幕間

血飛沫婦人の回遊


 クリスマスホリデーが近付いてくると、誰もがみんなそろって浮つく。そりゃそうだ、なんていったってクリスマスだもの。足元がふわふわするようなこの感覚は、小さな頃からおなじみのやつ。

 そう、そこまではいいんだ。そこまではいいんだけどね。

 雰囲気に引きずられて頭の中までふわふわし始める輩には閉口する。たとえばコイツのように。


血飛沫レディ・ブラッド・婦人スプラッターに会いに行こうぜ!」


 リトルは飛び込んでくるなりそう言った。

 僕は「絶対にヤダ!」と即答した。が、リトルはまったくめげずに詰め寄ってくる。油ぎったニキビ面はあまり近づけないでほしいものだけれど、ひょろ長い腕に絡め取られて脱け出せない。


「そう言うなって。新月の夜なら絶対に会えるって噂なんだぜ。気になるだろ?」

「全然、まったく気にならない」

「気になるよな、なぁ!」


 唐突に矛先を向けられたウルフは、しかし一切動じた素振りを見せなかった。一瞬本からこちらへ視線を寄越したけれど、それだけ。


「私はもう会いましたので」

「マジで?!」

「ええ。随分と前に、遠目に見ただけですが」


 ウルフは平然としてページをめくる。


「あの手の幽霊ゴーストにしては比較的気の良い方のようでしたから、相当な無礼を働かない限り平気でしょう」

「へぇえ……」


 リトルは感心したような声を上げながら、どこか不審なものを見る目付きになった(こいつはずっとそうだ。最初からウルフのことを散々不気味だなんだって言っているやつである)。

 それから半分首を絞めるような形で僕を引っ張った。


「よーし、魔法使い様のお墨付きも出たことだし、早速行こうぜ!」

「えっ、ヤダよ!」

「みんな待ってるんだからな、急げ急げ!」

「ヤダってば、ねぇ! ねぇーっ!」


 ずるずると引きずられる。僕の悲鳴なんてすっぱり無視だ。


「助けてウルフ!」


 非情な魔法使い様は背中越しにひらひらと手を振っただけだった。くそっ!


 ☆


 夜の校舎はひっそりと静まり返り、冷たい空気に満ちていた。寒さだけじゃないような気がして、僕はコートの襟に顎まで埋まる。

 リトルは何が面白いのかげらげら笑いながら懐中電灯を振り回していた。笑い声が回廊の丸い天井に反響して、変な響きになって戻ってくる。ああ、気味が悪い……。懐中電灯の灯りがあるのは心強いんだけど、同時にそのせいで出来上がる影が怖い。ゆらゆら揺れるし、変な風に伸び上がったり縮んだりするし。

 石の廊下をカツンカツンと靴底が蹴る。僕は最後尾をのろのろと付いていった。

 カッ、カツッ、カカカッ。リトルが妙なステップを踏んでからくるりと振り返った。


「噂じゃ東側の大教室にいるって話だぜ」


 あとの二人、ジョンソンとバーナムが「本当かよ」「早く行ってみようぜ」なんて言うのを尻目に、僕は懐中電灯をぎゅっと握りしめた。あー、もう嫌だ、帰りたい!


「ほんっとお前ってば怖がりだよなぁ、ロドニー」


 ひょいとリトルが肩を組んできた。


「……分かってるなら連れてこないでくれよ」

「いやいや、それが面白いんだから仕方ないだろ?」

「うっわ、最低だ」


 言いながら、僕は内心舌を打った。このままそうっと帰ってしまおうかな、なんて考えたのを見透かされたみたいだ。くそう……。


「魔法使い様と同室でも変わらなかったみたいだな」

「そう簡単に変わるわけないだろ。というか、だいたい、ウルフは別に怖くなんてないし」

「そうなのかぁ? 怪しい呪文とか薬とか、あれこれやってんじゃねぇの?」

「少なくとも部屋の中ではやってないよ」

「ふぅん?」


 まったく信用していない目付きだった。それに少し腹が立ったけど、それから話は血飛沫婦人のことに変わったから、僕は口をつぐんだ。


 東の大教室は、同じ学寮の生徒が全員集まってもまだ余裕があるくらいの大きな教室だ。いっそ“講堂”とかって呼んだ方が正確かもしれない。黒板の前は広く開き、そこからイスとテーブルが放射状に並んでいる。高低差がばっちりあるおかげで、最後列に座っても居眠りはすぐばれるってわけ。特にヴァヴジーコナー教授の授業の時は駄目だ。あの人はめちゃくちゃ厳しいからね。いつかもちょっと舟を漕いだだけの生徒を目ざとく見つけたと思ったらものすごく冷淡かつ論理的な口調で散々に糾弾し、教室中を震え上がらせるという事件があって、その時ほど――


「いかにも出そうって感じだな、ロドニー!」


 ――僕の逃避行はあっけなく終わりを告げ、現実に引き戻された。

 ぐいぐいと腕を引かれて、仕方なく両開きの扉をくぐる。ああ、嫌だ、見たくない。と思う反面、暗闇に沈んでいる部分があるのも怖くて、せわしなく懐中電灯を動かしてしまう。他の三人も同じように、丸い光が教室のあちこちを切り抜く。

 教室には何の影もなかった。気配すらない。窓にはカーテンがきっちりと引かれ、飛び出たイスとかも存在しない。整然とした、普通の教室。


「んだよ、何もねぇじゃん」


 リトルの残念そうな声。反対に僕は飛び上がりそうになった。良かった、何もいなかった! ここまで来たのだから三人は満足しただろうし、僕は怖い目に遭わずに済んだ。これでまったく、めでたしめでたし、だ!


「しょせん噂は噂ってわけだな。これで満足しただろ? 早く帰ろう」

「ちえっ、あーあ、無駄足踏んだなぁ」


 リトルの良いところは諦めもまた早いところだ。教室の半ばほどまで行っていたが、すぐに踵を返した。

 その瞬間の彼の顔と言ったら!

 元々ぎょろりとしている目がさらにひんむかれて、出目金みたいになっている。半分開かれた口は間抜けなトロールみたい。懐中電灯のせいか、ニキビ面が青白くなっていた。そして、


「ひっ、うわあああああああああっ!」

「リトル?!」


 悲鳴を上げたと思ったら階段状の通路を後ろ向きに転がり落ちていった。


「ひいっ!」

「ぎゃあっ!」


 続けざまにジョンソンとバーナムも悲鳴を上げて、懐中電灯がパーッと黒板の方へ走っていった。

 僕はようやく、最悪の事態になったのだ、と気が付いた。なのになぜだか動けなかった。まずい。やばい。怖い。心臓がばくばくと奇妙に弾んでいる。BB弾をゼロ距離で撃ち込まれているような感じ。バツンッ、バツンッ、と断続的な鈍い痛みが体内に響く。手足が一気に冷え込んだ。やばい、駄目だ、凍ってしまう。


『こんばんは、悪い子ちゃんたち』


 高い声がすぐ耳元で聞こえて、僕は息を呑んだ。喉の奥が絞め殺されたカエルみたいな変な音を立てた。奥歯が神経質にカチカチと鳴る。

 僕は意思に反してゆっくりと振り返っていた。


『あたくしのお相手をしてくださるのはどなた?』


 ドレスの女性が立っていた。何世紀か前っぽい形の豪奢なドレス。レースのベールに覆われていて、顔は見えない。ドレスもベールも闇に沈むような黒だ。ちらりと覗く肌だけが、目を奪われるほど真っ白い。

 誰に言われたわけでもないのに分かった――彼女が、血飛沫レディ・ブラッド・婦人スプラッターだ。

 ふ、と膝から力が抜けて、僕はその場にへたりこんだ。


『あらあら、初々しいこと。ふふ、本来エスコートは紳士のお役目ですのよ?』


 レースの手袋に覆われた指が僕に向けて伸ばされる。僕の方へかがみこんだ拍子に、ベールがわずかに持ち上がって、真っ赤な唇が見えた。

 真っ赤なのは口紅? いや、唇の端がとろりと垂れている。口紅よりももっと粘着性の薄い、けれど水よりは重たい、そういう液体が彼女の唇を彩っているのだ。

 顎先まで線を引いたその液体が、ぽたり、と僕の頬に落ちた。

 生暖かくて、どろりとした、それは。

 血だ。


「う、わあ、あああああああっ!」


 僕は咄嗟に手に持っていた物を投げつけていた。懐中電灯は目の前の血飛沫婦人に――いや、婦人の、ちょうど額の辺りを通り抜けて・・・・・いった。

 カシャーン、と懐中電灯が床で壊れる音。

 血飛沫婦人はふらりと後ろによろめいた。


『ああ……ああ、なんて酷い人……信じられないわ……あたくしにこんな仕打ち……』


 手で顔を覆い、その隙間からか細い声が漏れ出てくる。

 それを聞きながら、僕ははたと思い出した。


 ――相当な無礼を働かない限り平気でしょう。


 ウルフは確かにそう言った。ということは、


(無礼を働いてしまったら……どうなるんだ?)


 血の気が引いていくのが自分で分かった。懐中電灯を顔面にぶつけることが“相当な無礼”にあたるのは明白だ。やばい!

 ガンッ、と荒々しい音を立てて、血飛沫婦人が仁王立ちになった。


『こんな人、あたくしのお客様じゃないわ!』


 一喝。途端に、空気がねじれるように渦巻いたのがはっきりと感じ取れた。カーテンが揺れてざらざらと鳴る。イスががたがたと震え出す。

 僕はイスに負けないほどがたがたと震えながら、必死に後退った。立てないから這いずるほかない。とにかく、とにかく今はこの場を離れなくては、さもなくば――!


『逃がしはしませんわ』


 僕はバーナムの手を借りてようやく立ち上がった。ジョンソンはリトルを担いでいる。みんな真っ青な顔になって、一言も発しなかった。心は一つ、脱出あるのみ。

 だが。


「おい、開かないぞ!」

「えっ」

「はぁっ?! なんでだよ!」


 いきり立ったバーナムが扉を蹴った。が、びくともしない。


『うふふふふふ……』


 血飛沫婦人の甲高い笑い声が、僕らのすぐ後ろから響いた。バーナムが何度も扉を蹴る。ジョンソンは「くそっ、ふざけるな、畜生!」と毒づきながら、懐中電灯をやたらめったらに振り回した。けれど血飛沫婦人の姿はなく、ただ暗闇と声だけが押し寄せてくる。


『いち、にぃ、さん、し……四人。どうやって調理しましょうかしら。まずはしっかり、血抜きをしないと、ねぇ。うっふふふふふっ!』


 僕は扉を背に、再びずるずると座り込んだ。


(だから嫌だって言ったのに……っ!)


 じわりと涙が滲んできた。高笑いが嫌で嫌で仕方なくて耳を塞ぐ。目もつぶった。ああ、僕の人生、もうここでおしまいだ。何にもめでたくない終わり方。


(せめて別の死因がよかった……)


 なんて思っていた、その時。


 コンコンコンコンコンッ!


 鋭いノックの音が響いて、ついでガチャリと扉が開いた。僕が背中を預けていた方の扉だったから、僕はバランスを崩して後ろにひっくり返った。

 頭上を何か赤いものがひらりと通り過ぎていった。


「こんばんは、レディ。良い新月ですね」


 状況を理解していないような、まったく、まったく涼しげな声。

 ウルフだ!

 僕は喝采の声を上げそうになりながら、急いで起き上がった。

 赤い背中がなんて頼もしいんだろう! その向こうに血飛沫婦人のスカートの裾が見えた。


『あら、どなたかしら?』

「たいへん美しいお方がこちらにお住まいだと聞き、来ずにはいられなかった者です。徒労に終わることを覚悟の上で参ったのですが……噂はしょせん、噂でしたね」

『どういう意味かしら?』


 ムッとしたような反問に、けれどウルフは即答した(たぶん微笑を浮かべていることだろう)。


「噂以上のお美しさ。この目で見なくては一生分からないところでした」

『……お上手ね』

「本心を述べたまでです。貴女は本当に――」


 意味深な間を置いて、ウルフは片膝をついた。芝居がかった仕草。口調。なのに、


「――美しい」


 僕ですら心を吸い寄せられるような感じがした。ウルフは本気で彼女に惚れ込んでいるのだ、とうっかり思い込みそうになる。


「どうか、この一夜だけで構いません。貴女とともにあることを許してくださいませんか、レディ?」


 ウルフが差し出した手に、血飛沫婦人がそっと手を重ねた。相変わらずその顔はベールの向こうに隠れているけれど、乙女みたいに恥じらい、上気しているのが雰囲気だけで分かった。


「ありがとうございます、レディ」


 言いながらウルフが立ち上がって――


(あ)


 僕らに向けて、背中に隠した手を振った。シッシッ、と犬を追い払うかのように。


(今のうちに行け、ってことか!)


 正しく意図を察した僕らは、そっと立ち上がって教室を出た。甘ったるい問答をするウルフを残し、そそくさと廊下を引き返す。誰も、何も言わなかった。いつの間にか目を覚ましていたリトルですら、足だけを動かしていた。

 危うく血抜きされるところだった。そこをウルフに助けられた。

 その二つの事実を飲み込むには、学舎はあまりに暗すぎる。今の僕らに必要なのは文明の光。それだけだ。


 ☆


 僕は自室のベッドに座ったけれど、どう考えても眠れそうになかった。だからそのままウルフの帰りを待った。考えることはたくさんあった。あっさり置いてきちゃったけれど大丈夫かな、とか。結局血飛沫婦人ってなんだったんだろう、とか。

 彼が部屋に戻ってきたのは、夜が明けた頃だった。


「おかえり、ウルフ! あの――」


 疲れ切った顔と目が合って、僕は言葉を飲み込んだ。


「だ、大丈夫?」

「……まぁ、はい」


 ウルフは溜め息をつきながらベッドに腰を下ろした。


「ずっとしゃべってたの?」

「ええ。踊りながら」

「踊りながら?! あれから……」


 時計を見て、僕の驚愕はさらに大きくなった。


「は、八時間も?」


 ウルフは黙然と頷いた。道理で使い古された雑巾みたいな顔をしていたわけだ。そんなことをしたら誰だってその顔になる。


「あの、ごめん、ウルフ」

「何がです?」

「僕が懐中電灯を投げたりしたから……」


 彼は両眉を持ち上げながら「ああ、そんなこと気にせずとも」とコートを椅子の背に放り投げた。


「なんで来てくれたの?」

「新月の夜に会いやすくなる、というのは、それだけ向こうの力が強まっているということです。不測の事態が起きてからでは遅いと思ったので、念のため」


 あのままだったら、僕らは本当に殺されていたという。生きたまま吊るされ、頸動脈を切られ、しっかり血抜きされた状態で教室にぶら下がる羽目になっていたらしい。そしてタイムズ紙の一面だ。『名門グランリッドで猟奇殺人事件、学生四人が犠牲に。犯人は悪霊か』――

 僕の血の気はまた引いた。


「そ、そんな怖いやつだったんだ……」

「機嫌が悪くなると、という話ですが。機嫌さえ損ねないようにしながら夜明けを待てば平気です」


 女性の機嫌をひたすら(それも八時間も!)取り続けることがどんなに難しいことか、ウルフはよく分かっていないらしい。初手で不興を買った僕には逆立ちしたって出来ない芸当だ。

 あくびをしながらベッドに潜り込んだウルフ。四人の命を救った重みなんてちっとも感じていないようだ。でも僕からすればすごく大きなこと。死因が『幽霊による殺害』なんて最悪も最悪のいいところだからね。


「助けてくれてありがとう、ウルフ。本当に。今度、なんでも好きなだけ奢るよ」


 彼は怪訝そうな顔をこちらに向けた。


「危険が予測できる魔性生物には対処する義務があります。当然のことをしただけですから、お礼など必要ありません」

「それは違うよ、ウルフ」


 僕は首を振る。


「助けてもらったんだから、お礼をするのは当たり前だよ。君にとっては義務だったとしてもね」


 ウルフは考え込むように枕へ頭を埋めた。

 カーテンの隙間を通り抜けた朝日に、僕の冷えた爪先が白く染まる。僕はそこから逃げるように足を引き上げて、ベッドに横たわった。ようやく緊張から解放されたらしく、眠たくなってきた。

 返事は僕が寝る体勢になってからやってきた。


「遠慮しませんよ」

「大丈夫、あとの三人にも払わせるから」

「なら安心ですね」


 にっこり笑ってみせたウルフはきっと本当に遠慮しないだろう。けれど、無茶な要求はしてこないはずだ。


「本当にありがとう。おやすみ」

「おやすみなさい」


 窓の外はもう明るかったけれど、構うもんか。疲れたときはゆっくり眠るしかない。そういうものだろう?


 次の日、東の大教室がひどく荒らされていることを職員が発見し、教室は一時封鎖された。イスもテーブルもぐちゃぐちゃ、窓は何枚か割れ、黒板にもひびが入っていたという(僕もウルフも夕暮れ時に起きたから、ひとしきり騒がれた後に知ったんだけど)。

 誰かの嫌がらせだとか、悪魔が暴れたのだとか、そんな噂が立ってしばらくの間騒ぎになった。けれど当事者たちが揃って口をつぐんだから、ついに真相は闇に葬られた。

 僕が投げた懐中電灯の残骸については誰からも聞かされなかった。あとから聞いたら、ウルフが回収しておいてくれたらしい。ありがたいことだ。彼には飲み放題コース(上限あり)を用意して、四人そろってお礼を言った。彼は本当に容赦なく、上限ぎりぎりまで飲みまくった。

 その翌日、頭痛を抱えて呻くウルフを見て、


「なんだ、魔法使いでも二日酔いになるんだな」


 と、リトルがげらげら笑った。


 これで、この件はめでたしめでたし、ってわけ。


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