2 天使の旅立つときが来て

 本来魔法というものは『一般人に見せてはいけない』と言われているらしい。だが、ウルフはこれまでに何度も僕の前で魔法を使った(もちろん、必要に駆られて、だけど。今朝のこと? あれだって凍死しないために必要不可欠だったさ)。彼曰く「“非推奨”であって“禁止”ではありませんから」とのこと。ルールの隙間を見つけるのが上手なやつなのだ。

 だから当然、ウルフが魔法を使っているのだろうと思った。でなければ猫が話し出すなんてありえないだろう?

 だが、彼は冷淡に言った。


「私は何もしていません」

「嘘だろう?」

「嘘はつきませんよ。猫は話せるようになるものなんです」


 直後、彼が形の良い眉を思いきり歪めたのは、口に入れたサーモン・パイが塩辛かったからだろう。ワインを呷って、


「パンを買ってきます」


 と席を立った。

 僕は出来るだけ目線を動かさないようにしながら、黙ってオムレツをもぐもぐした。ここのチーズオムレツは絶品だ。大きくてとても美味しい。何種類かのチーズをブレンドして入れてあるらしくって、ちょっと真似したぐらいではこの味は出せない。たまにブルーチーズの塊に当たることもあるけど、そこはご愛嬌だ。それはそれで美味しいし。

 視界の端で煤色の尻尾がぱたぱたと動いている。なんか不機嫌そう。


「ねぇ、坊や」


 突然話しかけられて、僕の尻は数ミリ浮いた。


「あっ、はいっ?」

「あたしに何か言うべきことがあるんじゃなくって?」

「言う、べき、こと……?」


 僕は頭を捻った。言うべきこと? 彼女に対して?

 マチルダはいよいよ不機嫌そうに髭をピンピン揺らす。


「あなた最初、あたしに向かって何をしたのかしら」

「ええと……あっ」


 ようやく話が分かった。僕はフォークを置いて、改まって頭を下げた。


「気付かなかったとはいえ、パイのカスをかけてしまってすみませんでした」

「ふふん、そうそう。素直に謝れるのは美徳だわ」


 彼女は往年の大女優のようにつんと鼻を反らせた。


「それと、あたしが話せるのは本当に魔法じゃないわ」

「マジで?」

「猫の魂は九つあるのよ。どんな猫でも、だいたい三つ目くらいから言葉が分かるようになって、五つ目か六つ目くらいには話せるようになるわ。あたしはこれで七つ目。本当は“国”に戻らなきゃいけないんだけど、好きでこっち側にいるの」

「はぁ、そうですか」


 よく分からないなりに頷いていたら、ウルフが戻ってきた。彼はバゲットの分厚い切れで一杯になったカゴを抱えていた。どう見ても一人で食べる量じゃない。いや、僕が参加しても食べきれないだろう。


「ずいぶんたくさん買ってきたね。食べきれるの?」

「無駄に買うようなことはしません。食べたければどうぞ」


 ウルフはサーモン・パイの具をバゲットに乗せて、大口を開けてかぶりついた。薄い頬が丸く膨れ上がる。自分の口の容量を分かっていない子どもみたい。僕がやったら無言の非難が寄せられるだろうが、彼の場合は正反対。

 柔らかく目を細めた猫が何よりの証拠だ。


「とっても美味しそうに食べるのね。キャシーのうっかりも、たまにはいい仕事をするじゃない」


 美醜の基準はどの世界でも変わらないものなんだろうか。僕は少しイラッとして、ウルフのパンを一切れ奪った。すごく硬いしバサバサしていたけれど、チーズオムレツとの相性は最高。


「魔法使いは基本、大食漢なんですよ」


 大きな一口をようやく飲み込んでから、ウルフはそう言った。唇の端についたソースを親指で無造作にすくい取ってぺろり。


「魔法を使うとお腹が空くんです。それに合わせて食事が用意されるので、七年も魔法学校にいれば自然と胃も大きくなるものです」

「カロリーとかそういうものを魔法のエネルギーにしている、ってこと?」

「その仮定を用いて魔力を捉えようとする学者は多いですね。誰も決定的な論を打ち出せていないので、正確なところはまだ解明されていませんが」

「へぇ!」


 面白そうな話だ。僕は続きを聞こうとしたのだが、ウルフはひょいと猫の方を向いてしまった。


「それで、レディ。お願いというのは何でしょう?」

「マダム・アンジェラのことよ」

「マダム・アンジェラ?」

「坊やたちの言う“グランマ”のこと」


 グランマの名前はアンジェラ・ロビンソンだ。美人の看板娘として名を馳せた時代もあったとかなかったとか、そんな噂を耳にしたことがある。


(ああ、それで“天使”か)


 僕は得心がいった。ミスター・サムがグランマのことを天使と呼んでいたのは、美人だった頃の名残かもしれないけれど、どうやら名前由来のものでもあるらしい。

 マチルダは心配そうな調子で続けた。


「最近、マダムの寝室に少年が現れるの。深夜の、二時とかに三時くらいかしら。もちろん、生身の少年じゃないわ。幽霊みたいなんだけど、でも、幽霊とも少し違うの。その子がベッドの脇でずーっとすすり泣いているのよ。害はないようだけど、なんだか薄気味悪くって」


 なんだかチーズオムレツが急に冷めたみたいに思えた。夜な夜な現れてはすすり泣く少年の幽霊……恐ろしすぎる。僕はぞっとするのを抑えながら、ウルフの方を窺った。

 彼の表情は今日のロンドンの空みたいになっていた。


「その少年、何か言っていませんでしたか」

「よく聞き取れなかったけれど……冷たい、冷たくなる、とかなんとか」

「……そうですか」


 ウルフは考え込むように、しばらく額に手を当ててうつむいていた。険しい顔つきに何だか不吉なものを感じて、僕はフォークを止めた。それはマチルダも同じだったらしい。尻尾が揺れる。


「レディ、あなたはグランマと話していますか?」

「いいえ。長い付き合いだけど、それはさすがに」

「では、私からお伝えしましょう。それでもし行動する様子がなかったら、あなたからも働きかけてください」

「何を伝えるの? 何が起きてるの? ねぇ、あたし回りくどいの嫌いだわ。はっきり言って!」


 猫の詰問に、ウルフは顔を上げて躊躇いがちに言った。


「グランマに、病院へ行くように、と」


 尻尾がぴたりと止まった。僕の息もちょっとだけ止まる。


「その少年は悪いものではありません。ただ異変を感じ取り、未来を予言するだけの存在です」

「……異変って、病気?」

「ええ」

「それじゃあ、未来は? どんな未来を予言しているの?」

「それは――」


 ウルフはじっと猫の瞳を見つめた。


「――死が近いかもしれない、ということです」


 息を呑む声が悲鳴のように聞こえた。

 詰め寄ろうとしたマチルダを遮るように、ウルフは首を振って目を伏せた。


「自分の目で見ていないので、見立て違いの可能性は大いにあります。ですが、とにかく、病院へは必ず行くようにしてください。私が間違っていたならそれでいいのです、その方がいい。ですが、万が一ということがないとは言えません。事が起きてからでは遅いので……」


 どうか後悔なさらないように。

 かすかに潤みを帯びた声には万感が込められていた。いや、万感、なんていう言葉じゃ生温い。フォークを持ったままの手は握りしめられて色を失い、ごくわずかに震えていた。

 それを見て、マチルダも察したらしい。


「……分かった。病院のことはあたしから言うわ。ありがとう」


 小さくそう言って、テーブルから飛び降りていった。

 力なく垂れた尻尾が階段の上に消えるのを見送って、ウルフは大きく、溜め息のような息を吐いた。


「大丈夫?」

「ええ、問題ありません」


 ウルフは言葉通り、問題なさそうに微笑んでみせた。それからフォークを握り直して、またサーモン・パイとバゲットを頬袋に詰め込み始める。僕はオムレツを崩しながら、この間の授業で教授が言っていた等差数列の話を始めた。それ以外、人の死ともこの店とも、映画や俳優とも関係ない話題が見つからなかったのだ。

 僕の気遣いを彼が理解していたかどうかは分からない(ウルフは鈍いからね)。でも、彼は僕が話している間中ずっと面白がるように目を細めていて、サーモン・パイと大量のバゲットをぺろりと平らげてしまった。話すのに夢中になっていた僕の方が慌ててオムレツを口に押し込んだくらいだ。

 店を出ていく時、グランマはカウンターの向こうで安楽椅子をゆっくりと揺らしながら、優しい手つきでマチルダを撫でていた。そして、僕らが通りかかったことに目敏く気が付くと、ピッと視線を上げて、琥珀の指輪を着けた指を上下させた。それはグランマ流の「またおいで」という言葉である。

 僕はうっかり目を逸らしそうになったのをぐっとこらえて、いつものように片手を挙げた。



 それからしばらくして、グランマはこの世を旅立った。


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