ポチャン。

「あ」

 何処までも広がる大海。そこに浮かぶ木製の小舟の上で、麦わら帽子を被った三編みの少女は間抜けな声を出した。

 彼女が急いで水面を覗くと、そこには小さなコンパスが銀色に輝きながらゆっくりと落ちていった。

 一体何があったか。

 答えは簡単。方角の確認を行う為に少女がコンパスを見ようとした時に手が滑り、コンパスが海に転げ落ちたのだ。

 水面を覗きながら、少女は溜息を付いた。

 そこそこ高かったコンパスを落とした事自体もそうだが、何よりも方角の詳しい確認が出来なくなったのが痛い。

「……仕方ないか。太陽とか星を見れば一応の方角は分かるし」

 少女はそう言った後、革袋から地図を取り出した。

「何というか、ここ最近出費が激しい気がするな……。気をつけないと」

 彼女がそう呟きながら地図を眺めていると、少女はこの辺りにとある国が存在する事が分かった。

 その国の名前を見た時に、彼女は首を傾げた。

「そういえば、前にこの国について何処かで聞いた事あるな」

 何処でその国の事を聞いたかを思い出そうとするために彼女は暫し考えたが、どうしても思い出せなかったので考えるのを止めた。実際、今彼女にとって重要な所はその国の事だからでもある。

「確か、「『正しい事』を行う国」だっけ」

『正しい事』。その国における『正しさ』が世間一般における物と同じであれば、少なくとも門前払いされる事は無いだろう。

「とりあえず行って見よう。ここからだとどのくらいでいけるかな」

 そう呟いた後、親指と人差し指を伸ばして地図に当てて大体どの位で件の国に着くかを測った。正直このやり方だと不正確すぎるが、正確な測量の為の道具を持っていない。

 いい加減それも買おうかな、と呟いた後に少女は測量を終えた。

「えっと、大体一日位船で行けば着くみたいね」

 それじゃあ行こうかな、と言うと彼女は地図を革袋に仕舞うと、彼女はその国に向かう事にした。




「よいしょっ、と」

 約一日後、彼女は件の国の近くにある崖の下に小舟を停めた。この国は国内に港が無いらしく、彼女の小舟では入れないのだ。

「さすがに崖を登るのは厳しいから、緩やかな所を探して迂回しよう」

 そう言った後、少女は革袋を肩に担いで歩き始めた。直に登る訳では無い為多少はマシだが、それでも山道を登っているような物だ。まして、まだ年端も行かない少女にとっては尚更辛いだろう。

 結局、彼女は1時間程かけて崖を登りきった後、革袋を地面に降ろして、息を整え始めた。

「ふぅ、あまり山登りみたいな事はしないから、疲れたな……。でも、あの国まではそこまで離れてないみたいだし、頑張ろう」

 そう言った後、再び革袋を担いで件の国に向かった。




 日が沈み始めた頃、少女は国に着いた。

 石造りの壁に囲まれており、国の内部を見る事は出来なかったが、近くに入出国用の門があったのは助かった。彼女が入国する為に門に行くと、門の前に立っていたジャケットを着てズボンを履いた女性が少女に話し掛けて来た。

「あら、小さな旅人さんね。こんにちは」

 少女がその言葉に頭を下げて返すと、女性は続けて「小さな旅人さんは、どうしてこの国に来たのかしら?」と聞いた。

 少女が「コンパスを落としてしまったので、新しく買おうかと」と返すと、女性は「あら、そうなの?」と言った後にズボンのポケットからメモ帳の様な物を取り出した。

 彼女はそれに何かを書いた後、メモ帳からそのページを破りとって少女に渡した。

「門を潜ってから、西の方に十分位歩いた所にある雑貨屋でこれを見せれば、無料でコンパスを渡してくれる筈よ」

 その言葉を聞いた少女が紙切れを見てみると、そこには『この娘は旅人で、コンパスを欲しがってるから渡してあげて下さい』という内容が、女性の物と思われる名前と一緒に書いてあった。

 少女は「……ありがとうございます」と言うと、その紙切れを受け取った。

「良いのよ。『正しい事を』、それがこの国のルールだから。旅人さんには優しくするのは正しい事でしょう?」

 そう言った後に、女性は門を潜って行った。少女は紙切れを折り畳むと、ワンピースのポケットに入れた。

「とりあえず、あの人が言ってた雑貨屋に行こうかな。確か、西側にあるんだっけ?」

 少女は門を潜ると、言われた方に歩いて行った。




 女性の言っていた雑貨屋はこじんまりとした外観をしており、商品棚には筆記用具や菓子等、様々な物が並んでいた。

「こんにちは、何か買ってくかい?」

 商品の陳列を行っていた店員と思われる中年の男は、店に入って来た少女を見るとそう話しかけた。

 少女はポケットから紙切れを取り出すと、「あの、門の前でこれを見せるように言われたんです」

 店員はそれを聞くと「あぁ、そう言う事か」といって、その紙切れを見た。

「なるほど、コンパスが欲しいのか。ちょっと待っててくれないか?」

 その言葉の後、彼は店の奥に入って行く。そして数分後、彼は布包みを抱えて戻って来た。

 店員は包みをカウンターに置くと、こう言った。

「ほらよ、これでどうだい?」

 少女はカウンターに行くと、包みの布を剥がした。そうして包みの中身を見た少女は、少し驚いた表情をした。

 包みの中には銀製のコンパスが入っていた。しかし、それは美しい細工が施されており、少女の使っていた物よりも高価だという事が一目で分かる。

 少女は「あの、本当に貰っても良いんですか?」と店員に尋ねた。彼は少女の問いに「ああ、大丈夫だ。それとも、気に入らなかったか?」と返す。少女が「いえ、ありがとうございます」と言うと、彼は「別に良いさ。正しい事をしただけだしな」と言ってニッと笑った。

 少女はコンパスを受け取ると、店員にぺこりと頭を下げた後に雑貨店を出た。




「喉、乾いたな」

 雑貨店を出た後、少女は呟いた。

 コンパスは買ったので、正直この国でやらなければ行けない事はもう無いが、何となく喉の乾きの様な物は感じる……少女はそんなフリをした。そうでもしないと、必要な訳でも無いのに飲み物を飲む事になるので、不自然な気がするからだ。どうにも、彼女はこの点だけは割り切れない。

 とりあえず、少女は少し歩いた所にあった食品店に入る事にした。

「いらっしゃい」

 少女は店員の男に会釈すると、棚からオレンジジュースを探し始めた。幸いにも、銀色の缶に入ったジュースはすぐに見つける事が出来、更にそれは身長の低い少女でも取れる所に置いてあった。

 少女はオレンジジュースを手に取ると、店員に渡した。しかし、店員はすぐに缶を少女に返した。

 店員は少女に「嬢ちゃん、旅人だろ? それはやるよ。旅人には優しくしないとな」と言った。

 少女は缶を受け取ると、それに対し「それは『正しさ』でやっていることなの?」と聞いた。

 店員が頷くと、彼女は続けて聞いた。

「何で、この国の人達はここまで『正しさ』を意識してるの?」

 少女のその問いに対し、彼は「一応、平和な国を創るため、らしい」と答えた。

「一応?」

 店員は彼女の顔を見ると、言葉を続けた。

「実際は平和な云々の押し付けになってるんだけどな。……見たら分かるさ」

 それを聞いた少女は「解りました」と言った。



 彼女は広場にある噴水の端に座り、先程買ったオレンジジュースを飲んだ。

 そうしていると、近くから怒鳴り声が聞こえてきた為、彼女はその方向を向いた。

「……えっ?」

 そこでは複数人の男女が、一人の男性を囲んで暴力を振るっていた。暴力を受けている男性は蹲って「すみません、すみません……」と繰り返していた。しかし、彼らは男性の言葉を無視して、暴力を続けた。不思議な事に、誰も彼らを止めようとしないのだ。

 少女は彼らの方に向かうと「ねぇ、何をやってるの?」と聞いた。彼らは男性を殴る手を止めると、その内の一人が少女に言った。

「あぁ、こいつは列に横入りしやがったんだ。『正しい』事をしない奴は屑だ。だから俺達が制裁しないといけないんだよ」

 彼の言葉を聞いた少女は、彼らに対してこう言った。

「なるほど。だから誰も貴方達を止めなかったのね。……貴方達は、自分が『正しい』といえば、それが貴方達にとって『正しい事』になるのね?」

 彼女の言葉に対し、彼らは「もちろん。『正しい事』を行うのがこの国の一番のルールだからな」と返した。

 そう言った後、彼らは男に再びリンチを始めようとした。しかし、その顔は楽しんでるように見える。

「……」

 少女は噴水から降りると、革袋を担いで歩き出した。すると、男の一人が少女を見て問いかけた。

「なぁ、アンタもこいつは『正しくない』奴だと思うよな?」

 その問いに、少女は思った通りにそう言った。

「少なくとも、大義名分を盾にリンチをしている貴方達の方が『正しくない』と思うけどな」

 少女の言葉に、男は顔を赤くして返す。

「なっ……お前は俺達が『正しくない』って言うのか! 俺の聞いた事が分からないのかよ!?」

 そう言われた時、彼女は頷いた。すると、男はより一層顔を赤くした後に殴りかかろうとした。

 しかし、それを見た少女は「あれ、良いの?」と言った。

「少なくとも、まだ私は貴方に何もしてないけど。言われた事が気に入らなかったから殴るのは『正しい』事なの?」

 それを聞くと、男は顔を赤くしたまま、言葉に詰まった。それを見た少女はこう呟いた。

「なるほど、あの店員の言ってた意味がよく分かったわ」

 自分達の『正しさ』の押し付け。

 その結果がこの国なのだろう。

 少女はそう言うと、入出国門へと歩き出した。



 少女は苦労して崖を降りると、小舟に乗った。

「はぁ……」

 少女は小舟のオールをゆっくりと漕ぎ始めた。

 ふと、暴力を受けていた男性の事を思い出した。

 あの時、仮に少女が庇ったとしても、何も変わらなかっただろう。

 世界とは、そう言う物なのだから。

 少女は地図と新しくしたコンパスを取り出すと、次の国を選び始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海の上 月十字 @mooncross

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ