ファイナルカウントダウン ――全てはこの手に委ねられた――


「旨いですね」

 私たちは電子顕微鏡が設置された研究室で、置きっぱなしになっているコーヒーを勝手に飲んで、休憩していた。アイソレーションガウンやマスクはビニール袋に押し込んで、明日焼却する。


 橋本先生は着く早々、電子顕微鏡で花粉に付いたキメラウィルスを撮影したばかりだ。

「ああ、空気感染の謎が解けたな」

 橋本先生はまだ物足りなそうだった。

「早くも成果が出たな。順調だ」


 慎二先生も満足そうだ。だがまだゴールではない。感染の拡散防止に多少は効果があるかもしれないが、まだウィルスを撃退する決め手を得られたわけではない。


「橋本、さっきの写真にお前のコメントを付けて、インターネットで発表しろ」

 慎二先生の言葉に橋本先生はなぜか躊躇している。

「俺の手柄にするわけにはいかない。花粉が媒体であることに気づいたのは三上さんだ」

「そんなこと関係ない。今はお前の名前で発表することに意味があるんだ」

 全てを知っている慎二先生は、強引に話を通そうとした。


「いや待て、発表の前に確かめたいことがある。三上さん、あなたはいったい何者なんだ」

 ついに私の正体に橋本先生が疑念を抱いてしまった。全てを知っている慎二先生は心配そうな顔で私を見る。

「慎二、お前何か知ってるな。とにかく俺たちは命を賭けてここまで来たんだ。ここに来て隠し立てはしないでくれ」


 橋本先生の言葉は心に響いた。ここまで来たら話さなければならないと思った。慎二先生に目をやると、観念したように上を見上げていた。


「あなたの推測通り、私はこの世界の人間ではありません」

 橋本先生は私の言葉を予感していたにも関わらず、実際に自分の耳で真実を聞いて、目を丸くした。

「もしかして宇宙人とか?」

「宇宙人ではありません」

「それじゃあ、何なんだ」

「あなたと同じ人間です。橋本先生パラレルワールドってご存じですか?」

「パラレルワールド?」

 橋本先生は医学が専門なだけに、物理学の理論には詳しくないようだ。


「アインシュタインはご存じですか?」

「もちろん知っている」

「じゃあ、ミンコフスキーはご存じですか?」

「だいたい知ってる」

「彼が相対性理論を下敷きにして、空間を示す三つの次元と、四つ目の軸である時空を加えた幾何学モデルを示しました。これにより、現在の空間の一部分を維持したまま、時空を行き来することが理論上可能だとされたのです」


「タイムトラベルということか」

「そんな感じです。タイムトラベルは一つの時空間の中での行き来ですが」

「よく映画やテレビドラマではあるな」

「そう、タイムワープは所詮フィクションの世界で、過去における行動が未来に影響を与えるなど、いろいろと制約がありました」

「そうだな。そういう話だったと思う」

「しかし、この理論では時空は光速で進むので、光速を上回るスピードで移動しないと、時空を超えることはできません。光より早い粒子は存在しないので、現実では不可能なことなのです」


「そうなのか。じゃあ、三上さんは未来から来たとかそういう話じゃないんだな」

「ところが後の研究で強い重力の影響下では、ミンコフスキーの提唱した空間は、時空が歪むことが示されました。歪んだ空間が多様な接面を要するようになって、これにより五次元目の軸が誕生します。そして強い重力によって五次元目の軸を超えると、時空の違う次元に存在する空間に移動することが可能になるんです」


「それはタイムトラベルじゃないのか?」

「違います。あくまでも今いる時間の流れとは異なる別世界なんです。これをパラレルワールドと呼びます」

「じゃあ、三上さんは別の次元にある空間から来た人なのか?」

「そのようです」


「どうやって来たんだ?」

「正確には分かりませんが、私がこの次元に来る前に、二万年周期でやって来る巨大彗星が地球に接近しました。この彗星によって重力バランスが崩れて、私はこの世界にやって来たんだと思います」


「その世界は文明が発達していたのか?」

「はい、時間はもっと進行していて、この世界の千年後の三一世紀となります」

「三一世紀!」


 橋本先生の鋭敏な頭脳をもってしてもオーバーフローしかけている。やはり慎二先生のように感性で受け止める人間でないと理解しがたい話かもしれない。

 それでも橋本先生は飲み込んだ。キメラに侵食されそうな状況下で、彼の精神も多少の無理はどうでも良く成ったのかもしれない。


「それで三上さんの世界ではキメラウィルスは出現したんですか?」

「はい、私の元いた世界では二二世紀に発生して、世界の人口を半分にまで追い込んでいます。だが、ワクチンと治療薬が開発され、二三世紀には克服されました」

「そうなんですね。それでワクチンや治療薬の成分は分かってるんですか?」

「それは分かりません。」

「そうですか」


 橋本先生はがっくりと肩を落とした。

 この話を持って、私に対する追及は終わった。

「とにかく、今日の成果をネットを通じて発信しよう。それはお前の義務だ」

 慎二先生は事務的に橋本先生に次の行動を促した。橋本先生も義務的にキメラの空気感染の正体を発信した。

 三人の間にどんよりとした空気が流れる。無理もない、これからの道程こそ険しくて命がけの道程なのだ。


「でも不思議なのは、ウクライナとロシア西部の人たちに、死亡者が極端に少ないことですよね」

 私はかねてから持っている疑問を口にした。

「三上さんの知識にはそれに関する情報はないのですか」

「ないです。おそらく次元が違うから、細部は少しずつ違うのかもしれない。発生年代からして違うし、私の生まれた次元では発生地はコンゴでしたから」

「コンゴですか。コンゴに原発事故が起きたのですか?」

「そうです。アフリカ初の原発がメルトダウンしたのです」


 あまりの世界構造の違いに、二人とも興味を失ってしまった。少なくとも今のミッションにおいては、もはや私の情報は当てにならないと感じたのだろう。

「もう、寝ますか」

「そうだな、今日は移動で疲れたしな」

 私の提案に、慎二先生が同意した。それは明日こそ何かを掴むための、束の間の休息であった。



 今日も快晴で花粉が強い。窓の外は花粉に乗ったウィルスがそこかしこを漂っている。

 橋本先生の発信は世界中で反響があった。グレートな発見だと賞賛を浴びた。

 しかし一方では、これで逃げ場が無くなって、希望が根こそぎ奪われてしまったと、ネガティブな意見も散見した。それはそれで正しい意見ではあった。


 植物が媒体だったことに驚きの声も上がった。今までウィルスと言えば動物を媒体するものという固定観念が奪われたことへの驚きだった。

 その声を聞きながら、ふと植物というワードに心が動いた。植物とは本来動かないものである。その地に根を降ろし、環境を決定づけるものだ。


 キメラウィルスは放射線の作用で生まれたウィルスだ。いわば環境が生んだ悪魔なのだ。

 ではかの地で環境が影響を及ぼしたのはウィルスだけなのだろうか?

 その地に根付く植物に影響はなかったのか?

 インスピレーションが全身を貫いた。


 今日の活動準備をしている二人の下に走り寄る。

「もしかしたら、植物かもしれません」

「何が?」

 慎二先生は疲れが出たのかだるそうに訊いた。

「ウクライナとロシア西部で死亡者が少ない理由です」

「どういう意味ですか?」

 橋本先生もややだるそうに訊いて来る。


「放射線が影響を与えたのは、キメラウィルスだけじゃないかもしれません。放射線はウクライナで食材と成る植物に遺伝子変化を起こして、キメラへの耐性がある成分を作りだしたのかも?」



 二人共、ボーっと私の顔を焦点の合わない目で見ている。何か反応が遅い。

「それも考えられるな。ウクライナの植物系の食材と言うと」

 橋本先生がスマホで検索を始めた。

「ウクライナと言えばボルシチだろう」

 慎二先生が不必要な大声で答える。

「ボルシチと言えば……」

 それは分からないらしい。三人でボルシチを検索する。

「ビーツ」


 三人の声が揃った。それはカブに似た野菜であった。

「とりあえず、ウクライナ産のビーツを探してみましょう」

 またもや三人で小田原のウクライナ料理店を検索する。

「よし、ヒットした」

 今度は慎二先生が早かった。


「じゃあ、電話してみる」

 慎二先生がすぐにダイヤルする。すぐにつながったようだ。

「もしもし、私は慶新大学の秋永と申します。そちらにウクライナ産の野菜でビーツはありますか」

「はい、そうですか、分かりました」

 慎二先生が電話を切った。


「どうでしたか?」

「ウクライナ産の野菜はないそうだ。政府が輸入食材禁止を打ち出しているので、ウクライナ産どころかロシア産だってないと言っている」

 思わず力が抜けた。

「ダメか……」

「いやそれで、横浜にもっと本格的なウクライナ料理の店があるそうだ。そこなら使ってないが食材としてストックしたビーツがあるかもしれないと言っていた」

「何という店ですか?」

「なんでもそこの店長は知り合いらしくて、あるかないか問い合わせて俺の携帯にかけなおしてくれると言われた」


 慎二先生らしくないぬるいやり方だった――どうしたんだろう。

 しばらく待つと慎二先生のスマホに電話がかかった。

「はい、秋永です。ありがとうございます。え、ありましたか。はい、分かりました。横浜元町のビストロキエフですね。電話番号は――はい、分かりました。ありがとうございました」

 慎二先生の電話が終わった。希望を込めて訊いた。


「いかがでしたか?」

「ビンゴだ。ストックはあるそうだ」

「よし」思わずガッツポーズを取った。

「ちょっと待て、おい橋本どうした」

 慎二先生が先ほどから声が出ない橋本先生に気づいた。

「さ、わ、る、な」

 橋本先生は切れ切れの声で我々の接近を制した。


「柊さん、マスクと手袋をしよう」

 慎二先生に言われて、慌てて新しいマスクと手袋を着用する。

「俺はウィルスにやられたようだ。横浜には二人で行ってくれ」

 緊急事態だった。橋本先生が感染してしまった。慎二先生が考え込んでいる。

「橋本先生、一緒に行きましょう」

「えっ、柊さん、橋本はもう」

「だからですよ。どうせビーツを食べてみないと、効果は分からないじゃないですか。即効性があるのかどうかも」

「フフ、おれは、実験、台か」

 もう話すのも苦しそうだ。

「そうだな、よし、三人で行こう」


 橋本先生に肩を貸して車に乗り込む。研究施設の事務員には、我々の泊まった部屋と会議室には、鍵をかけて絶対に中に入らぬように念押しした。

「じゃあ、希望の旅に出発だ!」

 慎二先生は高らかにそう宣言して車を発進させた。


 小田原から横浜に向かうには、複数のルートが存在する。今回は信号が煩わしくない高速道路を使うルートを選択した。小田原厚木道路に入ると車の姿はまったくなかった。

 後席では橋本先生がぐったりとしている。車に乗り込む前に駐車場で一度吐血している。

 感染したのはおそらく、昨日研究施設に着いて車を降りたときだ。あのもの凄い花粉が舞う中に降り立った時に、肌の露出した部分からキメラを取り込んでしまったのだ。


 研究施設に着いたのが午後十二時頃だったから、そこから十八時間後の今朝六時あたりから橋本先生は発症したのだろう。そうなるとタイムリミットは今日の十二時あたりだ。

 伊勢原を過ぎて東名高速に入る。ここから横浜町田インターまでにできるだけタイムを稼ぎたいところだ。小田原を出て、まだ十五分しか経っていない。慎二先生はタイムレースであることは重々承知という飛ばしぶりだった。


 東名を走り始めて五分経過したところで、突然車が減速して路肩で停車した。

「どうしたんですか?」

 声をかけると慎二先生がドアを開けて車の外に出た。出ると同時に咳き込みながら吐血した。

「慎二先生、もしかして……」

 慌てて車外に出た私に振り向いた慎二先生の顔は真っ赤に染まっていた。

「悪いな柊さん、俺も悪魔にやられたようだ……」


 アドレナリンが大量に分泌して身体が熱い。

 慎二先生がリタイアしたので、無免許ながら運転することになった。操作自体はマイクロチップの制御によって身体が自然に動くが、初めての体験にメンタル的に追い込まれる。


 幸い周りにほとんど車がいないので、余計なところに神経を使わずにすむ。

 後席には橋本先生と慎二先生が二人でぐったりして座っている。まったく言葉が出ないが、もしかしたら眠っているのかもしれない。

 朝会ったときに、慎二先生もだるそうに見えた。おそらくもうその時から発症していたのだろう。私をこの旅に巻き込んだ責任感からここまで持ちこたえたのだろうか。


 感染したのはおそらく橋本先生と同じ時だ。タイムリミットは刻々と迫っている。

――もし、ウクライナ産のビーツが効果なかったら、効果があるとしても即効性がなかったら。

 出発前の勢いがしぼんで不安が心の中でどんどん大きくなる。


 ビーツが有効だと思うのは、こっちの都合のいい推測に過ぎない。何の確証もないのだ。否定的な考えが次々に湧いて来る。マイクロチップに頼りすぎている自分に嫌気が差す。

 だが、もう引き返せはしない。事実として二人は感染してしまったのだ。僅かな可能性でも捨てることはできない。そしてダメだったら、もう一度考えるしかない。

 自分を無理やり奮い立たせる。



 目的地であるビストロキエフに着いた。ナビゲーションがお疲れさまでしたと労ってくれた。

 後席を確かめたが、二人とも動けそうにはない。ダッシュボードの時計は十時五分前を示している。時間はあまりない。車を飛び出て店のドアを叩く。


 ビストロキエフの店主は優しそうな中年の女性だった。ウクライナを旅したときに、ウクライナ料理に魅了されてこの店を始めたということだった。


 時間がないのですぐに食糧庫に案内してもらう。店主は輸入食材だが大丈夫かと心配そうに聞いて来る。説明している時間もないので、大丈夫だと短く答えてビーツが入った段ボールを二箱運ぶことにした。お金を払おうとしたが、どうせ使えない食材だからお題はいらないと断られた。


 食糧庫を出るときに戸口でハーブの香りがした。これは何の香りかと店主に訊くと、ウクライナでよく使われる食材で、ディルという香草だという。何となく気になって、ディルの入った袋も一袋分けてもらい、ポケットに突っ込む。


 慎二先生と橋本先生にすぐにビーツを食べさすには、どうしたらいいか店主に相談すると、キッチンですりおろせばいいと言われた。店主に案内されてキッチンに入ると、店主がビーツをすりおろして、お持ち帰り用のプラ容器に詰めてくれた。


 ビーツの段ボール箱の上にプラ容器を載せ、店主にお礼を言って店を出る。

 車に戻るとまだ二人とも眠っていた。気のせいか息が荒くなったようだ。

「慎二先生、起きてください」

 身体を揺するが反応がない。思い切って無理やり口を開けて、ビーツのすりおろしを流し込む。慎二先生の喉が、かすかに動いて嚥下していく。それを何度も繰り返し、だいたいビーツ一個分の量を飲ませることができた。相変わらず意識はない。


 次に橋本先生だ。同じように身体を揺すると、少しだけ意識が戻った。何か言いかけるのを制して、ビーツを飲ませる。橋本先生は上手に飲んでくれたが、飲み終わると再び眠りに落ちた。


 何か変化がないかと二人を見るが、何の変化の兆しもなかった。今は他に手立てがないので、タイムリミットの十二時まで車をここに停めて様子を見ることにした。


 十一時を過ぎても二人に回復の兆しはない。息がだんだん荒くなっていく。額に手を当てると妬けるように熱い。体温を測ると二人とも四一度を越えている。

 キメラの末期症状は、熱で全く動けなくなって、苦しむこともあがくこともなく、そのまま死んでいく。後一時間でなんとか持ち直さないか祈るような気持ちだ。


 三十分が過ぎた。二人とも一向に回復の兆しは見えない。

――ダメなのか。

 脳裏で毬恵さんや木乃美ちゃんが、同じように動かなくなる姿がダブった。ダッシュボードの時計が無情に時を刻む。絶望感が浮かぶのを必死で打ち消す。


 ふとポケットに入れたディルのことを思い出した。ハーブの香りに何となく惹かれて持ってきたが、これを口にすれば少しは刺激になるかもしれない。

 袋を開けて何本か掴んで無理やり二人の口に押し込んだ。もう飲み込む力がなさそうに見えたが、口の中の違和感がしげきになったのか、二人とも噛みしめている。


 時計を見ると後、五分で十二時になる。

 もう祈ることしか手立てがなかった。心の中に二人の命のカウントダウンが始まっている。ファイナルカウントダウンだ。

 時計の針が十二時を差そうとしている、心臓が口から飛び出そうになる。ダメかと思った瞬間だった。


「柊、さん。ビーツは、手に、入れたの……」

 慎二先生の声だった。顔を見ると久しぶりに慎二先生の目が開いていた。

「手に入りましたよ。これでみんなを救いましょう!」

 私の声に慎二先生はうん、うんと頷く。


「希望は、つながり、そう、ですね」

 橋本先生も意識を取り戻した。

 時計は十二時を回っていた。もしかしたら助かったのか。気が付くと涙が流れ落ちていた。

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