第三章 5.エダーの過去
目の前にいるケイスケやリラは聞き惚れたようにサラリアを見つめている。
俺は普段から歌なんて一切聞かないし、目の前の豪勢な美味い食べ物さえあればどうでもいい。
そのはずだった。
だが、道中に助けたこのサラリアという女の歌声がこの耳から離れようとしない。
それはとても儚ない声で、耳元で囁くように歌うその女を、この美味しそうな料理を食べる手を止めてまでも見入ってしまう。
だが、あの歌声を聞いていると、
まるで心の奥底に閉まっていたものを勝手に掘り出されている気分だ。
閉まっておきたい、それは閉まっておきたいんだ。
なぜこんな歌声に惑わされるのか。
聞きたくないと思っても、あの妖艶な歌声に耳を傾けてしまう。
何か、何かがおかしい。
こんな気分になったことは今までに一度もない。
いや、もしかしたら、昔はずっとこうだったのかもしれない。
あいつと会うまでは――
「ここはどこだ……?」
よく見るとそこはとても見覚えのあるあの荒れくれた町だった。
そう、無法地帯と言ってもいいぐらいの荒れ地だ。
建物は皆壊れかけ、あちこちの窓は割れ、無惨でボロボロだ。
そう、十七歳まで俺が過ごしていた場所だ。
もう戻ることはないと思っていた。
なぜならあの過去は二度と思い出したくないからだ。
あの頃はとにかくなんでもやった。
そうしないと生きられなかったからだ。
生きたかった。
何がなんでも生きたかった。
生きて、この酷い有り様な現実に抗いたかった。
どんな思いをしてもその気持ちさえ忘れなければ、まだマシな気がした。
だが、なぜか、再びここに立っている。
もうあの生活には戻らない、そう決めたのに。
「おい……エダー、お前はなぜリンガー王国の隊長なんてやってるんだ……俺を見捨てるのか?」
背後から男の声が聞こえ振り向くと、
右手には切れ味の良さそうなあの短剣を握っている。
「お前は……これは、一体どういうことだ……」
「いいよな、お前は。そんなに正義気取りで。お前にはこんなに薄汚い血が流れてるってのによ」
血走った目で憎たらしそうに見つめてくる。
「……違う! 俺は自身の過去を受け止めている、受け止めて救ってもらえたんだ……あいつに……」
「……またいい子ぶりやがって、エダー。この俺を見てもそう言い切れるか? この頬の傷、短剣を見ろよ。お前の過去を知った奴が喜んだと思うか? 許されていると思うのか? この本当のお前を……!」
そうだ、こいつは過去の俺だ。
こいつが訴えかけてくる。
過去の罪を。
俺が犯した過ちを。
こいつの体には血だ、あの血で染められている。
過去にあの短剣で殺めた人間のおびただしい血液が、この目の前に立つ自分にまるで呪いのように染みついているのだ。
「俺は……過去の自分を……悔やみ、償いたいと思って……!」
「だが、それでもお前の過去は変えられない、見ろよ、これが現実だ。この血塗られたこの体が……なぁ、殺人者よ……」
あぁ、血だ。
あの時の血だ。
「仕方なかった、あれは仕方なかったんだ、ああすることしか、俺は、俺は……生きられなかったんだ……!」
「違う、お前は選択した。この選択を。あえて選んだんだよ」
「……違う! 違う、違うはずなんだ……」
もう、過去の自分を直視出来ないでいた。
言葉で拒否をしても、この脳はそうじゃないと言っている。
確実にそうだ、と。
目の前の自分はあの短剣をぎらつかせ、こちらにじりじりと近付いて来ているようだ。
「おい、見ろよ! 何も変わらない、今のお前も……この過去の俺となんら変わらないんだ! さぁ、ここへ戻れ。そんなとこにいないでさぁ。なぁ、苦しいだろ? 辛いだろ? いつも。こんな俺に人を救う資格があるのかってさ」
あいつの声に呼応するように、サラリアの歌声がどんどん大きく響いてくる。
思わず頭を抱えた。
この歌声だ、この声がおかしくする。
まさかゴル軍の罠なのか。
だが、だめだ、引き寄せられる。
この歌声で、過去の悲しみに取り込まれそうだ。
「うう……」
「さぁ、今そこから解放してあげるからさ」
その鋭く尖った短剣が勢いを付けてこちらへ振り落とされた事に気が付いた。
だが、この苦しみから逃れられるのなら。
今までずっと苦しみ続けたのだから。
それもいいのかもしれない。
やっと、楽になれる――
『エダー!! リラがいない! どこにもいないんだ! 泣いてる場合かよ!』
突然どこからか聞いたことのある男の声が周囲に響く。
「くそっ誰だ……」
過去の自分が辺りを見渡している。
「リラ……?」
『おい、ずっとそうやって泣いてるつもりかよ! もうオレ一人で探しに行くからな!』
「一人で行く……だと?」
ふつふつと何かとてつもない不快な思いが沸き始めた。
ああ、なんだかとてもイライラしてきた。
爆発しそうだ。
なんだこの隠しきれない感情は。
『オレは一人で行くからな! 一人で!! この瀬戸敬介が、リラのところへ一人で! 行くからな!』
途端にその思いが何か分かった。
怒りだ。
「……はぁ? お前とリラを二人きりにさせるわけねぇだろ! 馬鹿が!」
同時に顔を上げた。
途端にあの歌声が頭から消え去った。
今なら分かる。
ひねくれ言葉を言うあいつのおかげで過去の自分から助けられたということが。
リラと二人きりにさせていい男なんてこの世には存在しない。
だがもしそんな奴が現れたら――
目の前にいる俺が困惑した表情で立っている。
「……お前は俺の過去だ。そのことには変わりはない。俺はお前を……捨てたかった。だが、受け止めているんだ」
「そんな……綺麗事を……!」
「ああ、分かっている。だが、お前はもうすぐ会うんだ、あいつに。お前はあいつに対するこの思いを知らない。この思いだけは、到底未来の俺にかなうわけないんだ。そうだ、お前はこの思いと共に変われるんだ、必ず。自身を受け止めてくれる人が必ずこの先で現れる。お前を理解してくれる人達がな」
「……変われるだと? この俺が……?」
信じられないと言うような表情を浮かべてはいたが、その目はどこかにある希望を探している気がした。
「……あぁ、必ず……!」
まだ痩せ細っているこいつの肩を力強く叩いた。
途端に周囲がゆがみ始めた。
過去の悲しみに捕らわれた自分自身に会い、殺されかけるとは、なんて滑稽な術だ。
だが、いつだって人間は弱い生き物だ。
小さくなった傷跡でも、少しでも掘り返されるだけで、後悔や疑念、様々な思いに引っ張られる。
そしてまた下を向き、前を向けなくなる。
だから、意思を強く持って生きているんだ。
――それぞれの覚悟と共に。
真っ赤な血に染まる十七歳の自分を最後はしっかりと、この目に焼き付けた。
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