりだった、と言っていました」
「会ったんだね」
「ええ。魔法庁に行く途中で。そこで何があったのかすべて教えてくれたんです」
「そうだったんだ」
「作戦にも喜んで協力してくれました。彼女がいなければ、あの男を見つけることも、両腕に薬を塗るのも、こんなに素早くは出来なかったでしょうね。元々引っ掻いてくれてあったおかげで、呪いの説得力も出ましたし」
僕はマチルダが殺されたことに対して憤りながら、生きていて協力してくれたことに喜んだ。複雑な気分。死んだのに死んでいないというのはなんとも奇妙なことである。
ウルフは足を組み替えて、グラスを空にした。次を注ぐ。
「これで、八割方解決です」
「八割?」
「まず、あの男がきちんと箱を持ってくること。これで九割です」
「あとの一割は」
「開かない箱、グレムリンの誘導、そしてミスター・サムのこと」
芝居がかった仕草でワインを一口。そしてニヤリと笑ってみせる。
「謎はきっちり解き明かさなくてはいけないでしょう?」
僕は少し迷った後に「そうだね」と頷くだけで済ませた。
謎は解き明かさなくてはならない。その言葉は、魔法使いに抱くイメージからかけ離れたもののように思えた。神秘主義であり秘密を尊ぶ、それが魔法使い。明かされないから神秘、謎だから不思議、そういうもののはず。
けれどウルフが言う分には妙にしっくりときた。同じ魔法使いなのにね。それは彼が、もっと冷たくて大きな謎を抱えて、それに苛まれているからだろうか。
ワインが空になったところで僕らは眠りについた。
それから三日後、僕らは昼間にグランダッドへ行った。ミックさんに呼ばれたのだ。
「なんだろうね」
「さぁ」
ウルフは半分分かっているような顔で肩をすくめた。
営業時間前のグランダッドは、当然ながら閑散としていて、いつもと違うにおいがした。お休みの日の乾いた台所のにおい。カウンターの上に乗せられていた椅子を下ろして座ると、ミックさんがモルド・ワインを出してくれた。
ミックさんは太い二の腕を擦りながら、口をもごもごさせた。
「あー、この間の騒ぎ、知ってるか? ブレット・ロビンソンが来て……」
「ええ。ロドニーから聞きました。それで、奪われたものは返ってきましたか?」
「そこまで知ってんなら話が早いな。これなんだが」
と、ミックさんはカウンターの裏から四角い箱を取り出した。美しい木目の、そんなに大きくない箱だ。B5より一回り大きいくらい。装飾は何もついていないのに、なぜか目を惹かれる素敵な箱だった。
「ブレットの話じゃ、この中に権利書だのなんだの入っているらしいんだがな。これが開かないんだ」
「鍵がかかってるの?」
「いや、鍵穴はない」
「ない?」
よくよく見たら、確かになかった。蓋と本体の継ぎ目には小さな穴が開いているけれど、どう見ても鍵穴ではない。ただ丸いだけで、底も浅い。
「誰に聞いても駄目なんだ。いっそ壊してもいいからと思ってあれこれやってみたんだが、トンカチでもバールでも傷一つ付かねぇし」
「それで、ウルフに?」
ミックさんは頷いた。
「触ってもよろしいですか?」
「ああ、もちろん」
ウルフは両手でうやうやしく箱を持ち上げた。底を見て、側面を見て、それから指先が穴に触れる。真っ黒い瞳がじぃっと箱を見つめる。やっぱり彼もまた魔法使いの目だ。ブラックホールは目に映るすべてを漏らさず吸い込んでいく。
「指輪」
しばらくして、ウルフはぽつりとそう言った。
「指輪が鍵になっているようです。おそらく、グランマが普段から着けていらした、琥珀の指輪だと思うのですが……あれは今どちらに?」
「あれか。あれは……――いや、分からないな。亡くなった日には着けてなかったし、遺品にもたぶん無かったと思う」
「そうですか」
「もう一回探してみるよ。あの指輪があれば開くんだな?」
ウルフは少しだけ迷うような素振りを見せて黙ったが、すぐに言った。
「無くても開けられますよ」
「本当か?」
「ええ。お二人が秘密を守ってくださるならば」
どうやら魔法を使うつもりらしい。僕はもちろん勢いよく頷いたし、ミックさんも約束してくれた。
「では」
彼は箱をカウンターに置くと、ジャケットの袖口に指先を突っ込んだ。そこからするりと出てきたのは、四十センチくらいの棒――杖だ。焦げ茶と黒の間ぐらいの色をした、つややかな杖。僕は大昔に教科書か何かで見た日本の漆を思い出した。そんな感じの光沢をしている。
杖の先が箱を指す。
「これは王国の鍵。王国には都市があり、都市には町があり、町には通りがあり、通りには小道があり、小道には庭があり、庭には家があり、家には部屋があり、部屋にはベッドがあり、ベッドには箱があり、箱には鍵がかかっている。箱は秘密で溢れてる。鍵のかかった箱があり、箱はベッドにあり、ベッドは部屋にあり、部屋は家にあり、家は庭にあり、庭は小道にあり、小道は通りにあり、通りは町にあり、町は都市にあり、都市は王国にある。そしてこれが王国の鍵」
聞いたことのある詩。マザーグースだ。でも途中が少し違う気がした。僕の記憶が正しければ、ベッドの上にあるのは花が溢れる篭だったはず。
そして続きはなかったはず。
「王国を開けば都市が開き、都市が開けば町が開き、町が開けば通りが開き、通りが開けば小道が開き、小道が開けば庭が開き、庭が開けば家が開き、家が開けば部屋が開き、部屋が開けばベッドが開き、ベッドが開けば箱が開く。これは王国の鍵、これは箱の鍵、かちりと噛み合い解錠せよ」
コン、と杖の先が箱の頭を軽く叩いた。
金色の光が小麦粉みたいにふわりと散って――次の瞬間、蓋がひとりでに開いた。ミックさんと僕が揃って息を呑んだ。
一番上には白い封筒が載っていた。たぶん遺言書なんだろう。その下に権利書や登記書の類が見えた。
「私に出来るのはここまでですね」
そう言った時には、彼はもう杖をしまい込んでいた。残念。もうちょっと見ていたかったのに。頼めば改めて見せてくれるだろうか?
「箱にかかっていた封印は壊してしまいましたから、もう一度閉めても鍵はかかりません。重要な書類は別の方法で管理してください」
「あ、ああ、分かった。分かった……ありがとう赤コート。助かったよ」
ミックさんはちょっと混乱しているようだった。無理もない。初めて魔法を目の当たりにしたんだからね。
そのせいか、それとも本当に嬉しかったのか、彼はちょっと泣きそうになりながらお礼を繰り返して、少しいいワインを差し出した。ウルフは断ろうとしていたけれど、最後にはきちんと受け取った。
「これで、九割五分ってところ?」
グランダッドを出てから僕が言うと、ウルフはワインボトルを撫でながら頷いた。それからふと視線を通りの向こうへやった。
「残りの五分も、すぐ済みそうですよ」
「え?」
僕は彼の視線を追って、ようやく気が付く。
灰色の空をバックに、ミスター・サムが立っていた。
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