グランダッドの盗難事件

1 猫ならすべてを知っている


『一月と二月は切り捨てろ。そうすればイギリスの気候に文句はない』


 ジョージ・オーウェルはその昔、そんな風に思ったらしい。僕は今まさにそう思っている。一も二もなく賛成だ。

 一月の初めのロンドンは毎日飽きもせずどんよりと曇っていた。灰色の空と同じくらい重たい空気は、まるで冷蔵庫の中。それでも僕にとって一月は「なければいいのに」と願うほど嫌いではなかったのだ――今朝早く、セントラルヒーティングが故障するまでは。おかげ・・・で、僕らの部屋はすっかり底冷えしていた。吐いた息が白く曇るくらいに。冷蔵庫を通り越して冷凍庫だ。

 それで、僕は朝からずっとベッドの中で、貰い物のチューインガムを噛みながら、オーウェルの古いコラムにふんふんと相槌を打っていたのだ。だが、それにもいい加減疲れてしまった。何よりも寒い。寒くていられない。ガムはとうに味をなくしたし、お腹もすいてきた。本を閉じる。

 向かいのベッド上にも大きな布団の塊が一つ。


「なぁ、ウルフ」

「……なんですか」


 布団の隙間からのっそりと不機嫌な顔が出てきた。女の子みたいに長い黒髪のせいで、顔が半分隠れている。瞼も半分閉じていて、元々の重たげでアンニュイな感じをさらに増幅させていた。

 彼が起きていることは知っていた。数時間前に一度起き上がって寒さに悲鳴を上げ、セントラルヒーティングが壊れたことを知ると黙ってベッドへ逆戻りしたのだ。だから今の彼の不機嫌さは寝起きのためではなく、寒さのためである。


「グランダッドへ行かないか? 何か温かいものを食べないと、僕たち死んじゃうよ」

「……そのためには、布団から出て着替えないといけませんね。凍死する気ですか」

「パジャマのまま餓死するよりマシじゃない?」

「……そうですね」


 ウルフは頷いたが、布団から出る決心はついていないようだった。言っている僕だってこの温もりを手放せないでいる。それぐらい寒いのだ。


「駄目元で聞くけど、何とかならない?」


 試しに言ってみた。

 彼は黒い瞳を尖らせてこちらを見た。


「秘密を守れますか」


 僕はがくがくと首を振った。言ってみるものだね、やってくれるらしい!


「三十秒ほどしか持たないので、そのつもりでいてくださいね。では――」


 と、彼は毛布から手を出した。常に着けているくすんだ銀色の指輪が軽く結露した。パジャマの袖がめくれ上がって、白い肌が晒される。肘の内側の辺りに蚯蚓腫れのような、ひっかき傷のような、引き攣れた傷痕があるのが見えた。


「カッコウが鳴いた、けっこうって鳴いた、だから春がやって来る。そんなんで春が来ちゃ滑稽だ、ウコッケイはコケコッコーと泣き喚く。はいおはよう」


 マザーグースみたいに不可思議な響きの言葉を詠じて、ウルフがぱちんと指を弾いた。

 金色の光の粒が彼の指の周りにキラキラと光ってすぐ消えた。それとほぼ同時。温かな風がどこからともなく吹いてきた。部屋を凍えさせていた冷気が追いやられて消えていく。セントラルヒーティングが復活したみたいな暖かさ、いやそれ以上の暖かさだ。ここにだけ春が来たみたい。


「うわぁ……」


 感嘆する僕を横目に、素早く布団から飛び出たウルフが「急いだ方がいいですよ、本当に一瞬だけなので」と言いながらパジャマを脱ぎ捨てた。僕も慌てて布団から這い出た。



 真面目な・・・・彼のおかげで無事凍死することなく着替えを済ませ、僕らは寮を出た。予想するまでもなく、外の方がずっとずっと寒い。けれど寒いと分かっている場所が寒い分には言うべき文句などない。


「ガム食べる?」

「いただきます。最近みんなこれを食べてますね」

「近所のスーパーで発注ミスしたらしくってさ、すごい量が全部半額になってたんだ」

「ああ、なるほどそれで」


 どぎついピンク色のガムを口に放り込んで、ウルフは眉を顰めた。そう、このガムものすごく甘いんだ。面白がった寮の奴が大量に買い占めてきたのはいいんだけど、全然消費できないから、僕にも回ってきたってわけ。

 軽く睨んできたウルフは無視。


「セントラルヒーティングさ、魔法で直せたりしないの?」

「出来ないことはありませんが、後のことを考えるとやらない方がいいと思います」

「なんで?」

「私はセントラルヒーティングの仕組みについて詳しくありません。魔法による修理というものは、構造を理解していないと機能しないんです。だから、やったところで一時しのぎにしかなりませんので」


 皆己の仕事に専念せよEvery man to his trade.。 ウルフは大きな濃紺のマフラーに鼻までうずめながらそう言った。その下は目にも鮮やかな赤。真っ赤なロングコート。控えめに言ってものすごく派手。灰色の空をバックにするといっそう華々しく見えた。


「そのコート、真冬に着るにはちょっと薄くない? 寒くないの?」

「充分とは言い難いですね」

「もっと厚いダッフルコート持ってたじゃん」

「あれとは用途が違うので」


 同じコートなのに用途が違うとはどういうことだろう? 僕はそう尋ねたのだが、ウルフは答えなかった。不思議なやつ。



 寮からグランダッドへは歩いて十分ほど。古臭くて厳めしい外装をしているが、その実態は学生御用達の格安パブだ。安くて早くて多い。味も悪くない。正式名称はザ・グランド・オールド・マンと言うのだが、みんな親しみを込めておじいちゃんグランダッドって呼んでいる。

 入った瞬間、思わずため息が漏れた。暖かい。やっぱり室内というものはこうでないと。ウルフも同じように息を吐きながら、マフラーをほどいて、曇った眼鏡を拭いた。

 土曜日の昼間のグランダッドはいつになく混んでいた。けれどその半分くらいが同じ寮の連中だった。みんな考えることは同じである。さっそくウルフの真っ赤なコートに目を付けて、「よお! やっとお前らも来たか!」なんて手を挙げるやつらが五、六人いた。

 カウンターの中では老眼鏡をかけた鷲鼻の婆さんが、安楽椅子に座って新聞とにらめっこしていた。彼女がここの一切を取り仕切る店主、通称グランマ。実は百年以上生きている魔女なんだよ、って言われてもすんなり納得できるくらい、鋭いグレーの眼光とボケることを知らない頭を持っていて、煤けた毛色のペルシャ猫を従えている。


「やっほー、グランマ」

「こんにちは」


 僕らが声をかけると、グランマはピッと目を上げて、鼻の頭にしわを寄せた。


「あんたらが揃うと派手だね。目が痛くなっちまう」

「ウルフはともかく、僕まで?」

「あんたの赤毛はなかなかのもんだよ。赤毛連盟があったら間違いなく合格だ」


 ウルフが笑いながら「新聞に加盟者募集の広告が出ていたら教えてあげますね」と言った。僕はどうしようもない跳ねっ返りの前髪を撫でつけながら、グランマのしわしわの手にお金を乗せた(今日は僕が支払う番だからね)。

 注文したものが出てくるまで、僕らはカウンターの脇で待つ。このパブでは二階のレストランを使わない限り、ウェイターなんていう優しい人は付いてくれないのだ。その分、いろいろと好都合なことも多いんだけど。少し安くなるとか、大盛りにしてくれるとか、バーテンに宛てたチップ代わりの一杯がいらないとかね。

 あとから入ってきたおじいちゃんが、親しげにグランマへ声をかけた。常連さんだろう。山高帽とステッキがここまで似合う人を、僕は他に知らない。腰が少し曲がっているが、白いひげは立派だし頬はふっくらとしていて、身なりも綺麗な好々爺だった。


「やぁ、マダム。ご機嫌いかがかな」

「なんだ、サムか。悪くないよ。あんたはまたくたばり損ねたようだね」

「マダム以外の天使に導かれるわけにはいかないからね」

「よく言うよ」


 グランマは鼻で笑って、目線を落とした。小さな琥珀の指輪を指先でなぞる。

 “サム”と呼ばれたおじいちゃんはカウンターに両肘をついて、声を低くした。


「息子さんが帰ってきたと聞いた」

「地獄耳は遠くなってないようだね、年甲斐もない」

「大丈夫かい。私が力になれることがあればいいのだが――」


 はいよ、真っ赤なお二人さん! と気風のいい声がしたから、僕は慌てて盗み聞きをやめた。

 厨房のミックさんが、人懐っこい笑顔をこちらに向けていた。グランマの孫娘のお婿さんで、三児の父。あのボディービルダーのような太い腕を振り回して、無法者たちの喧嘩をあっと言う間に収めてしまうのだと聞いたことがある。どんなに気さくでも決して怒らせてはいけないお人だ。


「セントラルヒーティングが壊れたんだって?」

「ええ、誰かがフランスのスト史を語り聞かせたようで」

「はっは、それじゃあすぐに直るな」

「そう願っています」


 軽やかに頷きながら、ウルフが日替わりパイ――今日はサーモン・パイだった――と二人分のモルド・ワインを器用に持ち上げた。僕はオムレツの皿を受け取る。

 同年代の連中でごちゃごちゃしているバーを抜けて、僕らはカウンターの横の階段を下りた。ちょうど空いていた半個室のテーブルを占領する。列車の客室の扉を外してテーブルを無理やりはめ込んだような場所。壁には大昔の誰かの落書き。


『お給仕さんはいらないよ。僕らにゃ立派な手足がある。給仕に払うはした金で、もう一杯! もう一杯! 一丁上がりさ、手も足も出ぬ飲んだくれ』


 きっと昔からこんな感じの場所だったんだろう。居場所を失ったやつらが真っ先に思い出す小さな家。最低限のことはやらされるけど、その分手足を投げ出して座れる、実家みたいな場所。

 僕が何気なくテーブルの上のパイのカスを払いのけた時、


「みゃうっ!」


 抗議するみたいな猫の声がした。びっくりしてそっちを見ると、煤色のペルシャ猫がちょうどソファからテーブルに飛び移ったところだった。グランマの猫だ。確か名前はマチルダ。こんなところに来るなんて珍しい。いつもグランマの膝の上から動かないのに。僕のせいでパイのカスが毛に付いたのだろうか、彼女は金色とアイスブルーのオッドアイを嫌そうに細めながら、テーブルの上に座った。

 僕は冗談交じりに問いかけた。


「やあ、レディ。どうしたの? なーんてね」

「お願いごとがあってきたのよ、魔法使いさんに」


 それは確かに女性の声だった。鼻が詰まっているような、柔らかくてセクシーな声。だが僕らの他にこのテーブルには誰もいない。どこからともなくむさくるしい歌声が聞こえてくる。誰かが皿を落として割れる音。グランマの叱責。猫がぐるりと首を巡らせた。

 そしてまたさっきのセクシーな声。


「あらやだ、きっとキャシーね。あの子、悪くないんだけどどうも手元が狂いやすいのよ。そのサーモン・パイを作った子。もしかしてものすごくしょっぱかったら、そのせいだから」

「なるほど。手元が狂っていないことを祈りましょう。……とりあえず、座ったらどうですか、ロドニー?」


 僕はごくりと唾を飲み込んで、そろそろと腰を下ろした。どうしてジョージ・オーウェルはしゃべる猫について書いてくれなかったのだろう? なんて思いながら。


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