ファイナルカウントダウン ――調査のために市の街に向かう私――


「愁さんの話では、このウィルスは飛沫感染しかしないということだったが、もしかしてウィルスが変異したのかな?」


 慎二先生と橋本先生はずっと空気感染はあり得ないと主張している。その主な理由は、以前観測したキメラウィルスが、空気中のしぶきの中で水分が蒸発するとそのまま落下するため、しぶきが漂う二メートル以上には達しないというものだった。


「突然変異する可能性は少ないと思います。キメラ自身が二つの遺伝子が融合してできているので、ウィルスとしては謎が多いですが、そう簡単に変異するとは思えません」

「橋本もそう言っていた。だが、今の感染状況は飛沫感染としては強力すぎる。感染して二週間程度無症状ならそれも理解できるが、十八時間以内に発症するウィルスとは思えない。何か論理がおかしい方向に流れている気がする」

「確かにそうですね。マスコミもわけが分からず、情報を垂れ流す状態になってます」

 慎二先生が思いつめたような顔で言った。


「柊さん、もう現場に行って調べてみるしかないんじゃないか?」

「現場って?」

「既に大感染地帯になってしまった小田原か、横浜あたりに行って現地の様子を見てみたら何か分かると思うんだ」

「そんなことして感染したらどうするんですか?」

「もちろん完全武装で行くさ。もうここにいて届く情報を分析するだけじゃあ、いつまでたっても埒があかないと思うんだ」

「そんなこと言って、慎二先生に何かあったら、志津恵さんや木乃美ちゃんはどうするんですか! 慎蔵先生や満江さんだって……私が行きます。私は抗体があるから簡単には感染しません」


「ダメだ! 柊さん一人では感染地帯に入れてもらえない。ここは俺の慶新大医学部準教授の肩書が必要なんだ。柊さん分かってくれ。これは木乃美や志津恵のためにやるんだ。二人を守るためには、このままウィルスが来るのを待っているわけにはいかないんだ」

 慎二先生は覚悟を決めて、凄い形相になっていた。もう止めることは無理だと分かった。


「分かりました。行きましょう。行って感染の謎を解きましょう」

 私たちは早速現地に行く準備を始めた。まずは空気感染を防ぐためのN95マスク、プラスチックグローブ、アイソレーションガウンなどの手術用品、そして消毒液などをバッグに詰め込む。採取用に厚手のビニール袋も用意した。

「何をしてるのかな」

 声のする方を振り向くと橋本先生が立っていた。いつものクールな表情が気のせいか紅潮しているように見えた。


「俺に黙って宝さがしに行くつもりか」

 心外と言わんばかりの表情で近寄って来る。

「橋本、お前はダメだ。お前がいないと対策本部は司令塔を失う」

「何、言ってるんだ。俺が行かなきゃ、お前たちだけが行っても何もできないだろう」

「ダメだ、危険だ」

「その危険なところにお前たちは何で行く。ここにいても埒が明かないと思ったからだろう。俺だってそうだ。もう現地にしか手がかりは残ってないんだ。秋永、誘うならなぜ俺を誘わない。三上さんは素人だろう」


 私と慎二先生は言葉を失った。橋本先生の目は本気だった。絶対に二人では行かせないという決意に満ちていた。確かに調査には感染症のスペシャリストは不可欠だ。

「馬鹿が三人だな」

 慎二先生が笑いながら言った。


 我々は支度を終えて、車に荷物を積むために医局を後にした。廊下を歩いていると、毬恵さんが目の前に立ち塞がった。

「どこに行くつもり」

 毬恵さんの顔は怒りで白くなって壮絶な美しさを醸し出していた。


「ちょっと宝探しに」

 毬恵さんの平手打ちが左の頬にさく裂した。冗談は通じなかったみたいだ。

「何が宝探しよ。馬鹿なんじゃない」

 馬鹿はさっき慎二先生が自分で言ってた、と言おうとしてぎょっとした。

 毬恵さんの目から涙が出ていた。


「柊さん、先に行くよ。あんまり遅くなるようなら置いていくから」

 慎二先生と橋本先生がそそくさと駐車場の方に向かう、逃げた!

「先生たちならともかく、あなたが行ってどうするのよ」

 毬恵さんの追及は厳しい。

「いや、こんな私でも行けば役に立つみたいで」

「私はどうなるの。不安な気持ちで待ってろって言うの?」

「ごめんなさい。でもどうしても行かなきゃいけないんだ。今、やらないと後で絶対に後悔する。もう悪魔はすぐそこまでやって来てるんだ」


 毬恵さんわっと声をあげて泣き始めた。私もかける言葉がなく彼女を抱きしめた。恐ろしく細い肩が細かく震える。絶対に守ると心に誓った。

「絶対に帰って来てね」

 まだ涙の止まらない毬恵さんはやっとそれだけを言った。

「絶対に帰って来る。独りにはしないから」

「もし帰って来なかったら、私も死ぬからね」

「分かったから」


 毬恵さんの身体を放して、慎二先生たちの後を追った。

「おっ、説得できたのか。さすがに来るのはちょっと難しいかなと二人で話してたんだ」

 慎二先生がニヤツキながら冷やかした。

「彼女は聡明な人ですから」


「まあいい。時間が惜しいから行こう」

 まだ何か言いかけた慎二先生を橋本先生が制してくれた。もう荷物は全部車に積んであったので、すぐに出発した。


 小田原迄の道は交通量が激減していた。おかげで死地への行程が捗る。あっという間に沼津を超えた。

「それにしても、本当に空気感染ってあるんですかね」

「いや論理的に考えると有り得ない。キメラウィルスが長時間感染力を失わない状態で、空中を漂うとは考えにくい。空気感染は感染地拡大の要因にはならないよ。しぶきである限り、一定距離を飛んだら重力に従って落ちていくし、しぶきに羽が生えてるわけじゃないんだ。タンポポの種子みたいに空を飛べるわけがない」

 タンポポの種、ウィルスに羽が生えて飛んでいく様子を、妙にリアルに想像してぞっとした。


「しぶきに羽が生えたら怖いですね」

 誰も相手にしてくれなかった。


 小田原に入る手前で検問があった。食料運搬など許可のない車は通れない。

「慶新大医学部准教授の秋永と橋本です。キメラウィルスの研究のため、ここを通してください」

 慎二先生が身分証を出して警察官に許可を求めた。

「政府の発行した許可証が無い限り通すわけにはいきません」

 案の上きっぱりと断られた。だが簡単に引き下る慎二先生ではなかった。


 なおも押し問答を続けていると、別の警察官がやって来て、

「富士沢市の東市長から電話があって、この三人の感染地への派遣は行政としても、緊急で依頼したことだそうです」と告げた。

 これが決め手になって、無事通過できた。小田原市内に入っても交通量は疎らだった。政府系の車以外見当たらない。


「どこに行く?」

 慎二先生が橋本先生に観測地点を訊いた。

「小田原には確か慶新大の研究施設があったよな」

「ある。総合科学科の研究施設がある。そこなら」

「ああ、電子顕微鏡など観測に必要な機材も一通りある」


 行く先が決まった。それから十分ほどで目的地に着く。

「まいったなぁ。誰もいなそうだぞ」

 慎二先生が車の中でため息をつく。

「とりあえず事務所に電話してみよう」

 橋本先生が電話すると運がいいことに事務員がいた。身分を明かし、電子ロックを解除してもらう。


「慎二、もし誰もいなかったらどうするつもりだった?」

 橋本先生がいたずらっ子っぽく訊く。

「もちろん窓をぶち破って入る」

 インテリとは思えない荒っぽい二人だった。


 車を降りると、黒いボディに張り付いた花粉が目についた。

「すごい花粉ですね。こんなに張り付いてる」

 私の言葉を聞いて、慎二先生はポツンと呟いた。

「まるで棺桶に手向けられる花のようだな」

 冗談になってなかった。悪趣味だなと思いながら、張り付いた花粉を見てふと思った。


「橋本先生、羽があったかもしれない」

 ええっと、マスク越しに怪訝な顔をする橋本先生の前で、マスクを外して外気を思いっきり吸い込んだ。

「おいっ」と橋本先生が咎めるように声をかける。

 私の脳内のマイクロチップが即座に反応した――キメラウィルス感知!

 マスクを元に戻して大声で言った。

「花粉ですよ、ウィルスは花粉に乗って飛来するんだ!」


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