43.失われた約束

「ユリウス、まだかな。ねぇ小鳥さん、ちょっと向こうまで見てきてくれない?」


ニコニコと笑いながら指の先に止まっていた小鳥を、空へと優しく飛ばす少女。小鳥は一声二声、美しく鳴きながら大空へと飛び立った。


「ユリウスか」


聞いたことのあるような、ないような。少し古風ではあるが、どこにでもあるいたって普通の名前だ。大切そうに呼んでいたし、きっとその人はこの少女の大切な人なのだろう。


それにしても長い夢だ。欠伸をすれば、夢の中にいるはずなのに眠くなってきた。

そうしてウトウトしていたら、世界が暗くなってきた。どうやら、日が落ちたらしい。夢のくせに、そんなこともできるのか。俺がすごいのか、それとも夢がすごいのか。


ふわふわと浮きながらも下を向けば、驚くことにそこにはまだ、あの少女がいた。少女の顔は見えない。眠ってしまったのだろうか。

少しだけ心配になり、少女のすぐ近くまで寄ってみた。

少女は膝を抱えている。その膝に頭を預け、小さくなっている。身体が震えているのをみるに、きっと寒いのだろう。

やがてそう時間も経たないうちに、空が完全に闇に包まれた。月光はなく、空には分厚い雲が覆っている。雲行きが怪しくなってきたな、と思った瞬間、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。

初めのうちは、ぽつりぽつりと緩やかに降っていた雨も、やがてどんどんと勢いを増し始めた。粒も大きく、量も増えてくる。ザーザーとすごい音を出しながら降る雨の中、もちろん俺が濡れることはない。


少女を見やる。少女の身体はぐっしょりと濡れていた。カチカチという音は、少女の歯が鳴っている音だろうか。それほどの寒さを感じているはずなのに、少女はどうしてそこから一歩も動かないのだろう。


このままでは風邪をひいてしまう。少女が寒そうに震えている姿を見るのは、夢とはいえ胸糞悪いものだ。


「…ウス、ユ……」


小さく呟いている少女の言葉に、何事かと耳を傾けてみれば、彼女がつぶやいていた言葉はあの男の名前だった。


「…どうして、いったい、なにが…」


少女は勢いよく咳き込んだ。そうして胸を抑え、前から崩れ落ちる。


なんてことだ、と俺は少女に駆け寄った。実態はなくても、ある程度の様子は分かる。彼女の顔をみれば、その頬は赤い。雨に降られて体調を崩してしまったのだろうと、俺は一瞬で察した。彼女のハァハァとつらそうな息遣いから、熱が高いのだろうと予測する。思わず実態のない手のひらを少女の額に置いた。もちろんのことだが、温度はわからない。だけどその瞬間、何故か少女が俺の方を向いて微笑んだ。


「ユリウス、だね」

「え?」


少女の手がこちらへ伸びた。


「っ」


疑問と戸惑い、そして少しの恐怖とともに、無意識に後ろへ下がる。その拍子でこちらへと伸ばしていた少女の腕が、ぱしゃりという水音とともに、力なく地へ落ちた。


今のは。


怖々と少女を凝視する。少女は確かに俺をまっすぐに見ている。その瞳にはなにも写っていない。ならば、彼女は一体何を見ているのだろうか。

俺の身体は実態のないものだったはずだ。

それなのに、少女は俺を見ている。微笑んでいる。その瞳は俺を捉えて、離さない。

頬に感じた冷たさは、確かに生身の人間の温度だった。


「ユリウス、ねぇ、どうして? 私、ずっーと、待ってたのに。何があった、の」


彼女はそうやって息荒く尋ねる。虚空へ。けどそこには何もいない。誰もいない、はずだった。

それでも少女はこちらを見ている。

薄気味悪く感じながらも、俺は仕方なしに少女の傍に近づいた。


「その、あんたがいうユリウスって人はここにはいない。俺はアロイスだ、あんたの待ち人じゃない」


そう言えば、少女の瞳には、見る見るうちに涙が溜まった。


「お願い……ユリウスに、会わせて、お願い……それだけでいいの」


少女が震えながら伸ばした手が、今度は確かに俺の手のひらに触れた。まるで氷のような冷たさだ。冷えきったその手を少しだけ見つめた後、俺はすくりと立ち上がった。


「わかった。連れてくるよ」


どうしようもない気持ちに駆られた。少女を憐れむ気持ちと、罪悪感。そして、焦燥感。少女は俺の言葉を耳にすると、安心したかのように微笑みゆっくりと瞳を閉じた。寝入ってしまったらしい少女の横顔はひどく安らかだった。


このままでは命に関わる。すぐにユリウスとやらを連れてこなければ。


「それにしても、ユリウス、か」


その名を呟いた瞬間、またも景色がぐわりと飛んだ。




「ねぇ、あのね。


ユリウスはね、来なかったの。


病に伏したわたしの目の前に現れたのは

二週間も経ったあとだった。


あなたの血を

あなたの体を持った


わたしの 愛しい人。


愛しくて  憎い人。」





急激な吐き気に襲われて目を覚ました。


「っはぁ、はぁ、はぁ……」


目の奥がチカチカする。頭がやけに重く、腹にはまるで鉛でも乗っているかのような鈍い痛みを感じる。何度か瞳を瞬かせて呼吸を整えていれば、やっと現状が見えてきた。

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Azure Rapsodia 潁川誠 @yuzurihamako

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