戦う意義 ――選挙戦開始、そのとき私は
ちゃぶ台と呼ばれる家具がある。横一一〇センチ、縦七○センチの長方形の木の天板に三〇センチ程度の木の脚がついているローテーブルで、畳と呼ばれる通気性の良いカーペットの上に、座布団と呼ばれる厚みのある敷物を敷いて直接座って使う。
最初膝を組んで座ったら、行儀が悪いと慎蔵先生に窘められ、胡坐と呼ばれる正式な座り方を教わった。満江さんはもっと難易度の高い正座と呼ばれる座り方をするが、これは足が痛くてとてもじゃないが十分と座ってられない。
ちゃぶ台は非常に多機能で、食事のときはダイニングテーブルと成り、家族団欒のときはお茶やお菓子を置くリビングテーブルに変わる。満江さんの淹れてくれるお茶は、とてもちゃぶ台とマッチして独特の味わいがある。
今朝も慎蔵先生、満江さんと三人でちゃぶ台を囲んで朝食をとる。満江さんの料理は絶品で、今日は鮭の切り身を焼いたものに卵焼きに胡麻和え、更には鰹節の香り豊かなお味噌汁と、絶妙のハーモニーを奏でている。
特に満江さんの炊くご飯は水加減がいいのか研ぎがいいのか、ふっくらとして粒立ちが良く、どんなおかずにもぴったりと合う食卓の陰の主役だ。
幸せな気持ちで頂いていると、慎蔵先生が
「今日はいよいよ告示だな」
「はい、これから一週間、東さんの選挙が始まります」
「柊さんは何をするんだい」
「東さんの事務所で立候補届終了の連絡を受けたら、今まで未来の市政像として個人的に宣伝していた基本戦略を、正式に東さんの選挙公約としてインターネットにアップします」
「へー、てっきりポスター張りとか手伝うのかと思っていたよ」
「それも大事ですが、インターネット上の東さんのホームページは、考えようによってはポスターと街頭演説と選挙カーを兼ねたものかもしれませんよ」
「そうなのかい。年寄りにはさっぱり分からんが」
「従来の選挙に慣れている年配者の方には、今まで通りの方法でアピールしていきます。インターネットは若者と働くお母さんがターゲットです」
「どうしてそうなるの?」
満江が不思議そうな顔で聞いてくる。
「どちらもスマホのヘビーユーザーなんです。今の若者は、考え方や行動の指針になる情報をネットで得ています。ねらいは票を得るよりも選挙に興味を持って、投票所に足を運ばせることにあります」
「投票率を上げて浮動票を増やすのか」
「そうです。五十%前後の投票率では勝ち目がありません。せめて六五%まで上げて、初めて同じ土俵に登れるという感じです」
「そうなの、じゃあ働くお母さんは?」
満江はそっちの方に興味新々のようだ。
「もちろん投票率を上げるという目的もありますが、何よりも、今回の東さんの政策で一番のねらいとしている層だからです」
いつしか慎蔵先生と満江さんは真剣な顔つきに変わっていた。
「東さんの戦略の基本は、小児医療の充実と教育改革です。どちらも時間のとれない、働くお母さんの負担を軽減するものです」
「あまりそっちを強調すると男にそっぽを向かれないかい」
「職場ではなく、家庭として考えれば、子育ては女性だけの問題ではありません」
「なんでそんなに子供に拘るんだい」
「そこが東さんの社会に対する考え方の基本なんです。彼は例え人口が増えても夫婦だけの世帯では、真の地域に根を下ろした状態ではないと言ってます。やはり子供がいて、子供を通じて地域社会に溶け込まないと、ダメだと主張します。ここで育った子供たちにとって富士沢市は故郷と成ります。彼らが富士沢を大切な街だと思ってくれることによって、この街は未来に向かえる街になります」
「ふーん、それで具体的には何をするんだ?」
「クラウド利用による在宅勤務促進戦略のメインターゲットは、やはりネットと親和性の高いIT関連職種です。でも日本の女性に一番多い職種はやはり事務職です。だが企業としてはこの職種にあまりコストをかけたくない。東京の場合、コストの中で大きいのは人件費と事務所費です。事務職の在宅化を促進して、事務所費用や通勤費の大幅削減を提案します」
「提案って誰が提案するんだい?」
「市が提案します」
「市って市役所がそんなことをするのか?」
「新しい市役所です。しかも営利が目的ではない。富士沢市が東京の企業へのアウトソーサーとなりえる環境を構築し、ソリューションを準備する。そしてネット職安も準備する」
「インターネットだったら市民以外も使えるんじゃないか?」
「東さんはそこはあまり気にしていません。まずはこの事業に従事する人を増やして、大きなニーズに応える体制を作ります」
「まるで国の政策みたいだな」
「確かに国家規模の話ですね。そこが東さんのすごいところで、国のように利害関係が複雑に絡み合った機関では、スピーディーに動くのは難しいから、素早い実現を目指すには市のような小さな単位がいいと言ってました」
「まあ、市長は総理大臣と違って市民の直接選挙だからな。政党間の利害調整とかそういうものとは一線を画すよな」
慎蔵先生は妙に納得したような顔で、私の話を肯定した。
「いいわねぇ。大企業とか大病院のご機嫌を取るんじゃなくて、お母さんを助ける政策って。私は柊さんたちを応援するわ」
「ありがとうございます。そういう理解をネットを通じて拡げていくために、ホームページに寄せられたコメントに対するアンサーの充実など、私のやることはたくさんあります」
「頑張るのもいいけど、身体だけは気を付けるのよ」
満江さんは心配そうな顔で働きすぎを注意してくれた。
「まるで親子の会話だな」
慎蔵先生が嬉しそうに茶化す。
――そうか、こういうのが親子の会話か!
また一つ新しい経験を経て、私は東選挙事務所に向かった。
事務所に着くと、東さんと毬恵さんは立候補の届出のために、不在だった。事務所内は東さんたちが帰ってきたらすぐに動けるように、ポスター張りの準備などで、ボランティアたちが慌ただしく働いていた。
私も昨夜用意した東候補者のホームページをすぐに立ち上げられるように、パソコンを開いて準備を始めた。
「お帰りなさい」
東さんの姿が見えると、若い女性のボランティアが元気よく出迎える。その声に連鎖して次々に「お帰りなさい」の声が響く。
「皆さん、立候補届は無事に受理されました。選挙が始まります!」
東さんの開戦宣言に周囲でどっと歓声が上がり、その喧騒の中で私は、ホームページ立ち上げタスクをスタートした。
およそ三十秒後、事務所の大型モニターに「令和二年富士沢市長選挙立候補 東丈晶」と記されたホームページが立ち上がる。
それを見て、「ワー」っと、周囲から歓声が上がった。直後にポスター張り部隊が飛び出していく。後援会長はしげしげとモニターを見つめた後で、感心したような顔で私の方を向いた。
「時代の変化を感じるなぁ。柊さん、今儂は新しい選挙スタイルを間近で見て、感動しておるよ」
商店街の顔役として、過去に様々な候補者の応援を続けてきた後援会長だが、これだけデジタルが前面に出た選挙の経験はないようで、驚きの声を上げた。
「柊さん、これから選挙カーで街宣に出かけます。一緒に来てくれませんか?」
「いいんですか?」
まさか誘われるとは思っていなかったので、驚いて聞き直してしまった。
「もちろんです。柊さんも街の雰囲気を肌で感じてください」
もちろん異論はない。ずっとネット空間から外に出て、現実に人が息吹く世界に飛び出す必要性を感じていた。嬉々として外出する支度を始めていると、背後に視線を感じて振り向いた。
そこには毬恵さんの鋭い目があった。そう、彼女は吉原先生の手術依頼、私のこの時代にしては驚異的な技術に、違和感を感じ始めているのだ。
毬恵さんは私がにっこりと笑うと、愛想笑いを返して選挙カーに向かった。彼女に全てを伝えられないことが、少しだけ悲しかった。
まだ夏の名残がある九月の日差しの中で、沿道を選挙カーがゆっくりと進んでいく。ボランティアのウグイス嬢は、懸命に東さんの名前を連呼している。東さんは窓をフルオープンにして、道行く人に手を振り続けた。
初めて見る光景に私は身震いがした。自分に対して、どんな感情を持っているか分からない相手が怖いのだ。
この光景を見る人、スピーカーから出る声を聞く人は、自分のことが嫌いかもしれない。
不特定多数の他人の心の世界に働きかけることが、こんなに怖いことだとは想像もしていなかった。
これが選挙なのだ。この厳しい状況に負けない精神力がなければ、この戦いの舞台にあがることもできない。
ふと、パソコン画面に目をやると、ホームページの閲覧者カウンターが、急激に跳ね上がっていたことに気づいた。オープンして四十分程度しか経ってないのに、既に閲覧者は六千人を超えている。
その数は富士沢市の有権者数二十万人の約三%にあたる。全員が富士沢市民ではないとしても、心強くなる状況だった。
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